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ときめく時の中で総集編 第12集


   ときめく時の中で(201)

  迷いの季節(1)



 高くなった空と雲が秋を感じさせてはいるが、まだまだ残暑が消え去る気配はない。
 夏休みを終え、生徒達がきらめき高校に戻って来ていた。

 始業式が終わり、各クラスで、これからの予定の連絡が伝えられる。
 将達のクラス3−Bでも、その連絡、いわゆるホームルーム(HR)が行われてい
た。
 一通りの連絡事項が伝えられると、担任が将を名指しした。
「あ、吉野君」
「はい?」
「後で進路指導室に来なさい。重要な話があります」
「あ、はい」
 そう答えたものの「重要な話」とは何なのか、将には全く想像がつかなかった。
「何だと思う? 和人?」
 将にそう聞かれた和人だったが、和人としても答えようがない。
「わかんねえって。行ってみるしかないんじゃないの?」
「先生がお祝いしてくれるのかも知れないよ」
 のんきな声でそう言ったのは、横に座って聞いていた優美だった。さらに、そばにい
た四本松もうなずく。
「あのなあ早乙女。それ、シャレになってないよ」
 将は疲れたような声でそれに答えた。そう言うのには、もちろん、訳がある。
 4人はそれぞれの視線を、教室の後ろの方に向けた。
 そこには、大きめの花束が置かれていた。

 それは、始業式の始まる前、将のクラスに、下級生の女子が数名訪ねてきたことに、
話はさかのぼる。
「え? これを俺に?」
「はい、私達から、吉野先輩へ、インターハイでの優勝のお祝いです」
 恐らくリーダー格なのだろう、一人の女子が抱えるようにして持ってきた花束を、将
に差し出した。
「いや、でも、なんて言うか、 ・・・困るよ。こういうのは」
 戸惑う将の横を、登校してきた四本松が通り過ぎた。その間際、冷やかすような声で
四本松が言った。
「いいんじゃないの? 
 せっかく持ってきてくれたんだから、もらっておけば?」
「お、おい」
 焦る声の将に四本松は、自分の席に向かう途中で、にっこりと笑いながら肩ごしに振
り向いた。
「将くんは、今やきらめき高校一の有名人なんだからね」
「四本松・・・ 」
 四本松の笑みには、嫌味とか他意と言う物はない、それは判っているのだが、将とし
ては苦笑いを浮かべるしかない。
 いかにも不慣れと言った感じで、将は花束を受け取ったものである。

 実際、インターハイが終わってからの、将の対する「人気」と言うものは、パニック
に近いものがあった。
 実のところ、インターハイではサッカー部も優勝していた。もちろん、そちらの人気
も相当なのだが、団体競技のサッカーでは、どうしてもその対象が分散してしまう。
 男子シングルスでの優勝という将は、それが集中してしまうのである。
 学校内はもちろんの事、地元の商店街までも巻き込んでの騒ぎにまで発展していたの
である。
 正直なところ、将は少しばかりうんざりしていたのも事実だった。



「失礼します」
「お、来たな」
 進路指導室に来た将は、担任の教師に一枚の書類を見せられた。
「何ですか? これ?」
「吉野君に対する、大学側からの推薦入学希望だよ。
 T大、K大、S大、その他、全部で14大学から、この夏休み中に連絡があった。
 こんな形で、大学から連絡が来たなんて事は、先生たちも初めてだから、どうしたも
のか判らなくてな。
 とりあえず伝えておこうかと思ったわけなんだ」
 将はしばらく、そのリストをぼうっと見ていたが、やがてぽつりと言った。
「なんだかスカウトみたいですね」
「ウーーン。教師としての立場からは、あんまりこういう事は言っちゃいけないんだろ
うが、実際、そういう事だろうな。
 インターハイでの君の圧倒的な強さは、関係者にはかなり印象深く残ったらしい。
 まあ、結論は今すぐ出さなくってもいいが、こういう事があると知っておいてくれな
いかな?」
「は、はあ」
 それに対する将の答えは、力のこもったものとは、とても言えなかった。



「おらおら、ぼけっとしなさんな!
 秋の新人戦、公式戦に向けた戦いは、もう始まってるんだからな!」
 きらめき高校内のテニスコートでは、西島の元気な声が響き渡っていた。
 まだ将達3年生は、引退したわけではなく、本来なら3年生が指揮をとっているはず
なのだが、1、2年生達が俄然やる気を出しているため、夏休みが終わった今日の時点
で、実質的な運営が早くも移動し始めていた。
 その光景を、連尺と将が、コート脇に立って眺めていた。
 手持ちぶさたで、何となく、将の進路指導室での件についての話題になっていた。

「それで、将くんはどうするつもりなの? 大学」
「うーーん、なんて言ってもいきなりだしなあ。何とも言えないよ。
 それに、大学に行くなんて、今まで考えたことも無かったからな。
 早く働きたいというのもあるし・・・ 」
「やっぱり、お母さんのため? 楽にさせてあげたくて?」
 連尺は多少なりとも将の家の事情は知っていた。将の性格を考えれば、そう思うのも
無理はない、と思う連尺だった
「と言うより、本当に、ちっちゃい頃から大学に行けるなんて、俺、考えてもいなかっ
たからね。
 こうやって高校に来る事ができただけでも充分なのに、大学なんて、どうも実感わか
なくって」
「ふーん、そう言うものなのか? じゃあ、就職するの?」
「うん、そうしたいけどね」
「プロにはならないの?」
「え?」
 連尺が口にした、意外な単語に驚いた将は、連尺の顔を見つめた。
「何だって?」
「だから、プロテニスプレイヤーにならないの?って言ったのよ」
「誰が?」
「何言ってるのよ? 将くんに決ってるじゃないの!」
 その時の将の表情は、まさに鳩が豆鉄砲を食らったような、と言う表情になっていた。「俺が、プロに? まさかぁ ・・・」
 独り言の将に、連尺は右手の人指し指と中指を額に当てて思った。
(ここまで来たんだから、もう少し自覚してよぉ)
 その心の嘆きを知りもしない将に、連尺も苦笑いを浮かべた。
 そんな時、テニス部員達に声が上がった。
「こんにちは古式先輩!」
「こんにちは」
「はい。こんにちは。まだまだ、暑いですねえ」
 答えるその声に聞き覚えのある将は、我に帰り、その声の主の名前を呼んだ。
「ね、姉、 ・・・古式先輩?」
 将の視線の先、コートのすぐ外側に古式が立っていた。



   ときめく時の中で(202)

  迷いの季節(2)



 古式が運転するドイツ製高級車の助手席で、将は黙り込んでいた。
「将くん、ご機嫌、斜めのようですね?」
 にこやかに笑いながら言った古式の問いかけに、将が素っ気なく答える。
「別にそんな事は無いです」
「ほら、やっぱり」
「・・・・」
 将は声をなくした。
 しばらく流れる街並みを眺めていた将だったが、ようやく口を開く。
「だって、ここ数日、古式のお父さんも、姉さんも、なんか強引だから、戸惑うのも無
理はないでしょう?」
「うふふ。そうかも知れませんねぇ」
 そう言ってクスクス笑う古式に、将はやや憮然とした表情になってしまった。


 将がいうここ数日というのは、2学期の始業式の日、学校に、古式が将を訪ねてきた
ことに始まる。
 全く事情の飲み込めない将に構わず、古式は車に将を乗せ、将の家へと急いだのだっ
た。
 そこに待っていたのは、仕事が休みの美里と、古式の父親だった。
「?」
 ただただ、首を傾げるばかりの将に、古式の父親は説明を始めたのだが、その内容は
将にとっても、美里にとっても突飛な物だった。
「ミズホスポーツ、ですか?」
 やや間の抜けた声で将がそう言うと、古式の父親が聞いた。
「知っているかね?」
「ええ、それはもちろん。
 国内、いや世界でも有数のスポーツ用品メーカーじゃないですか?
 俺が使ってるラケットだって、テニス部のユニフォームだってミズホのですよ。知ら
ない訳ありません。
 そのミズホが、何か?」
「うむ。そのミズホが、今度、スポーツ事業部という部署を、大幅に拡大するというこ
とだ」
「 ・・・はい」
「サッカーや野球等とはやや違うプロスポーツに、これから力を入れるということなの
だ。
 まず手始めとしてゴルフ、スキー、そしてテニス。この3競技に力を入れるそうだ。
 将くんなら、私が何を言わんとしているのか、薄々判るのではないかな?」
 将の眼光が鋭くなる。それはまさに図星なのだから。
「つまり、今まではスポンサーとしての関わりだったのが、自社の社員でまかなう。
 契約社員、もしくはプロ契約ですか?」
「うむ、その通りだ。
 スポーツ事業部内にゴルフ部やスキー部、テニス部を新設。
 元々、この3競技は、”何々教室”という仕事でも充分採算が取れていたのだが、今
回の改変はそれにとどまらず、世界に通用するプレーヤーを育てようという長期にわた
った計画なのだ。
 テニスを例にとるならば、レッスンプロではなく、世界を転戦するツアープロを育て
ようというわけだ」
 そこまで聞き、将は大きなため息をついてから言った。
「まさか、それで俺に目を付けた、と?」
「そのまさかだ。いや、まさかではないな。
 インターハイ優勝という実績を持つ将くんが、そう言った注目を浴びるのはむしろ当
然だろう。
 それに、今回、ミズホがそれに負けず劣らず期待しているのが、将くんのルックス
だ」
「ルックス? ・・・顔ですかあ?」
 一転して将の声から力が抜けた。
「そうだ。どんな世界にも、その世界を広げるためにはアイドルは必要なんだよ」
「アイドル、 ・・・ねえ」
 将の声には普段の彼からは想像し難い、多少の毒気が含まれていた。
「そう言わないでくれ。その前に実力が伴わなければいけないのは当然で、もちろん、
将くんのそれは認められた上でのことなんだから」
 苦笑いと共に答えが返ってくると、将は声のトーンを落として聞いた。
「で、俺にどうしろと?」
「うむ、そこなんだが。
 今度の日曜日、隣の市にある、新設されたクラブハウスで、一度そのスタッフ達と
会ってもらえないか?」
「は?」
「いや、難しくは考えないでもらいたいのだが、決して試験とかではなく、会社訪問と
して来て、施設などを見ていって欲しいと言う先方の希望なんだ。
 ある程度人生を決める選択だから、返事は後でいいという事らしい。
 どうだろうか?」
「うーーん。話は判りますけど、なんで、今、なんですか?」
「そりゃ会社訪問が解禁になったからだろう」
「それって大学の話じゃないですか?」
「同じ事だよ。目星をつけた人材には早めにつばを付けたい。それはどこの企業でも同
じじゃないのかな?
 それに一つ忘れているようだが、その新組織は来年の1月から本格的に始動するの
だ。ツアーのスケジュールに合わせてね。
 それほど、早くもないだろう」
「そう言うもんなんですかねえ?」
 将は納得したような、しないような表情で、両手を口の前であわした。
「ちょっと待った」
 そう言ったのは、それまで聞き役に撤し、沈黙を守っていた美里だった。
「確かに面白い話ではあるけど、そもそも、その話、なんであなたが持ってきたの?
 この話で、古式不動産はなんかメリットがある訳?
 それとも、あなた個人で何かあるのかな?」
 美里の追及に、古式の父親は苦笑いを浮かべる。
「やれやれ、美里には敵わないな。その通りだ。
 あまり一般的には知られてないが、ミズホスポーツというのは伊集院財閥のグループ
なのだよ」
「え? そうなんですか?」
 将はただ、驚きに感心の成分を含ませた表情を浮かべるのみだったのだが、美里は納
得したように言った。
「なるほど、伊集院のじっ様が絡んでいるわけね?」
「有り体に言えばそうだ」
 その返事に、美里は頭をかきながら、独り言のような口調で言った。
「それじゃ断れないわね。あなたの立場じゃ」
 美里は判ったような顔になったのだが、残念ながら、将にはその辺りの事は、全く理
解できなかった。
 ただ、この二人の過去に、伊集院家が少なからず関わっている、と、想像するだけで
ある。
 そして、それはうかつには聞いてはいけない事項である、ということも、なんとなく
判ってはいた。
 そんな将に、美里が言った。
「将、お母さんからも頼むわ。この人の顔を立てると思って、ね?
 この話を断る断らないは、将の判断に任せるから。
 どう?」
 どう?と聞かれても、実の親である二人からそう言われたら、理不尽な事でもない限
り、断ることなど将には到底できない。
「判った。実際、興味がない話じゃないから、行くよ。今度の日曜日ですね?」
「おお、ありがとう、将くん」
「良かったですね、おとう様」
 喜びを交わす古式親子の姿に対して、将と美里は、無言で視線を交わすのみだった。


 それから数日がすぎ、その約束の日が今日というわけである。
「ところで、姉さん」
「はい、なんでしょうか?」
「なんで姉さんが、運転手をしてくれてるんです? 他に予定はなかったんですか?」
「特にありませんでしたし、隣の市とは言え、クラブハウスに行くまで、交通機関は、
ありません。
 このぐらいの事は、させてください。 ・・・ご迷惑ですか?」
「え、いや、感謝してますよ。ありがとうございます」
「そう言って、いただけると、嬉しいですねえ」
 そんな会話をしているうちに、将と古式は目的地に到着した。
 
「うわ。こりゃすごいですね」
 思わず将は、ため息交じりの声を漏らしてしまった。
 それも無理はなく、クラブハウスは鉄筋4階建ての立派なものだったのだ。
「さあ、参りましょう」
「は、はい」
 古式の声に促され、将は荷物をトランクから出し、クラブハウスへと入っていった。



 そのわずか数分後、将達の乗ってきた車の横に、一台の車が止まり、二人の男が降り
立った。
 運転席から降りたのは、赤毛の髪を持った、スーツ姿のやや小柄な男だった。
 彼はトランクからスポーツバッグを取り出すと、何事か、もう一人の男に言った。
 それは日本語ではなかった。
 その声に、助手席から降りた、白いカジュアルウェアを着た男が振り返り、短く答え
る。
 2m近い身長と、細身ではあるが、たくましさがはっきりと判る身体。
 何より人の目を引くだろうと、誰もが容易に想像できる、やや長めの輝くような金色
の髪。
 その男は辺りの景色を見ようと、それまでしていたサングラスを外した。
 そこには氷を思わせるようなアイスブルーの二つの瞳があり、陶磁器を思わせるよう
な白い肌は、芸術品の彫刻を思わせるような顔立ちを型どっていた。
 男達は再び会話を交わした。それはドイツ語だった。
 スーツ姿の男が言った。
『疲れたか、ラルフ? 日本は遠いからな』
『いや、大丈夫だ。
 それに、遠いなんて言ってられないじゃないのか? この契約は外せないんだろ?
 カール?』
『確かにな。ミズホがスポンサーにつけば、安心してツアーに専念できるようになる。
 ”若き皇帝”から、”皇帝ラルフ=ハインツ=ミューゼル”と呼ばれるための第一歩
なんだからな』
『ああ、そうだね』
 金髪の男、ラルフはそう言って、空を見上げた。



   ときめく時の中で(203)

  迷いの季節(3)



 「ドイツの若き皇帝」
 それが、ラルフ=ハインツ=ミューゼルに付けられた、テニス界ではつとに有名な、
あだ名である。
 ドイツでの貴族の家系を持ち、幼少の頃よりテニスでその才能を存分に発揮していた
彼は、3年前、17歳の時にプロデビューを果たした。
 そして、現在までのわずかな間に、世界プロテニスランキングのトップテンに入ると
言う活躍をし、目下、人気、実力とも急上昇中と評される人物である。
 頭角を表わせば、当然のようにスポンサーなどで企業が動く。
 それまでラルフは、意に沿わない契約をするぐらいなら、と、数ある企業とのスポン
サー契約を断っていた。
 家にそれだけの資産があるからこそ出来た、と言う陰口も叩かれたが、実際は初年度
こそミューゼル家の資産をすり減らす事となっていたのだが、2年目からは賞金など
で、充分プロとしての活動が出来るようになっていた。
 スポンサーがつけば資金面で余裕が出来るが、逆に、自分の生活、活動に制約を受け
る場合がある。ラルフはそれを嫌ったのだった。
 それが逆に、彼自身の資産価値を高める事となっていた。CM等に出演しない事が、
一種のステータスのような物になってしまったのだ。
 そんな彼が、今、日本にいるのは、日本の企業ミズホが、彼とスポンサー契約を交わ
したいと申し込んだ事に端を発する。
 元々、ラルフは企業と契約すること自体が嫌いなわけではない。その条件さえ折り合
えば、いつでもその用意はあったのだ。
 今回、それに見合う条件をミズホが提示してきた。そして今日、その最後の調整をす
るために来日したのである。


『当社としましても、ミューゼルさんの活動に口を出す気はございません。
 純粋にバックアップをするつもりです』
『それをお約束いただければ、こちらのラルフも満足でしょう』
 かたことのドイツ語で話す日本人スタッフと、カールが話し合う様子を、ラルフはあ
くびを押し殺しながら見ていた。
 クラブハウスを訪れた二人を、ミズホはVIP待遇で出迎えた。
 交渉の担当者はもちろん、通訳、テニス部門の責任者、果ては本社の重役までが出迎
えたのである。
 用意された応接室に移り、さっそく、交渉に入ったのだが、ラルフには何も出来な
かった。
 テニスに優れた才能を発揮するラルフも、こういったビジネスに関する交渉は、マネ
ージャーであるカールに、全て任せていた。
(あーあ、早く、僕専用に作ったというラケットを見てみたいな)
 そんな事を、ただ考えるだけのラルフだった。



「本当にすごいなあ。
 きらめき高校も設備面ではすごいと思っていたけど、やっぱり、全然違うなあ」
 心底感心したように将が言った。
「当然です。我々が目指すのは世界です。ここの設備は世界でもトップクラスのはずで
すよ」
「 ・・・なるほど、世界ですか」
 将はそう答えたものの、「世界」と言う単語に対して、なんの実感も沸いてはこな
かった。

 将と古式は、一人の社員に案内され、クラブハウス内を見学していた。
 今の時点で、将は「お客さん」なので、決して、ないがしろにされることなく、てい
ねいな扱いを受けていた。
 将の感想はそんな中で生まれた。
 確かにそれは無理もない事である。
 クラブハウスは、更衣室、シャワールーム、トレーニングジムなどの設備の他に、テ
ニス教室が行えるように、談話室や食堂等も有り、ほとんど独立した企業であった。
 さらに、屋外に全12面のテニスコートに加え、室内にも2面のコートが用意されて
いたのである。
「雨、風、関係なしかあ」
 室内コートに案内され、天井を見上げながら、将が言った。
「そうですね。学校には、ありませんでしたからね」
 同じく、天井を見上げながら古式が答えた。
 室内コートは、1階から3階部分までをぶち抜いて作られたもので、ある程度の高さ
のロビングは、充分、打てそうな天井の高さがあった。
「試しに今、ここでプレーしてみませんか? 私達も、実際にプレイをした方の意見を
聞きたいですから」
「え? いいんですか?」
 将の問いかけに、社員は笑って答える。
「もちろんです。事前のご連絡で、運動できるウエアなどをご用意してください、とお
願いしたのは、そういう事なのですから」
 その言葉に、将の心は高ぶった。設備の良いコートでプレーをしてみたいというプレ
イヤーならではの欲求は、もちろん将にもある。
「そういう事なら、喜んでプレーさせていただきます。
  ・・・でも、相手がいないと・・・ 」
 そこまで言って、将はハッとし、古式の方に向いた。
「姉さん、ひょっとしてそれを見込んで?・・・ 」
「はい、こんな事も、あろうかと、私も、テニスウエアを、持ってきたのです。
 私でよろしければ、お相手いたしますが?」
「ええ、ぜひ、お願いいたします」
 将がそう答えると、古式はにっこりと微笑みながらうなずいた。
「では、あちらが更衣室になります。どうぞ」
「はい」
 案内され、二人は更衣室へと向かった。



 その頃、ラルフとカールの二人は、交渉が終わり、交渉相手のスタッフ達と共に、室
内コートへと移動していた。
 これから、ラルフ用に作られたと言うラケットやシューズなどの、簡単なテストが行
われるのである。
 スポーツ用品メーカーがスポンサーに付く以上、他社の製品は使えない。
 契約の最後の詰めは、そのラケット等をラルフが気に入るかどうか? という事に
なっていたのである。

『いや、カール、君には本当に感謝しているよ』
 クラブハウス内の廊下を歩きながら、ラルフは小声でカールの耳元で言った。
『はっきり言って、ビジネスの専門用語に関して、僕は素人も同然だからね』
『そうでなければ私の立場がない。
 ラルフはテニスに集中してくれれば、それでいいよ。ともかく今はテストに集中して
くれ』
『ああ、判ってるよ』
 ラルフが笑いながらうなずくと、ミズホ側のスタッフが更衣室へと案内する。
『こちらに更衣室をご用意しています。こちらへ』
『あ、はい』
 更衣室へ向かうラルフ達の反対側から、将と古式がやって来た。
「まともに、勝負をすれば、私では、とても、将くんの、お相手には、なりませんが、
軽く、ストロークプレーぐらいは、出来る、と思いますよ」
「ええ、お願いします」
 ラルフ達とすれ違う時、将は足を止めた。
「どうかしましたか? 将くん」
「え? ええ、今、すれ違った人、どこかで見たような気がしたんです」
 将の声に、古式も首を傾げた。
「そうですねぇ。私も、どこかで、お見かけしているような、気がしていました。
 どなたでしたでしょうか?」
「まあ、ともかく行きましょう。時間も余りありませんから」
「ハイ、参りましょう」


 二人はまだ知らない。
 これが二人にとっての、宿命とも言える出会いだったという事を。



   ときめく時の中で(204)

  迷いの季節(4)



 ラルフは、更衣室に用意されていたウエアに着替えた。
『現在の日本の気候である、高温多湿用のウエアです。
 新素材を使用し、発汗を素早く吸収、蒸発させながらも、不必要に体温を下げず、試
合中のモチベーション、および体力の低下を抑えます。
 ラケットのように、即座には判らないかとは思いますが、実戦になれば、それが実感
できるはずです』
 ウエアを説明するスタッフの言葉に、ラルフは真剣に聞き入っていた。
『高温多湿用と言うことは、他の地域用のもあるんですね』
『もちろんです。今回はお試しいただけませんが、順調に開発中です』
『そうですか』
 ラルフの声に、スタッフはうなずき、さらに続ける。
『他にも、シューズやソックス、さらにはアンダーウエアまでも、ご用意できていま
す』
 ラルフは首を振り、にこやかに笑いながら、辺りを見回して言った。
『なんだかサイボーグになる気分だ』
 その場に笑いが漏れ、そこに10本程のラケットが運ばれる。
『おっと、メインデェッシュの登場か』
 ラルフはそのうちの1本を手に取り、軽くガットを手のひらで叩く。
『もうガットが張ってあるのか。
  ・・・とりあえず試してみろということかな?』
『ラケットの材質や形状、重量まで綿密に計算しました。きっと気に入ってもらえると
思います』
『 ・・・そうですか。それじゃ、試してみようかな』
『ラルフ。最初からそのつもりだったんだろ? さしずめ、新しいおもちゃと言うとこ
ろか?』
 カールにそう言われ、ラルフは苦笑いと共にラケットを軽く振った。
『全く、カールには敵わないな』
『そうすねるな。皇帝のイメージが崩れるぞ』
 ラルフは苦笑いを浮かべるだけで、あえて反論はしなかった。



「姉さん。相変わらずベースラインからの打ち合いには強いなあ」
「そうですか? やっとの事で、打ち返している、だけなんですよ。
 将くんが、本気になれば、とても、かないません」
 将と古式は室内コートで軽く汗を流していた。
「どうですか? この室内コートの使い心地は?」
 同行していたスタッフが、クリップボードにはさんだ紙に、何事か書き込みながら、
二人に聞いた。
 質問にはまず将が答えた。
「いいですね。ただ、照明が時々目に入ってしまうことがあるのが、ちょっと戸惑っち
ゃいますけど」
「それはどの位置のですか?」
「えーと、あそことあそこが、ロビングの時にちょっと」
「あそこですね。・・・E−4、E−6・・・」
 等の質問が交わされ、それが終わると古式の番になる。
 古式は特にこれといった意見はなかったのだが、ふと思い付いたように言った。
「あの、ここで、私のようなものでも、テニスが、出来るのでしょうか?」
「は?」
「ここのテニス教室に、入会すれば、私にも、コートを、使用させて、いただけるので
しょうか?」
 しばらくして、スタッフはその意味が飲み込めたように笑いながら答えた。
「もちろんです。現在もミズホテニススクールは、生徒募集中です。ぜひ、ご入会下さ
い」
「あら? 商売がお上手ですねぇ」
 古式ののんびりした口調に、免疫の無いスタッフが精神的につまずきながらも、笑み
を浮かべながら言った。
「どうです? まだ、続けますか?
 あとコートは1面使う予定があるだけですから、まだ使えますよ」
 将と古式は顔を見合わせてから、将が答えた。
「それではお言葉に甘えて、もう少し」



 将と古式が打ち合いをしている横のコートに、ラルフ達がやって来た。
『さて、試すと言っても、相手がいないと困りますね』
 ラルフの問い掛けにミズホ側のスタッフの一人が、通訳を通して言った。
『私達でよければ、お相手いたします。
 いずれのスタッフも、学生時代からテニスに関わってきた者達です。
 テストのお相手ぐらいは出来ると思います』
 ラルフは正直言って、少し落胆した。おそらくは、そのスタッフが言う通り、それな
りのテストは出来るだろう。
 だが、彼は打つだけではなく、「生きた球」を受けてみたいと思っていた。
(初日から、そこまで望むのは無理か)
 ラルフはあきらめたようにそう思った。
 だが、その時、何かに引かれるように、隣のコートで打ち合う将と古式の姿が、彼の
アイスブルーの瞳に映った。
『カール』
『ん? なんだ?』
『彼は誰だ?』
 ラルフの質問が耳に入った通訳が、気を利かして、その答えをカールに耳打ちした。
『彼は、今年のハイスクールチャンピオンで、来年から契約するように、現在交渉中だ
そうだ』
『来年? 卒業したんじゃないのか?』
『日本は4月が新年度なんだよ』
『ふーーん。なるほどね、良いボールを打つはずだ ・・・』
『ラルフ? ・・・まさか?』
『そのまさか、さ。
 どうだろう? 彼に相手をお願いできないかなあ?』



「どこかで、お会いしたような、気がした、訳ですねぇ。
 ミューゼル選手、だったのですねぇ」
「 ・・・姉さん。感心してる場合じゃないでしょ」
「どうしてですか? こんなにいい機会は、滅多にない、と思いますが?」
「いや、それはそうでしょうけど・・・ 」
 ラルフ側から話があった時の、将と古式の会話である。
 予想外と言うよりも、全く「青天のへきれき」と言うべきものであって、はっきり言
って、将は少し戸惑ってしまった。
 だが、古式の方は、相変わらずと言うべきか、普段通りと言うべきか、ともかく、全
く動じた様子はなかった。
「少なくとも、私の知っている、将くんならば、こう言った機会は、無駄にはしない、
と、思っていたのですが、間違い、だったのでしょうか?」
 将はため息をついて、それに答えた。
「判りました。俺でよければ、喜んで」



 実際のところ、相手をすると言っても、ベースラインから打ち合うというもので、さ
ほど難しいものではない。
 サービスを打ったり、受けたりする事はあるが、基本的には単純なものである。
 ラルフはいくつかのラケットを取り替え、交互に試したり、スタッフと意見を交換し
たりしていた。
 それはまさしくテストと言う類のもので、極端に言えば、それほど緊張しなければな
らないものではない。
 将の緊張のようなものが、ほぐれた頃になって、テストは小休止に入った。
『カール!』
『なんだ?』
 そんな中、ラルフはカールに小声で言った。
『笑わないで聞いて欲しいんだが・・・ 』
『何をだ?』 (フロライン)
『あそこにいるお嬢さんの事なんだが』
 ラルフは拳の親指を立てて、その親指で、振り向きもせず後方を指さした。
 カールは怪訝そうな表情で、ラルフの肩ごしにのぞき込んだ。その先には、将と話し
込む古式の姿があった。
『あのお嬢さんがどうした?』
『いや、つまり、その・・・ 』
『何だい、ラルフ? 君らしくもない、はっきりしないなあ』
『う、うん。あのお嬢さんを、食事にでも誘えないかな?』
『なに!?』



   ときめく時の中で(205)

  迷いの季節(5)



『ラルフ、今、なんと言った?』
『あ! いや、何でもない。 ・・・忘れてくれ』
 目を丸くして聞いたカールに、ラルフは前言を撤回した。
 だが、カールの追及は止まらない。
『そうか、ラルフもついにそういう事に目覚めたわけだ』
『い、いや、そう言うわけじゃ・・・ 』
『なるほど。言われてみれば、確かに、いかにも日本的な女性だな。
  ・・・一目ぼれか?』
『違うって、そんなんじゃないよ』
 だが、カールはほとんど、ラルフの言葉を聞いていなかった。
『あのな、ラルフ。君の生真面目なのは長所ではあるが、それも行き過ぎると害となる
ぞ。
 子供の頃からそうだったが、君は女性に興味がなさすぎる。
 スキャンダルになってはまずいが、多少はそう言う付き合いもしなければ、人間とし
ての成長が妨げられるぞ』
『ま、待ってくれよ、カール。僕は別にそんなつもりは・・・ 。 
 第一、失礼じゃないか。会って間もないのに、食事に誘うだなんて』
『何を言ってる? きっかけなんて言うのは、いつだって突然だし、些細なものさ。
 そんな消極的な事ではいけないなあ。
 それに、二人きりで食事をする訳でもなかろう。通訳がいなければならないのだし。
 練習相手をしてくれたお礼だとか、理由はいくらでもあるさ。』
『そ、それはそうかも知れないが・・・ 』
 煮え切らない態度のラルフに、カールは軽く両手をあげる。
『OK、判った。なら、最初と言う事で、私が通訳にお願いして、話をしてこよう』
『お、おいカール!』
 カールはそう言うと、ラルフの制止する声も意に介さず、通訳を伴い、古式の所へと
やって来たのだった。


 実際に、将と古式に用件を伝えるのは、日本人の通訳だった。
 その通訳の伝えたカールからの提案と言うのは、およそ次のようなものだった。
「お相手していただいたお礼に、この後食事でもどうですか?」
 それに対して答えたのは、将ではなく、古式だった。
「それは、とても、ありがたく思うのですが、こちらの方こそ、いい経験を、させて、
いただいているのですから、そのような、お礼には及びませんが?」
 本来ならば、それに答えるのは将のはずなのだが、その提案の本質に、気が付いてい
るのかいないのか、ごく当然のように古式が答えていた。
 通訳がカールにその事を伝え、その答えを古式に告げる。
「それだけではなく、出来れば日本の事なども聞かせてもらえないか? と言うことな
んですが、いかがでしょうか」
 将はその受け答えを端から聞いていたのだが、カールの脇に立つ、ラルフの落ち着か
ない様子に、なんとなくではあるが状況を察した。
(ちょっと待ってよ。姉さんがお目当てな訳? それはまずいんじゃないの)
 止めようとした将は、なんと言えばいいのか、ふと考え込んでしまった。それはわず
かな時間であったのだが、そのわずかの間に古式が答えてしまった。
「そうですか、そういう事なら、いいのですが、それでは、少しばかり、損得勘定があ
いませんねぇ」
「?」
 将は驚いた。古式の口から「損得勘定」等と言う単語が出てくるとは思ってもみなか
ったのである。
「ね、姉さん?」
 小さな声で聞いた将の疑問に、古式は直接答えずに、通訳に向きながらさらに続け
た。
「出来れば、こちらにいる将くんと、試合をしてくださいませんか?
 そうしていただければ、ご一緒させていただきますが」
『?』
「ちょ、ちょっと姉さん」
 何とも妙な成り行きとなった。交換条件と言うには、やや、趣を異にする古式の返事
に、カールは戸惑った。予想外の展開だったのである。
(なんか、俺、蚊帳の外だなあ)
 そんなことを思う、将に構わず、交渉(?)は続いていった。
 通訳から詳しい事を聞いたラルフは、カールにささやいた。
『いいじゃないか、カール。僕は別に構わないよ。食事云々ではなく、実戦形式で、ど
のくらい使えるか?と言うのも試してみたかったからね』
『そういう問題じゃない。君は先週トーナメントが終わったばかりで、さらに、来週か
らはUSオープンを控えているんだぞ!
 君は練習試合でも、全力を出してしまうタイプだから、コンディション調整が狂うだ
ろ?』
『大丈夫だよ。相手は高校生なんだ。いい調整になるはずだ。それに彼にとってもいい
経験になるはずだよ』
『それがまずいんだよ。経験よりも何より、自信をなくさせてしまうかも知れない。
 ものには順序があるだろう』
 それに答えたのが古式だった。しぶる通訳から、その会話の内容を聞き出した彼女
は、通訳に催促していた。
「いや、しかし・・・」
「いいのです。今、申し上げた事を、そのままお伝えください」
(ちょ、ちょっと姉さん)
 将は内心冷や冷やだったのだが、古式は一切、将に構わなかった。 
 そして、ラルフ、カールと古式の間に挟まれ、おろおろしながら、通訳が言った。
『いくら練習試合とは言え、高校生相手に負けたとあっては大変でしょう。恐れる気持
ちも判りますから、無理にとは言えないと言っております』
『何!?』
 声に出したカールとは対照的に、ラルフは何も言わず、眼光を鋭くさせる。
(姉さんって、高くケンカを売りつけるなぁ。本人にはその気がないのが、余計に恐い
よ)
 ラルフとカールの雰囲気が、明らかに変わったため、将は苦笑いと共に冷や汗を流し
た
『ラルフ、あちらがそうお望みならば、お応えしてあげよう。世界のトッププロの力、
存分に見せてやれ』
『だから、僕は最初から構わないって言ってるだろ』
 その内容は先程までの繰り返しなのだが、その口調は全く違っていた。
「ちょっと、姉さん。何もそこまでしなくたって」
 慌てるような将の口調に、古式は普段の笑顔のまま答えた。
「よろしいでは、ありませんか。負けて当然でしょうけど、世界レベルのプレーに接す
る機会などは、そうそう、ありませんよ。
 それにしても、あの方々、何を怒っていらっしゃるんでしょうねえ。私、何か気に触
るようなことを言いましたか?」」
「・・・俺、時々、思うんだけど。姉さんって、実は策士なんじゃないかって」
「そうですか?
 私はそのようなつもりは、全くないのですが」
「・・・ええ、そうでしょうね」
 将は苦笑いを浮かべつつ、あきらめたような口調になった。



『(どうも、妙なことになった)』
 ベースラインで、ボールを地面に弾ませながらラルフは思った。
 テニスに限らず、勝負事にはクレバーな事が要求される。ラルフには、それが備わっ
ていたはずなのだが、古式の言葉に、ついそれはラルフの頭脳の管理下から外れてしま
った。
 しかし、すぐさま冷静に戻ったラルフは、一時的にではあるにせよ、どうして自分が
そうなってしまったのか考えたのだが、適当な答えは見つからなかった。
『(まさか、彼女だからか?)』
 そんなことを考え、ラルフはコート脇の古式を見た。
 ラルフの視線に気が付いたのか、古式はラルフに微笑みかけた。
『(なるほど、あんな女性が、あれほど挑戦的な台詞を言うとは想像できないからな。
 それでなのか。
 僕もまだまだ、だな)』
 ラルフは理論的にはそう理解した。だが、生まれて初めて感じる胸の鼓動は、どう理
解していいのか、全く判らなかった。



   ときめく時の中で(206)

  迷いの季節(6)



 将とラルフは、1セットマッチではあるが、試合をすることとなった。
 あくまでも練習試合ではあるが、その組み合わせは少々異例である。
『(当初の予定とは違ってしまったが、まあ、いいだろう。それほど時間はかからない
 だろうし)』
 コートの脇で腕を組みながら、その様子を見ていたカールは、わずかに眉をひそめな
がら思った。
『(なにしろ、ラルフのサービスは、まさしく世界のトップレベルだ。ツアープロのト
ップクラスでもてこずるんだから、アマチュアの高校生では追いつくのもままならない
だろし、打ち返すのはなお困難だろうな)』
 そう思い、やれやれと言った表情で首を振った。

 第1ゲームは、そのラルフがサービス権を持っていた。
『(あいにくと僕は手を抜くという事が苦手でね。 君には悪いが、全開で行かせても
らうよ)』
 ベースラインに立つラルフは、そんな事を思いながらサービスの構えを取った。
『行くぞ!』
 レモンイエローのボールが上がり、鍛えられた身体がムチのようにしなり、銀色のメ
タルフレームのラケットが空気を切り裂く。

(なんて高い打点なんだ!?)
 その反対側のコートで将は思った。
 ラルフの身長は、公称で197cm。これほどの身長から打ち出されるサービスを受
けるのは、将にとって初めての経験だった。
 身長、そしてリーチを考えても、実際には30〜40cm程の違いしかないはずなの
だが、それはまさに、2階、いや3階から打たれたような角度に感じた。
 そのラルフのサービスは、見事に将のコートに突き刺さり、その強烈な球筋を、将は
見送っただけだった。
「15−0」
 審判の声が上がった。
『(手も足も出ないとはこの事だな)』
 コート脇のカールは、表情には出さないものの、内心では嘲笑に近い笑みを浮かべて
いた。
『(元々、ラルフのサービスを、高校生が打ち返せる訳がない。先は見えたな)』
 だが、カールは知らない。
 将がテニス部に入って、初めてのキャプテン、中沢が「吉野にはファーストサービス
を見逃す癖でもあるのか?」と言ったことがある事を。
 将はその球筋を見送った後、大きく息を吐き出しながら思った。
(ものすごいサービスだ。さすがにツアープロは違う。・・・だけど、・・・だけど、
何ともならない、という訳でもないぞ。
 打ち返すんだ。 打ち返さなきゃ、話にならない。全てはそれからだ)
 将の眼光に鋭さが増す。

『ムン!』
 気合いと共に、ラルフのサービスが打ち出された。
「!?」
 その次の瞬間、室内コートに衝撃に似た感覚が走った。
 将がそのサービスに反応し、ラケットを翻した。
「はぁっ!!」
 今度はラルフの方が一歩も動けなかった。
 将の打ち返したボールは、ラルフのコートで浅い角度で跳ね上がり、その後ろの壁に
大音響の激突音を響かせた。
『(な、何?)』
 ラルフは、今、何が起きたのか、理解できなかった。
 そのラルフの意識に滑り込んできたのは、ゆっくりとしたテンポの拍手だった。
 ラルフはその拍手の主に視線を向けた。それはコート脇のベンチに座った、古式の拍
手であった。
「お見事なレシーブエースです。 将くん、その調子ですよ」
 その言葉にラルフは我に帰った。
『(この僕がエースを取られたのか? それも一歩も動けず!?
  か、彼は一体?)』

 一方、将の方も表情には出してはいないが、内心では顔をしかめていた。
(な、なんてサービスだ。スイートスポットで捉えたはずなのに、まだ、手が、それも
両手がしびれていやがる。
 これがトッププロのサービスなのか?)
 しかし将は、しびれる腕を押さえつけるようにベースラインに立つ。
 将には判っていた。これで互角に闘えるなどとは、到底、言えないことを。
 
 ラルフはコートの反対側にいる、その将の姿を見つめながら、思わずにはいられなか
った。
『(なるほど、あのお嬢さんが言った事は、まんざら絵空事ではないらしい。
  君ぐらいの年のツアープロは、現実に何人もいるんだった。まだ、どこかで、胸を
 貸すつもりでいた自分が恥ずかしい。おおいに反省させられたよ。
 君がアマチュアだと言う事は、今後一切忘れる!)』
 そしてラルフは、無意識の内に右手の親指をなめた。
 それに気付いたのは、彼自身ではなく、端で見ていたカールだった。
『(ラルフが指を舐めた? あの癖は本当に集中した時にしかしないはずだ。
  それほど集中したのか? あの少年に?)』
 カールの疑問は的中していた。
 それ以後のラルフの姿は、まさに獅子を思わせた。
『ふん!!』
 それはもはや声とは言えない。そう、咆哮にも似た気合いと共に、打ち出されたサー
ブは将に襲いかかった。
 将も必死に打ち返そうとするのだが、ボールに追いつくのがやっとであり、力の入っ
たレシーブをする事が出来ない。
 将が戻りきれず、無人となったコートに、ボールが打ち込まれた。
(強い)
 将は思った。
 第1ゲーム、将のポイントは、結局、最初のレシーブによるものだけだった。
 だが、対するラルフの方も、内心では焦っていた。テニスのガットを直しながら、彼
は思った。
『(だんだん、タイミングがあって来ている。なんて学習能力だ)』
 それは恐怖に近いものだった。将のレシーブエースの時のサービスは、威力そのもの
はともかく、コース自体は甘いものだった。
 その後ラルフは、厳しいコースを狙っていった。だが、将は、最初の1球目は反応し
きれないでいたが、わずか1ゲームの間、つまり、たった3球で、急速に、その反応が
変化していた。
『(こんな経験は初めてだ。驚くほかはない)』。
 では今度は、君がどんなサービスを打つのか、見せてもらう番だな)』
 次のゲームのサービス権は、将にあった。
 
 第2ゲーム。将がトスを上げる。
「はあっ!!」
 弾丸のようなサービスが、ラルフのコートに打ち込まれる。
「フォルト」
 審判の声が上がる。
『(なるほど、フォルトにはなったが、いいフラットサービスを持っているじゃない
か。これが、コンスタントに決まったら、そうとう苦労しそうだ。
  問題はセカンドサービスが、どの程度のサービスで来るか? だな)』
 だが、ラルフのその目論見は外れた。将のセカンドサービスは、ファーストサービス
と同じフラットサービスであった。
「ダブルフォルト! 0-15」
『そんな馬鹿な!? セカンドもフラットだと?』
 ラルフは思わず声に出してしまった。
 それはカールや、ミズホのスタッフ達の感想を代弁したものだった。
 一方の将はいたって平静だった。
(通常なら、セカンドサービスにはスピンをかけて、入る確率を高くするんだろうけ
ど、スピード、威力はガクンと落ちる。
 そうなったら、簡単にレシーブされてしまうだろう。相手が格上なら、なおさらだ。
 自分を信じろ。サービスは最強の攻撃で、それをあれほど練習してきたじゃないか)
 そして将は記憶の中から、詩織の言葉を思い出していた。


「ねえ将くん。なんでサービス権を持っているゲームが有利なのか、考えたことあ
る?」
 そう面と向かって言われると、将は答えに詰まった。
「私思うの。テニスって、どんな球でもワンタッチで相手に返すでしょ?
 相手からのボールを受ける防御と返す攻撃。常に表裏一体よね。
 でも、サービスだけは違う。 防御を考えなくてもいい、最大最強の攻撃方法よ。
 それだけにサービスが重要だと思うの」


 将の意識が現実に戻り、将はトスを上げる。
(詩織さんのコーチを受けて、俺が練習してきたのは、攻撃的なテニスだ。手堅くまと
めるなんて練習はしてない。
 このゲーム、サービスは全部フラットサービスで叩き込む!)
「くわっ!!」
『くっ!』
 将のボールは、ラルフのラケットからあらぬ方向へと跳ねていった。
「15オール」
 今度は将のサービスが、ラルフに襲いかかる番だった。
「30-15」「30オール」「30-40」「デュース」
 勝負はスコアから見れば互角だが、その内容はいささか異なる。
 ポイントの行方は、将のサービスによって決まったと言ってもいい。
 ラリーになる展開はほとんどなかった。
「ゲーム! ミューゼル」
 そして、都合4回のデュースの後、将のサービスゲームはブレイクされた。
 将は抑えようとしても抑えきれない感情に、自分自身を持て余していた。
(くそぉ。ダブルフォルトで自滅だなんて! こんなんじゃ、話にならないぞ!)

 一方、ラルフも冷静さをなくしていた。
『(こんな屈辱は初めてだ。僕がまともにレシーブできないなんて。そう、ラケットの
 フィーリングが微妙に違うんだ)』
 ラルフはカールに向かって言った。
『カール、僕のラケットを持ってきてくれ! テストは後回しだ!』
(それではこの試合の意味がない)
 誰もがそう思ったが、誰もそれを口にはしなかった。



   ときめく時の中で(207)

  迷いの季節(7)


 第3ゲーム。ラケットを使い慣れたものにしたラルフのサービスは、将を悩ませ、同
時に驚嘆させた。
(スライスサービスを、これほどコントロールできるものなのか?
 威力も段違いだ)
 将とてスライスサービスは打てるし、それなりの自信は持っていた。
 だが、今、将が目にしているものは、それとは全くの別物だった。それまで、将は、
スライスサービスを、攻撃に変化をつけるといった、補助的な位置にみていた。
 実際、それは有効な手段であって、それを軽んじていたことはない。
 しかし、世界レベルのそれを見たとき、もはや、将の心情はショックの域に達してい
た。
 このゲーム、将はほとんど手も足も出ないと言った感じで、1ポイントも取れず、ラ
ルフがキープすることになった。

『(正直、一時はどうなることかと思ったよ)』
 内心で冷たい汗をかきながら、カールは思った。ラルフがこれほどアマチュア相手に
苦労する事など、彼の記憶にはなかったからである。
『(それにしても・・・ )』
 とカールは思う。
『(ラルフをここまで苦しめた彼、将来どうなることか? 日本にもマツオカだけでは
なく、人材は多いらしい。ダテの例もある事だしな)』
 カールはこの時点で、このゲームの結末が見えたような気がしていた。それも無理は
ない。
 将来はともかく、現時点では実力差が有りすぎる。それはこの場にいた誰もがそう思
っていた事である。
 ラルフが自分のラケットに持ち替えたと言うこと、つまり本気にさせたと言う事実だ
けでも、将の大健闘であることに間違いはない。
 一人の例外もなくそう思っていた。古式や将自身でさえである。
 だが、それは正確ではない。将はそれだけでは終わらなかったのである。
 第4ゲーム、サービスを打つために、ベースラインに立った将は自分自身に問いかけ
ていた。
(これで満足するつもりか?)
 と。
 実際、上出来だとは思う。勝てるとも思ってはいなかった。
 しかし、将は自分に、こうも答えた。
(このまま引き下がるなんて、まっぴらごめんだ!)
 この試合で、このまま終わると言うのは、ただ単に、将自身の実力が示されただけで
はない。
 今まで将に力を貸し、支えてくれた詩織や、連尺、四本松、和人等、多くの人たちの
行為を無駄にしてしまうことだと、将は考えていた。
 そして、それに相まって、負けることが悔しいと思えてきたのだった。
(このまま負けたんじゃ、滅茶苦茶、悔しいよな)
 将の眼光に、新たな物が加わった。

『(な、なんだ?)』
 コートの反対側のラルフは、将の雰囲気が変わったことに気づき、背中を走る電流の
ような感覚を覚えた。
『(この感覚、この殺気のような空気。アガシやサンプラス等のトッププロが発する独
特の空気。
 彼が発しているものなのか?)』
 ラルフの本能に警報がなる。
 次の瞬間、将のサービスが一筋の光となって、ラルフのコートを引き裂いた。
「15−0」
 ラルフは舌を巻いた。
『(球速が上がっている! これはもうツアープロ並だ。彼の方こそ、今まで実力を出
し切っていなかったと言うのか?)』
 将のサービスが再び襲いかかる。
 それはスライスがかかっていたため、ラルフの反応が遅れた。やっとの思いで返した
が、がら空きとなったコートに将がボレーを打ち込む。
「30−0」
 この試合で初めて、将が2ポイントのリードをした。この事実は、ラルフ自身が感じ
ないうちに、彼の感情に変化を与えていた。
 脊髄が白く発熱し、血液中のアドレナリンが一気に加速していくような感覚が、ラル
フの全身を貫いていった。
『冗談ではないっ!』

「30−15」「30オール」「40−30」「デュース」「アドバンテージ吉野」
「デュース」「アドバンテージ吉野」
 驚くべきことに、デュースの回数は実に15回にも及んだ。
 そして、いつ果てるとも知れない打ち合いの末、ラルフがゲームをものにした。

 次のゲームに入る前、少しの間の休憩をとる。ラルフがラケットを地面に叩きつける
ような勢いで、下に向かった振り抜いた。
『くそ、やっとのことでブレイクか!? 勝ってるような気がしない』
 練習試合であるから、実際の試合と違い、第3者が話しかける事が出来る。つまり、
この場合、カールがラルフに話しかけた。
『どうだ? この辺にしておくか? 勝負は見えたし、むこうも納得しただろう。
 何より、疲労が残るぞ?』
 だが、ラルフは猛然と反発した。
『よしてくれ、カール! このままで終われるか!』
『ラルフ?』
『カール、君には、あてはまる言葉もないほど感謝している。だが、残念だけど、君に
は判らないだろう。この背筋がぞくぞくするような感覚は。
 僕は、こんなにテニスが恐くて面白いものだと、初めて知ったんだ。
 もし、これを邪魔するようなら、例え君でも許さない。
 頼む、カール。あと2ゲームだ。2ゲームでけりをつける。プロの意地にかけても、
彼には1ゲームも取らせはしない。
 だから、頼む。カール!』
 ラルフの真剣な眼差しに、カールは首を振った。そして、その仕草から反対の内容の
返事をした。
『OK、ラルフ。思う存分楽しんでこい。この試合、以後一切、私は口を出さないよ』
『ありがとう、カール』

 ラルフとカールがそんな会話をしている一方、ベンチに座る将の横に、古式が立って
いた。
 将は会話が出来ないほど息が上がっていた。
 ラルフとの打ち合いは、一球の例外もなく、常に、将に対し、最高のテンションを要
求したのである。
 わずかでも気を緩めれば、一気に流れを持っていかれると、将の本能がそれを許さな
かったのである。
「つ、強い・・・。全力を・・・注いでも・・・」
 息も絶え絶えの将を、古式がなだめる。
「喋ってはいけません。呼吸を調えるのです。
 それに、将くんは、互角に戦っています。この調子ですよ」
 将はそれに答え、無言でうなずいた。が、同時に思う。
(たとえ、互角に打ち合ったとしても、結果は、ゲームカウント0−4。
 これが実力の差と言うものなんだ。だけど、このままじゃ終われない。
 絶対1ゲーム。サービスゲームでいいから、1ゲーム、取るんだ!)
 決意を抱き、将はベースラインに歩き出した。

 第5ゲーム。状況はさらに一変する。驚くべきことに、将がラルフのサービスを打ち
返し始めたのである。
 それだけではない。打ち返す瞬間に、体重を前方に移しながら打つ、いわゆる「ライ
ジングショット」を見せ始めたのである。
 もちろん、将はその練習をしてはいた。だが、今、将はほとんど無意識の内に、ライ
ジングショットを使っていた。
 それは、いかにして相手に威力のある球を打ち返すか? 頭脳と身体が考えた挙げ句
に、導き出した結果だったのである。

 将の打ち返す、ボールの威力が増した事に驚きながら、ラルフは思った。
『(たしかに、これはすごいテクニックだ。だが、本当にすごいのは、ライジングショ
ットではない。
 ライジングショットそのものは、それほど難しい撃ち方ではないからだ。
 本当に難しいのは、その体勢に持ってくまでのステップワークと、打つタイミングを
合わせる集中力だ。
 ボールに、ただ追いつくだけでは、このショットは打てないのだからな)』
 驚きと共に感心しつつも、ラルフは反撃をしていた。
 しかし、ゲームはデュースまでもつれ込んでしまった。それも一時、将がアドバンテ
ージを取るブレイクポイントまでいったのである。
 結局は、このゲームもラルフが取り、ゲームカウントは、ラルフの5−0となった。
「ちっくしょう!!」
 それは将の声だった。地面を蹴りつけ、怒りと悔しさをあらわにする将の声だった。
 まわりの人間にも、その気持ちは判る。なにしろサービスブレイクまで、あと僅か、
というところまで、ラルフを追い詰めたのだから。
 室内コートにいる人間の誰一人として、もはや、これが、”練習”試合だと思ってい
る者はいなかった。
 
 カールが通訳に言った。
『皆さんにお伝え下さい。
 今、ラルフは、私が知り得る限り、最高級のプレーをしていると』



   ときめく時の中で(208)

  迷いの季節(8)



 第6ゲーム。もはや将には後がない。
 この自分のサービスゲームをブレイクされれば、試合終了となる。
(そう簡単に終わらせるか!!)
 将はトスを上げ、渾身の力を込め、サービスを叩き込む。
 ラルフがそれを、力でねじ伏せるように弾き返す。
 それは力と力の激突だった。
 室内コートには、二人の気合いの声、ボールを打つ音、跳ねる音。フットワークを生
み出す力強くも軽快な足音。そして審判の声が響き渡るだけだった。
 その場にいる誰もが、将とラルフの”練習”試合に見とれるだけだった。
「40−30」
 審判の声が上がる。あと1ポイントで、将がサービスゲームをキープするところまで
来ていたのだ。
「将くん、ファイト!」
 長い沈黙を保っていた古式だったが、思わず、普段の彼女らしからぬ声で叫んだ。
 それに対し、将はなんの反応も示さなかったが、その声が伝わっていることは、彼女
には判っていた。
 むしろ、反応を見せたのはラルフの方だった。
 ちらりと古式の方に視線を向けたラルフは、ガットを直しながら思った。
(お嬢さんには申し訳ないが、僕にも意地があるのでね)

「行くぞ!」
『来い!』
 言葉の壁を乗り越え、将の声にラルフは答えた。
 将のサービスをラルフが返す。強烈なレシーブが将のコートに突き刺さる。
「デュース」
 それは仕切り直しという事でもある。だが、将の集中力は途切れなかった。
(集中しろ! そんなに簡単にゲームが取れる相手じゃないのは、判っているはずだ
ろ!)
 ラルフの方も自分に言い聞かせていた。
『(まだだ。まだ、相手が有利なことに変わりはないのだからな)』
 ラルフは構える。
 そこからは、また、激しいポイントの取り合いとなった。
 お互いアドバンテージは取り合うものの、最後のポイントを取るには至れない。

『(いいかげん、これを最後にするぞ)』
 アドバンテージを取ったラルフが思う。
(このまま終わってたまるか。とにかくデュースに持ち込むんだ)
 自分に言い聞かせるように、誰にも聞こえぬ声で叫びながら、将はトスを上げる。
「はあっ!!」
 将のフラットサービスは、わずかだが球威が落ちていた。それは球数云々だけではな
く、精神的に疲労してきたからである。
 本当に、わずかであり、その違いはほとんどないと言ってもいいのだが、そのわずか
な違いを、ラルフのようなトッププロは見逃さない。将のサービスの攻撃力は、この時
点で落ちていた。
 それを今度は、驚異的な粘りのレシーブで補っていた。
 将が返したボールを、ラルフはドロップショットでネット際に落とした。
「なに?」
 将は慌ててネットに走り込み、そのボールを拾う。
 だが、ボールが上がった先にはラルフが待ちかまえていた。
「しまった!」
『(これで終りだ! ボーイ!)』
 ラルフの強烈なスマッシュが将を襲う。体勢が崩れていた将は、反応しきれない。
「くっ!!」
 反射的に首をねじったが、避けきれない。ラルフのスマッシュは、将の顔面、左側か
ら、頬の辺りに直撃した。
「ぐわっ!!」
 ラケットが宙に舞い、将が後方に吹き飛ぶ。その光景に、悲鳴が上がった。
「将くん!!」
 その声の主、古式が、コート上に横たわる将に向かって駆け出した。
『ヘイ! ラルフ! やりすぎだぞ!!
 いくら実力があったとしても、相手はまだアマチュアなんだぞ!!』
 カールの声に、ラルフはハッと我にかえる。
『いや、当てるつもりはなかった! 確かに近くは狙ったが、当てるつもりはなかっ
た!・・・そうか!』
 ラルフはその原因に背筋を寒くした。
『ボールにスピンをかけていたんだ、あの体勢から。なんて事だ』
 ラルフは茫然とした表情で、スタッフ達が将に駆け寄る光景を見ていた。
「動かしてはいけない」
「医務室に連絡して!」
 そんな声が飛び交う中、古式はひざまずき将の顔に、自分の顔を近づける。
「将くん、将くん!」
 古式の必死の問い掛けにも、将は答えることができない。意識をなくしたまま横たわ
る、将の姿に、古式の瞳に涙が光る。
『あ、あの・・・』
 将を取り囲む人の輪の外側から、ラルフが困惑した表情でのぞき込む。
 その時、古式がきっとした表情で、視線をラルフに向ける。
 ラルフは、その古式の凛とした表情に気押される。追い打ちをかけるように古式が言
う。
「私も、テニスをたしなむ身。テニスにこういう事がある事は、判っておりますし、こ
ちらから、お願いした試合であります。
 ですが、もし万が一、よこしまな考えで、このような事をしたのであれば、私にも、
それ相応の考えがありますよ」
 こういった類の言葉に通訳はいらない。ラルフは必死の表情で否定する。
『いや! 誤解しないでください! これは事故です。ミューゼル家の名誉にかけて、
決して故意などではありません!』
 これも通訳のいらない類の言葉である。
「・・・」
 古式は無言だった。ラルフの真剣な瞳を見れば、言いたい事は明らかであるし、それ
が真実だということも判る。
 それ故、古式もそれ以上は何も言えない。
「・・・姉さん、ミューゼル選手は悪くないよ・・・」
「将くん!? 大丈夫ですか?」
 古式の耳朶に、弱々しい将の声が触れる。将が意識を取り戻していた。
「俺が、下手なだけで、ミューゼル選手は何も悪くないよ」
 そう言って起きようとする将を、古式が止める。
「いけません! まだ動かないでください!」
 古式の必死の表情に、将は状況を察した。
「俺、気、失ってました? どのくらい?」
「そんなに、長い時間ではありませんが・・・」
 古式はそう言って、安心したような表情となる。ともかく意識が戻ったことに、ほっ
としていたのだった。
 医務員が駆けつけ、将の様子を見る。強烈な球威に、将の頬が腫れ上がっていたが、
意識もしっかりしており、他に異状はなかった。
 が、念のため、近くの病院で精密検査を受けることになった。
 ゆっくりと立ち上がった将に、ラルフが近づいた。
「ミューゼルさん?」
 戸惑う将に、ラルフはすまなそうな表情と共に、小さな声で何事か言った。
「え?」
 だが、それはドイツ語であったため、何と言ったのか、将には全く判らなかった。
 ラルフの言葉を、通訳が将に伝える。
「申し訳ありませんと、・・・そして・・・」
「そして?」
「君とは戦うべき場所で、再び戦いたいと言ってます」
 将は、その言葉の意味を理解するのに、多少の時間を要した。その間にラルフとカー
ルは立ち去っていった。
 その背中を見送って、将は独り言のように言った。
「戦うべき場所で・・・?」



   ときめく時の中で(209)

  迷いの季節(9)



 将が、ラルフとの試合でケガを負い、病院に運び込まれた日。
 自宅のアパートでは、仕事が休みの美里が夕方、洗濯物を取り込み、部屋で畳んでい
た。
 本来なら、もう少し早くしなければならなかったのだが、生活のリズムの関係で、こ
の時間になってしまったのである。
「将、遅いねぇ。夕御飯食べてくるのかなぁ。
 連絡ぐらい、よこせばいいのに・・・ 」
 洗濯物をたたむ手を休め、美里が言った。
 そんな時、窓の下に、比較的静かなエンジン音が止まり、しばらくして、長年親しん
できた、将の声が帰宅を告げた。
「ただいま」
 だが、その声にいつもの覇気が感じられず、美里は首をかしげる。
「?」 
 しかも、玄関に気配はあるのだが、なかなか奥に入って来ないので、美里は玄関をの
ぞき込んだ。
「将!? ど、どうしたの? それは!?」
 美里が驚くのも無理はない。将の左の頬に、白いガーゼが医療用のテープで貼られて
いたのだから。
「心配しなくてもいいよ。医者がちょっと大げさにしただけで、そんなに大したことな
いから」
 将はそう答えたのだが、もちろん、それで美里が納得するはずがない。
「まさか、ケンカでもしたんじゃないだろうね? 将が顔に入れられるなんて、よっぽ
どの相手なんだろ?」
「どうしてそうなるんだよ? そんなんじゃないよ!・・・いや、後半は似たようなも
のかな? なにせ相手は世界ランカーだもんな」
「 ・・・それで、勝ったの?」
 本当ならそういう問題ではないのだろうが、多少、気が動転しているのだろう。美里
のやや、ピントのずれた質問に、将は左の頬を押さえながら答えた。
「負けた」
「将?・・・ 」
 将の鎮痛な表情に、美里が言葉を失っていると、将の後ろから、遠慮がちに古式が姿
を現した。
「申し訳ございません。将くんが、このような怪我を、負ってしまったのは、私のせい
です。
 おば様には、本当に、なんとお詫びしていいものか、言葉もございません」
「姉さんのせいじゃないって言ってるでしょ? 単に俺の力不足なんだから。
 むしろ、姉さんのおかげで、貴重な体験が出来たんですから、感謝してるぐらいです
よ。気にしないで下さい」
「でも・・・ 」
 将と古式のやり取りでは、美里にはさっぱり事情が飲み込めない。業を煮やしたよう
に美里が言った。
「ちょっと! 判るように説明しなさいよ!
 とにかく、こんな玄関で立ち話もなんだし、上がって頂戴な。話はそれから聞きまし
ょう」
 美里に言われ、将と古式は部屋に上がった。



 将と古式が、今日起きたことを交互に説明して、ようやく美里にも話が見えてきた。
 一通り話を聞いた美里は、小さくため息をついた。
「要は、全く歯が立たなかった。と言うわけだね?」
 単刀直入にして、かつ辛辣な美里の言葉に、将は言葉もなくうなずいた。
「おば様」
 将の気持ちを案じた古式が、美里に声をかけた。だが、美里は古式に向けて微笑みな
がら首を振った。
「いいのよ、ゆかりさん。
 多少、善戦はしたらしいけど、結果は完敗だったんだから。それは将だって判ってい
るはずなんだから」
「 ・・・でも・・・ 」
「大丈夫。将は私の息子だもん。このぐらいの事じゃ、へこたれないよ。
 今日1日ぐらいは、落ちこんじゃうだろうけど、明日になればけろっとしてるって。
 大体、相手は世界のトッププロなんだよ。そうそう勝てる相手じゃないでしょ?
 ともかく、ご飯でも食べて今日は寝ちゃいな。
 問題は今日の経験を、これからどう生かすか? なんだから」
 美里の言葉に、将は思わず言った。
「これから?」
「そう、これからよ。上には上がいるってことを実感しただけでも、大きな収穫だと、
私は思うけどね?」
 美里の言葉に将はうなずいた。
「そうだね、そう思うよ」
 将と美里の会話で、古式も気が安まったようである。
 いつものような笑顔を取り戻していた。
「どうするゆかりさん? 一緒に夕飯食べていく?」
「せっかくですが、帰りが遅くなると・・・ 」
「 ・・・そうね。ご両親、特にあの人が心配するか。それじゃ、しょうがないね」
「申し訳ございません」
「いいのよ。ゆかりさんはご両親思いなのよね。大事にしてあげてね」
「はい」
 古式はにっこりと微笑んでそう答え、美里も微笑みと共にうなずいた。


 結局、帰ることとなった古式を、アパートの階段下に駐車してあった古式の車まで、
美里が送っていった。
 将も送っていこうとしたのだが、大事をとって部屋に残されたのである。
 すっかり日が落ち、暗やみの住宅街を走り去っていく古式の車を、窓から見送った将
は、ため息のようにぽつりと言った。
「世界・・・ か・・・ 」



 ちょうどその頃、超高層ホテルの1室で、ラルフは街の灯を見下ろしていた。
 その時、ドアがノックされ、その向こうからカールの声がした。
『私だ。入ってもいいかな?』
『君に閉ざすドアを、僕は持っていないよ』
 ラルフはそう答えながら、ドアに歩み寄りドアノブを回した。
 カールを招き入れ、二人は部屋の奥の窓際に立つ。
『いい眺めだな』
『ああ、僕もついさっきまで見とれていたところだよ。
 ところで、どうしたんだいカール、急に?』
『ん? いや、今日のラルフのプレーを思い出していたんだがね。あんな、ラルフを見
た記憶がなくて、多少驚いているんだよ』
『僕のプレーが、どうだったんだい?』
『ああ、何と言うのかな? 厳しく真剣にプレーしてはいるんだが、どこか楽しそう
だったんだ。 少なくとも、私にはそう見えたんだが、どうだろうな?』
『楽しそうか・・・ 。うん、そうかも知れない。
 あんな緊張感は初めてだったからね』
 嬉しそうな表情のラルフに、カールは不思議そうな顔になる。
『そこが、どうもわからんな。確かにあの少年の実力は相当なものだろう。だがな、結
局、力の差は歴然だったわけだし、彼のどこが特別だったんだ?』
『勝ち負けや、ゲームカウントじゃないんだよ。
 彼の放つ空気のような物が、こう、ビリビリと伝わってくるんだ。
 彼は強くなるよ。間違いない』
『だが、彼はアマチュアだ。まだ、プロにもなっていない。先の事はわからないぞ』
『いや。彼は来るよ。いずれ、僕の目の前に立つはずだ。そう感じてならないんだよ』
 確信に満ちたラルフの表情に、カールはうなずいた。
『君がそう言うのなら、それを信じよう。
  ・・・どうやら、今回の来日は有意義な物になったようだね?』
『うん。そう思うよ』
『ああ、もう一つ忘れてた』
 そう言って、カールは一枚の紙をラルフに手渡した。
『?』
 疑問の表情のラルフに、カールは説明する。
『あのお嬢さんの資料だよ。ミズホの人に頼んで教えてもらった。ついでに、と言って
はなんだが、あの少年のことも聞いておいた。
 あとの事をどうするかは、君に任せるよ。
 ただし、日本語の勉強はしておいた方がいいぞ。次は通訳なしだからな』
『カ、カール!!』
『ははは、じゃあ、お休み。早く寝るんだな』
 真っ赤な顔になったラルフを、からかうような口調でそう言いながら、カールが部屋
を出て行くと、ラルフはためらいながらも、その紙に目を通す。
『ユカリ、コシキさんか・・・』



   ときめく時の中で(210)

  迷いの季節(10)



「ど、どうしたんですか? 将先輩?」
「ひどい青あざ」
 テニス部の部室で、何人もの部員にそう聞かれ、将は内心で、「やれやれ」と思わず
にはいられなかった。

 ラルフとのテニスの試合の翌日、将は治療のため、頬にあてられたガーゼを、テープ
さら取ってしまった。
 こういったケガを、過去に何度かして来た将としては、大げさとしか思えなかったか
らだ。
 だが、腫れ上がった頬はひどい青あざを残していた。
 そのため、朝からクラスメイト等の質問を受けたりした。
 将はその度、「テニスでボールが当たったんだ」と説明したのだが、教師から「ケン
 カでもしたのではないか?」と問われた時にはさすがに閉口してしまった。
 とは言え、
(俺には前科があるからなぁ)
 とあきらめたように自分に言い聞かせ、同じ返答を繰り返したのであった。

 そして、また、テニス部でも。である。
 だが、心配してくれて言っているのが判っているから、将としてもいい加減には対応
できない。
 将は同じように答えたのだが、そこはテニス部員である。将にそんなケガを負わせた
 相手が誰なのか、興味深げに聞くのだった。
 テニス部員にとって、将をそんな目にあわせると言うことは、相手は相当な実力者で
あったに違いない、としか思えなかったのである。
 将は仕方がないと言ったように、ラルフが相手であったことを口にした。
 そこからがまた大変だった。
 なにしろ、ラルフ−ハインツ−ミューゼルと言えばテニスをしている者からすれば、
知らない名前ではないからである。
 どんな感じだったか?と聞かれ、将は正直にその結果を話した。
「6−0・・・ 」
「将先輩が、1ゲームも取れないなんて・・・ 」
 部員達がそれぞれ言った口調は、残念といった感情は一切含まれず、ただ、世界のレ
ベルと言うものに、呆然としていると言う感じだった。
「うん、全然歯が立たなかったよ。
 アドバンテージは何度か取れたりしたんだけど、結局は1ゲームも取れなかったよ。
 完敗だったなあ」
 将にしてみれば、それは屈辱に近い感想であった。だが、他の者はそうはとらなかっ
た。
「先輩! ミューゼル選手からアドバンテージ取ったんですか!?」
「え? ああ、回数は覚えてないけどね。
 4ゲーム、デュースまで持ち込めて、そのうちの何十回かなあ? なんとか取れたん
だけど、それまでだ。
 まあ、余計に悔しさだけが残って、なんの救いにもならないけどね」
「何言ってるんですか!? アドバンテージを取れたんなら、あともう少しだったじゃ
ないですか! それってすごい事ですよ!」
「そうかなぁ? 結果が全てだよ。こう言うのって」
「そ、それはそうですけど・・・ 」
 この時、将と他の者との感覚の違いは大きかった。他の者にしてみれば、それだけ接
戦になったのなら、ほぼ互角の戦いだったのではないか、と思ったのだが、将にとって
は、自分自身が言ったように結果が全てだった。
 将の考え方は「結果を出さなければ意味がない」と言う、きわめてプロに近い考え方
だったのである。
 もっとも、本人は全く意識していないことであったのだが・・・ 。



 その日の練習時間、コートの脇で、将は詩織と話し込んでいた。
 「お聞きしたいことがありまして」と将に呼び出されたのだが、その将の質問には、
詩織も言葉を失ってしまった。
「何が足りないって?」
「ええ、世界のトッププロから見た場合、俺には何が足らなくて、それを克服するため
にはどうすればいいと思いますか?
 こんな事、聞けるのは詩織先輩しかいませんから」
 将の真剣な眼差しにも、詩織は慌てるだけである。
「ちょ、ちょっと待ってよ、将くん。
 そんな事、突然言われても、答えようがないわよ。なんだか文字通り、世界が違うと
言う感じなんだもん」
 詩織の返事に、将は少し残念そうな表情になる。
「 ・・・そうですよね。こんな事、突然聞かれたって、答えようがないですよね。
 すいませんでした」
「ううん。いいのよ、そんな事は。
 将くんが、そう思うのも判るから。
 聞いたわよ。ミューゼル選手と練習試合したんですってね?」
 詩織の問い掛けに、将は無言でうなずいた。
 詩織がさらに続ける。
「戦いたいの? 世界の選手達と?」
「え?」 
「つまり、プロになりたいの?」
 首を傾げ聞いた詩織の瞳を、将はしばらく見つめた。やがて、その視線を地面に落と
す。
「 ・・・判りません。自分でも、その辺りの事は、よく判らないんです。
 ただ、なんだかよく判らない、こみ上げてくるような感情があるだけなんです。
 すいません」
「いいんだってば。そう言うのって、私も判るような気がするから・・・ 」
「はい」
 会話につまり、二人が黙り込んでいると、そこに明が遠慮がちに近づいてきた。
「あの、吉野先輩」
「なんだい? 鏡くん?」
「今日、練習の相手をしてくれるはずだったんですが、よろしいでしょうか?
 ケガの具合はどうでしょうか?」
「あ? ああ、そうだったね。
 新人戦に向けての練習に付き合う約束だったね。すぐ行くよ。先に行ってて」
「はい」
 明が走っていくと、将も詩織に声をかける。
「それじゃ、行きます」
「うん。大丈夫だとは思うけど、一応ケガしてるんだから気をつけてね」
「はい」
 明の後を追うように、将が走り去っていく。その背中を見送る詩織の横に、連尺が立
った。
「どうしたんですか? 詩織先輩?」
「え? ええ、将くんの背中を見ていたら、なんだか将くんが、違う世界に行っちゃう
ような気がしてね。
 なんだか、ぼーっと見ちゃったの」
 詩織の返事に、連尺も将の背中を追った。将はすでに、明とゲーム形式の練習を始め
るところだった。
「判ります、その気持ち。私も、そんな気がします」
 うなずく連尺に、詩織は問いかける。
「ところで、私はいつまでコーチを続けるのかな?
 私としては、続けてみたいんだけど、みゆきさんはどう思う?」
「え? そうですね。実のところ、私、そこまで考えてなかったんです。
 もう少し、待っていてください。近いうちにお答えいたします」
「ええ、それまでは、今まで通りということね。 ・・・でも・・・ 」
「でも?」
「私達は、この先、将くんのために、何か役に立てるのかしらね?」
「 ・・・それは判りません。でも・・・ 」
「私達に出来ることを精一杯・・・ よね?」
「はい!」
 連尺が笑顔でうなずき、そう答えると、詩織も微笑んだ。
 夕焼け間近に吹く風は、秋の気配が濃くなっていた。



   ときめく時の中で(211)

  迷いの季節(11)



「驚いたね、どうも」
 と、将。
「驚いたわね、どうも」
 と、四本松。
 そして、そのまわりにいたテニス部の面々も、異口同音に口にした。
 視線の先には、喜びを、表情と全身で表現しながら、彼等に駆け寄る明の姿があっ
た。
 きらめき市民スポーツ公園のテニスコートで行われた、テニスの新人戦、明はその予
選リーグを6戦全勝という成績で突破し、続く決勝トーナメントでも、接戦を繰り広げ
ながら、ついに優勝してしまったのである。
「先輩!吉野先輩!! やりましたよ!! 勝ちました!!
 先輩のおかげです!」
 将達とコートを仕切る金網に、手をかけ言った、嬉しそうな明の声に、誰しも顔をほ
ころばせた。が、一人だけ、西島が大げさにずっこけていた。
「ほお、鏡。
 お前は、俺がなんの役にも立たなかったと言いたいらしいな?」
「あっ! 西島先輩! そんな意味じゃありません! 西島先輩のおかげです!」
「それがどうして、吉野先輩なんだよ?」
「いや、あの、その・・・」
 決して悪意はないのだが、それでも厳しい西島の追及に、しどろもどろになる明に、
連尺が助け船を出した。
「もう、ニシくん。そのぐらいで許してあげなさい。
 明くんも、まだ、表彰式があるんだから戻りなさい」
「は、はい!」
「その前に、明くん」
「え?」
「おめでとう、よくやったね」
「あ、ありがとうございます!」
 連尺の祝福に、おじぎをし、顔を赤らめながら走っていく明の背中に、西島は誰に言
うでもなく言った。
「判りやすい奴だなあ・・・」

 この日、明の応援に来ていたのは、将達3年生の有志と、明の班の班長である西島だ
った。
 他の1、2年生は学校で練習をしている。
 明が決勝に残ったと知らされた時、将や四本松、そしてさしもの連尺も、どのくらい
の規模で応援に行けばいいのか悩んだのだった。
 多くてもかえって明にプレッシャーを与えるだろうし、少なくてもまずかろう、とい
う訳で、悩んだあげくにこの編成になったのである。

 しみじみと西島が言った。
「それにしても、優勝しちゃうとはなあ」
 実は、きらめき高校で新人戦を制したのは、明が初めてだったのである。
 連尺や将の他、明を新人戦に出場させた者達でさえ、経験させるためと割り切ってい
たので、これほど成績が残せるとは思ってもいなかった。
 驚かされたのはそれだけではない。明のプレーは、実に頭脳的で、とても新人戦とは
思えないようなプレーをしたのであった。
「鏡くんは、いつの間に、あんな試合の組み立てが出来るようになったんだ?」
 将がつい、そんなことを言うと、連尺がそれに答えた。
「身近に目標になる人がいれば、そりゃ、上達も早くなるわよ」
「 ・・・それって、もしかして、俺のこと?」
「どうやら、ようやく、すこしは自覚してくれたみたいね。
 それだからこそ、明くんは、真っ先に将くんの所に来たんじゃないのかな?」
 そう言ったのは連尺ではなく、四本松だった。彼女がさらに続ける。
「将くんのような人が側にいたら、どうしたってまわりのレベルが高くなるわよ。
 もっとも、明くんは、今までも一所懸命に勉強してたからね」
「だけど、こんなになるとは思ってなかったですよ。俺は」
 これは西島である。明に直接指導してきたのは彼であるから、言葉とは裏腹に、その
表情はにやけたものになっていた。
「ひょっとしたら、同じ時期の俺より強いかも知れないなあ。俺も、決勝トーナメント
は初戦敗退だもんな」
 将の言葉に、西島は満足げにうなずいたが、やがて、慌てて首を振る。
「吉野先輩の時とは、新人戦自体のレベルが違います!
 そんな事、鏡の前では言わないでくださいよ。うぬぼれちゃいますからね」
 言う事はもっともなのだが、西島というキャラクターが、そんな事を言うのが意外だ
った将達は、互いの視線を合わせながら苦笑いを浮かべるのだった。



「吉野先輩や西島先輩のショットに比べたら、まるでスローモーションでした。”こん
なボールなら打ち返せるぞ”って思えたんです。
 だから勝てたんです」
 表彰式も終わり、学校に帰る道すがら、明は雄弁に、試合の状況、その時の心境、感
想などを語った。
 将達はそれを真剣に聞いた。それは勝者に許される権利だからだ。
 明日から、いや、本来ならばこの瞬間から、また新しい戦いが始まっているのだろう
が、今はその喜びに浸っても、害はない。
 そんな明や将達の横を1台の乗用車が走り去って行ったかと思うと、その先で止まっ
た。
 そして後部ドアが開き、一人の女性が降り立った。
「お姉ちゃん!?」
 明が思わず声を上げた。それは明の姉、鏡魅羅だった。
「ごめんね、明。お仕事が長引いてしまったものだから、応援、間に合わなかったよう
ね?」
「いいんだってば、無理に来なくてもいいって言ったでしょ?」
「そうだけど・・・ 、やっぱり応援には来たかったのよ。
 それでどうだったの?」
 心配という成分を、少し含ませた表情の魅羅の問に、明は胸を張って答える。
「うん。勝ったよ」
「 ・・・そう、おめでとう」
 満面に笑みを浮かべて魅羅がうなずくと、明が将達に言った。
「えーと、僕のお姉ち・・・ 姉の魅羅です。
 お姉ちゃん、こちらはテニス部の先輩たちだよ」
 明の声に、魅羅の妖艶とも言える雰囲気に呑まれていた将達が、思い出したようにそ
れぞれおじぎをした。
「明が、いつもお世話になっています。姉の魅羅と言います。
 新人戦で優勝できたそうですが、それもひとえに皆さんのおかげです。これからもよ
ろしくお願いいたします」
「え、ええ。こちらこそ」
 ようやく連尺が、そう答えると魅羅も頭を下げた。
 その時、車の運転席から、男の声がした。
「魅羅ちゃん、どうする? 弟さんも乗せてってあげるけど?」
「あ、はい。ちょっと待ってください。
 どうする明? マネージャーさんが、家まで送ってってくれるそうだけど?」
「え? でも、一度、学校に戻らないと・・・ 」
 そんな明に連尺が言った。
「いいのよ、明くん。このまままっすぐ帰って、家でゆっくりしなさい。
 明日から、また練習があるんだから。それも西島くんの厳しい練習がね」
「そうだぞ鏡。今日はお姉さんにお祝いしてもらえ。それで明日からに備えろよ」
「はい」
 多少困ったような顔もしたが、基本的には笑顔のまま、明が車に乗り込み、車は走っ
ていった。



 車中、後部座席で並んで座りながら、魅羅が明に言った。
「あの、背の高い男の子が吉野くん?」
「うん、そうだよ」
「明はあの子に憧れて、テニスを始めたのよね。
 どう? その憧れの吉野先輩を追い越した感想は?」
「え?」
「その吉野くんも出来なかった、新人戦優勝をしたのよ。
 追い越したって事でしょ?」
「そんな、僕なんてまだまだだよ! 吉野先輩に比べたら、僕なんて、足元にも及ばな
いよ」
「そう? それじゃ、もっと頑張らないとね」
「うん」
 明のそんな思いを乗せ、車は走っていった。



   ときめく時の中で(212)

  迷いの季節(12)



 新人戦で優勝した明が、姉の魅羅と先に家に帰ってしまったため、「主役」不在とな
った将達、約10名のテニス部一行は、とりあえず学校に戻るため、私鉄の駅に着い
た。
 列車を待つ間、西島が思いついたように言った。
「鏡もなあ、吉野先輩を目標にするのはいいんだけど、先輩が卒業したら、一体どうす
るんだろう?
 目標を失って、失速しないかなあ」
 それに答えたのは、その目標とされた将自身だった。
「俺がいなくなっただけで、目標を失うようなら、鏡くんもそれまでだよ」
「!?」
 将には珍しい、突き放したような言い方に、誰しも驚かずにはいられなかった。
「それにニシくん。まず君が、鏡くんの目標にならなきゃ駄目だろ?
 今からそんな弱気になるなんて、俺の知っているニシくんらしくないな」
「 ・・・はい」
「それに、ちょっと見渡せば、俺より高い山はいくらでもあるよ。
 上には上がある。鏡くんはこの言葉を知っているから、そんな心配はいらないんじゃ
ないかな?」
「 ・・・吉野先輩」
「将くん・・・ 」
 将の言葉は、まるで西島以外に、自分自身に言い聞かせるかのような響きがあった。
 周りの者には、それが何を意味するのかが判るため、お互いに視線を交わしあった。
 その時、一人の女子部員が、バッグから1冊の雑誌を取り出して、言った。
「あのね。
 今、そこの本屋さんで買って来たんだけど、今日発売の”テニスグラフィック”に、
ミューゼル選手の、USオープン優勝の詳しい記事が載ってるよ」
 その瞬間、将の目付きが鋭くなった。
「あ、ちょっと見せて」
「うん、いいよ。はい」
「ありがと」
 将はその雑誌を受け取ると、食い入るように記事に集中してしまった。
 そのせいで、やって来た列車に気づかず、連尺に言われなければ乗り遅れるところだ
った。



「若き皇帝ミューゼル、3−2のフルセットの末、サンプラスを下し、USオープン初
制覇。 ・・・か」
 走る列車のシートに座りながら、将は感心しきったように記事を読み上げ、大きなた
め息をついた。
「俺は、とんでもない人と練習試合をしたんだなあ」
 独り言のような将の言葉を聞いて、四本松が言った。
「それだけじゃないでしょ。その上、ちゃんとテニスをしたんじゃない?」
「0−6でね。
 おまけに俺は、たった1セットで疲労困憊だったのに、この人達は、フルセットあん
なプレーをするんだから、 ・・・まったく化け物だな。
 実際、プレーをしてみるとそれがよく判るようになるよ」
 連尺が興味深げに聞いた。
「それで、将くんはどうなの? 
 さっき言ってた様に、その高い山を目標にはしないの?」
 その声に、将は一旦連尺に目を向け、すぐに記事に視線を戻す。
「そうだね。目標にするには世界が違いすぎるし、こんな化け物達を相手にするかと思
うと、背筋が寒くなるな」
 そう言って将は笑った。
 だが、それは苦笑いとか、あきらめた時にするような冷めた笑いではなく、不敵な笑
いであった。
 そう、それはどこか、肉食獣が何か獲物を見つけた時のような雰囲気があった。
 西島が、一人の3年生部員に小声で言った。
「表情と言ってる事が全然違いますね」
 そのかたわらで四本松は、将の顔を見つめながら、
(男の子って、こんな顔をするんだ)
 と、そんなことを思い、連尺は、全く別の方向の、窓の景色を眺めながら、こう思っ
ていた。
(こんな顔をされたら、何も言えないじゃない。
 将くんは、自分で気が付かないだけで、もう、次に向かっているのね)
 様々な思いを乗せて、列車は走っていった。


 
 その同じ日、美樹原と館林は、二人でショッピング街に来ていた。
 いろいろな店を見て回って来たが、ウインドウショッピングが主体だったため、買い
物の荷物はほとんどない。
 そろそろ家に帰ろうかと言う前に、ファミーリーレストランに入り、軽い食事を取っ
た。結局、なんだかんだで昼食をとり損ねていたのだ。
 そこで、和人のことに話が及んだ。
 二人が会う時は、ある程度和人の話題になる事が多かった。
「でも、メグちゃんの健気さに、和人くんはなんにも感じないのかなあ?」
 スパゲティーボンゴレを頼んだ館林が、フォークでスパゲティーを絡ませながら言っ
た。
「え?」
 そんな事を言われた美樹原は、アイスミルクティーを飲んでいたストローから、口を
離した。
「な、何? 突然?」
「だってそうじゃない。
 メグちゃんは、本当に和人くんの事を想って居るのに、はっきりしない態度を取り続
けてさ。それって、一番ひどいことだよね?」
 館林は同意を求める口調だったのだが、美樹原は静かに首を振った。
「ううん、いいの。
 和人くんが、他に好きな人がいると知っているのに、それでも、好きになっちゃった
の。和人くん、本当はすごく優しい人だから、私の気持ちを、これ以上押しつけたら、
きっと苦しめる事になると思うの。
 今は、和人くんのそばにいられる、それだけでいいの」
 館林は小さくため息をついてから、美樹原を見据えて言った。
「判らないなぁ。どうして、そんなに一人の子を、思い続けることが出来るのかな?」
 館林の質問に、美樹原はクスリと笑った。
「何がおかしいの?」
「え? だって、見晴ちゃんがそんな事言うなんて、見晴ちゃん、私なんかより、ずっ
と・・・ 」
 そこまで言って、美樹原はハッとした表情となって慌てて言葉を継いだ。
「ご、ごめんなさい!」
 館林は片手を目の前で振りながら、笑顔で答える。
「いいんだってば。もう、立ち直ってる事だから、今はいい思い出よ。メグちゃんに話
したのだって、気持ちにふんぎりがついたから話せたんだ。
 もっとも、二人とも同じ人が好きだったなんて、意外だったけど」
 館林がそこまで言うと、二人は顔を見合わせ、クスクスと笑った。
 館林が続ける。
「 ・・・そうよね。私は3年間、君本くんのこと想ってたんだっけ。
 あの頃は君本くん、特に誰が好き。って決ってはいなかったから、まだ、救いがあっ
たんだよね。噂はあったけど、決定的じゃなかった。
 でも、メグちゃんはそれを知ってながらでしょ? 私とはちょっと違うわよ」
「私も不思議。君本くんが他の人を好きだと聞いた時、あんなにショックだったのに、
和人くんの場合は、それが判っていても好きなの。自分でもよく判らないのよね。この
辺りは」
「でも、誰なんだろう? 和人くんの好きな人って?」
「和人くんの身近にいる人みたいだけど、それ以上は・・・ 」
「ひょっとして私だったりして?」
 自分を指さし、ふざけた口調で館林は言ったが、美樹原は茫然とした表情で、館林を
見つめるだけだった。
「や、やだ、冗談よ、メグちゃん! 冗談だってば」
「もう、見晴ちゃんったら!」
「ごめんって」
 平謝りの館林だったが、やがて真面目な口調になる。
「でも、このままじゃ、そうそう進展は望めないよ。」
「うん、判ってる。このままじゃ、なんにも変化は起きないって、判ってるんだけど。
  ・・・そもそも私、まだ、和人くんに、好きですって言ってないもん」
「だから、言っちゃえばいいじゃない。そうすれば和人くんだって、考え直してくれる
でしょ?」
「だ、だって、そんなの、なかなか言えないわ」
 やっとの事でそう言って、顔を真っ赤にしてうつむいた美樹原の姿に、館林は思っ
た。
(こりゃあ、私が一肌脱ぐしかないなあ。参ったな)
 だが、なぜか、その表情は緩んでいた。



   ときめく時の中で(213)

  迷いの季節(13)



 館林が、何か思いついたような表情で美樹原に言った。
「私と同じ大学に、十一夜さんと言う人がいるんだけど、知ってるかな?
 きらめき高校の出身なんだけど・・・ 」
 それに対して、美樹原が答える。
「 ・・・十一夜さん? ええ。知ってるわよ。
 占いに取っても詳しい娘でしょ? 私と同じ読み方をする名前だから、気にはなって
たわ。
 それがどうかしたの?」
「うん。その十一夜さんから聞いたんだ。
 きらめき高校に伝わる、もう一つの永遠伝説。
 聞いたことある?」
 ”もう一つの永遠伝説”
 仰々しい単語に、美樹原はしばらくの間、呆気に取られ、やがて、力のない笑いと共
に、館林に顔を近づけて聞いた。
「何? それ?」
 館林は、訳もなく自慢げな態度でその疑問に答える。
「そうかあ。メグちゃんも知らないか・・・ 。
 文化祭の後夜祭の時のフォークダンス。知ってるよね?」
「ええ」
「その時、パートナーになった男の子に、女の子から好きと言って結ばれた二人は、永
遠に幸せになれる。って言う話があるの」
 美樹原は、あからさまではないにしろ、少しばかり、疑うような表情になった。
「見晴ちゃんを疑うわけじゃないんだけど、なんかそれって、いかにも二番煎じってい
う伝説ね。本当にあるのかなぁ?」
「あ、あるんだってば!」
 館林のむきになった、そして真剣な表情に、美樹原も表情を引き締める。
「判った。見晴ちゃんを信じましょう。
 それで、それがどうしたの?」
「だからぁ。その時に、思いきって和人くんに、告白してみればいいんじゃない? っ
て言ってるの!」
「は?」
 美樹原の間の抜けた声に、館林が焦れたような表情になる。
「こう言うのってきっかけでしょ? 卒業してからだと、卒業式の日に学校には、なか
なか入りづらいけど、文化祭なら気軽には入れるでしょ。
 その時、和人くんが一緒に踊ってくれたら、思いきって告白できそうだとは思わな
い?」
 気合いと言うべきか期待と言うべきか、はたまた興味と言うべきか、目をらんらんと
輝かせる館林に対して、美樹原は大きなため息をついた。
「 ・・・見晴ちゃん」
「何? 何?」
「確かにそうなったら、いいなって思うし、勇気を出せると思うわよ。
 でも、見晴ちゃん。あの和人くんが、フォークダンスを踊ろうなんて、そんな気にな
ると思う?」
「うう、ふにゃあ。 そ、それは、そうかも知れないけど・・・ 。
 でもでも、希望は持っていてもいいんじゃないかな? 私から見たって、和人くんは
メグちゃんに対して、まんざらでもないはずだよ。
 とりあえず、文化祭に顔を出してもいいんじゃない?
 それで、そんな事になったら、宝くじが当たったつもりで、ドカーーンとぶつかって
みれば?」
(元気づけようとしているのかしら? それともその逆? よく判らないなあ)
 館林の言葉に対して、そんな事を考えていた美樹原だったが、やがて、にっこりとし
た微笑みを返す。
「でも、文化祭には行くつもりよ。和人くんから、招待券もらっちゃったもん」
「なんだ? そうなんだ?」
「うん」
 その返事に、館林は小さな声で言った。
「よし! これで決まりね!」
「え? 何?」
「ううん、こっちの話」
 館林はそう言ってごまかしたのだが、内心ではニヤリと笑っていた。



「ただいま」
 夕闇の中、館林が自宅に戻った時、和人は庭にいた。
 その時和人は、片手での腕立て伏せの最中だった。
「ふう!」
 ノルマを果したのだろう、和人は芝生に両膝をつき、上半身をおこし両手を回した。
「相変わらず頑張ってるね。和人くん」
「ああ。お帰りなさい。見晴姉さん」
「もう、今日のトレーニングはおしまい?」
「え? ええ、そうだけど。 ・・・何かな?」
「う、うん。メグちゃんに文化祭の券あげたんだって?」
「な、なんで・・・ 」
 (なんでその事を知っている?)と聞きたかった和人だったが、その理由は明白だっ
た。
 美樹原と遊びに行くと、朝、出かける前に聞かされていたから、推理するまでもない
事だった。
「愛から聞いたのか」
 和人は独り言のように、そう言った。
「メグちゃん喜んでたよ。”和人くんから誘われる事なんて、滅多にないから”って」
「ひどいなあ、滅多にないだなんて」
「だってそうでしょ?」
「う、まあ、そうかな?」
 和人は気まずそうに、額の汗をタオルで拭った。
「なにかあったの? 和人くんがそんな気になった原因は?」
「特にどうと言う事はないんだけど、俺が今、学校でどんな生活をしてるのか見せてあ
げようと思っただけだよ。
 よく聞かれるから、学校でのこと」
「ふーん、和人くん、やっさしい!」
「ば、何を言って・・・ 」
 顔を真っ赤にした和人が、何か言い返そうとしたのだが、館林はそれを許さない。
「ねえ、和人くん。一つ聞いて良いかな?」
「な、何を?」
「メグちゃんには絶対、内緒にするから教えて」
「だから、何を?」
 館林は、一旦、静かに息を吸い込んだあと、真剣な表情になって言った。
「和人くん、メグちゃんの事、どう思ってるの?」
「!?」
 和人は声もなく、館林の瞳を見つめ返す。
「ただの知り合いとか友達とか、先輩、後輩とかじゃなくて、一人の女の子として、メ
グちゃんの事、どう思ってるのか聞かせてくれる?」
「・・・・・・」
 和人はしばし無言でいるだけだった。沈黙の時間が、ただ静かに流れる。
 だが、和人は意を決したように答えた。
「全く、見晴姉さんったら、本当に、突然なんだから・・・ 」
 そして、立ち上がり、館林に向きながら、表情を引き締める。
「俺、愛を好きだよ。一人の女性としてね。
 それに、愛に直接言われたわけじゃないけど、愛の気持ちも判っているよ。
 だけど・・・」
「他にも好きな人がいる・・・ でしょ?」
 思っていた通りの事を館林に言われ、和人は小さく2回ほどうなずいた。



   ときめく時の中で(214)

  迷いの季節(14)



 声もなくいるだけの館林に、和人はフッと笑いを浮かべる。
「実際にはね、かなり整理はついているんだ。
 けど、今一踏み出せないでいる。と言った状態かな?」
 和人はそこまで言って、一旦言葉を切る。館林は何も言わず、和人の次の言葉を待っ
ていた。
「愛のことは好きだ。だけど、自信がないんだ」
「自信? メグちゃんの事が好きという事が?」
「いや、そうじゃなくて。
 こんな俺でいいんだろうか?って事」
「?」
 館林には、和人の言おうとしている事が理解しかねた。
「判んないなあ。
 これは私の印象だけど、メグちゃん、和人君のこと本当に好きだと思うよ」
 もちろん館林は、美樹原の和人に対する気持ちを、本人から聞いている。だが、それ
をここで言うわけにはいかない。
 少し罪悪感を感じながら館林は続ける。
「メグちゃんは本当にいい娘だよ。あんないい娘を好きになったんだから、和人くん、
自信持っていいと思うよ」
 その言葉に、和人が答える。
「だからだよ。だからなおさら、俺なんかでいいのかって思うんだ。
 愛の親にも会った事あるから判るんだ。愛は本当に大事に育てられてきたんだって。
 それを受けて育ったんだって。
 それに引き換え・・・ 」
 和人は口ごもり、しばらく地面を見つめていたが、やがて静かに続けた。
「姉さんだって知ってるでしょ? 俺の両親の話は」
 館林は無言でうなずいた。
「家そっちのけで、お互いに恋人を作っているのに、世間体を気にしての形だけの家
族。
 俺だって、それに甘えて、荒れて、補導されたことなんて数えきれないほどで!」
「和人くん!」
 気付かないうちに語気の荒くなった和人を、館林が抑える。
「もういいんだよ、和人くん。これ以上、自分を責めなくたって。
 和人くんはちゃんと立ち直っているんじゃない。自分の過去を責めちゃ駄目だよ」
 館林になだらめれ、和人は落ち着きを取り戻す。
「俺は、愛情というものを知らない人間なのかも知れない」
 その言葉の意味に、館林はビクリと身体を震わせる。視線も定まらないまま、和人は
続ける。
「愛のような純真な想いに、応えられる自信は、今の俺には、 ・・・ない」
 苦しげな口調で和人が言うと、館林が感情を押し殺した口調で答える。
「メグちゃんは知ってるよ」
「な?」
「メグちゃんは知ってるのよ。和人くんの事は」
「・・・・・・? 姉さん! 話したのか?」
「しょうがないでしょ! 同居してる事、なんて説明するの!?」
「姉さん?」
「和人くん。私が謝るとしたら、本当なら、それは和人くんが言わなくちゃいけない事
だった。って事だけよ。
 でも、それで、メグちゃんの態度、変わった? 変わらないでしょ?」
「!?  ・・・そう言えば」
 館林にそう言われ、和人は初めてその事に気が付いた。それほど、美樹原の和人に対
する態度に、変化がなかったのだ。
 半ば呆然とする和人に対して、館林が続ける。
「メグちゃんって、それほど強いと言う感じしないけど、なかなか、芯は通ってるんだ
よ。
 今度は和人くんが、どう答えるか? よ」
 館林の言葉が終わると、和人がゆっくりとした口調で言う。
「姉さんって、ここが違うんだよな」
「へ? 何が?」
 予想外の和人の言葉に、館林は不意をつかれたような形になった。
「だってさ。普通と言うかなんと言ったらいいか、こう言う時って、”その気持ちに応
えなきゃ”とか、”いつまでもはっきりさせないのは卑怯だ”とか言いがちでしょ?
 姉さんは、そういう事言わないから ・・・」
 その言葉に、館林は苦笑いのような表情になった。
「私は、そんな偉そうなこと言えないもん。
 そういう事を言うのって、とても勇気がいるものだし、私には、その勇気が出せなか
った経験があるから、とてもそんな事は言えないな」
 和人は言葉をなくした。その言葉の意味を、和人は知っているからだ。
「でも、やっぱり、メグちゃんは大切な友達だから・・・ 。
 和人くん、お願いね」
 (何を?)普段の和人なら、軽口混じりでそう言っただろう。だが、今は、そんな雰
囲気ではなかったし、和人自身も、そんな事を言う気にはなれなかった。
 無言でうなずく和人を見てから、館林は家に入っていった。
 入った後、館林は内心で思った。
(とても、文化祭のことを言える雰囲気じゃなくなっちゃったもんな。うーーん、どう
しよう?)
 館林の悩みなどは露知らず、残った和人は、すっかり暗くなった空を見上げた。



 文化祭が近づき、テニス部はそれに対してどうするか?を決める時期に来ていた。
「また、やるんですか? あれ?」
 テニス部の部室で幹部会議が開かれ、連尺や将の前で、恐る恐るといった感じで、西
島が言った。
 松島が呆れたような表情で答える。
「心配するなって、今年はニシじゃないよ」
 3回目にして、早く、もきらめき高校名物になりつつある”男子ミスきらめく高校”
と”女子ミスターきらめき高校”が開かれる事となり、テニス部もそれに参加すること
となったのである。
 西島が心配したのは、昨年に引き続き自分が出されるのではないのでは?と心配した
のである。
「今年は、女子はともかく、男子には強力なメンバーがいるじゃない?」
 そう言った四本松の声に、西島はほっとした表情になった。
「そうか、今年は鏡がいたか・・・ 」
 将はその声に、苦笑いを浮かべる。
「でも、明くん嫌がるだろうなあ・・・ 」
 将の懸念に西島が答える。
「大丈夫ですよ。連尺キャプテンが出ろと言えば、いやと言うわけないんだから」
「?」
 将には、西島が言っている意味が、今一つ理解できなかった。まわりのメンバーは、
それを説明しようとはしなかった。
 当の連尺でさえ、その理由がうすうすと判っているのに、将のそういう感覚は、未だ
に、人並みとは言えない部分があった。
 まわりのメンバーの、やや冷ややかな、諦めたような雰囲気を感じているのかいない
のか、将は話題を変える。
「ところでさ、連尺」
「ん? なに?」
「俺と四本松は、文化祭の時、テニス部には、あまり来られないから、こっちの事はよ
ろしく頼むな」
「え? あ、ああ、3オン3ね? 今年も去年と同じメンバーで出るの?」
 連尺の質問には、苦笑いで四本松が答えた。
「そう、優美ちゃん・・・ バスケ部のキャプテンの早乙女さんがやる気満々でね」
「それでもう、どうやって和人を引っ張り出そうか、散々悩んでるよ。
 俺達は、すでに計算に入ってるらしくて、抜ける訳にいかなくなっちゃったのさ」
 将がそう続けた後、四本松に視線を向け、同じ種類の苦笑いを浮かべた。
「?」
 今度は、将と四本松以外の者が、疑問の表情を浮かべる番だった。



   ときめく時の中で(215)

  迷いの季節(15)



 文化祭も近づいた、秋と言うにはやや暑い日の昼休み。
 教室で、早乙女優美が、将、四本松、和人の3人に、文化祭で行われる、バスケット
ボールの3オン3大会のことについて話していた。
「今年こそ、優勝を狙うのよ!」
 熱い炎が、栗色の瞳の中に燃え盛る優美に、他の3人はひきつった笑いに、冷たい汗
を流した。
「ま、将くんと優ちゃんは確定だからいいとして・・・ 」
(いつ確定したんだ?)
 優美の言葉に、将と四本松はそう思ったが、”やるとは言ってない”等とは口にはし
ない。無駄なことだと判っているからだ。
 そんな二人にかかわらず、優美は和人に向き直った。
「和人」
「ん? なんだ?」
「んもう。なんだじゃないよ。
 和人は嫌がるかも知れないけど、どうしても出てもらうからね。
 文化祭でやる、3オン3には!」
 和人は、しばらくなんの反応も示さなかったが、やがて、無表情に近い顔で、ポツリ
と言った。
「ああ、その事か・・・ 」
「 ・・・その事かって、いくらやる気がないからって、そんな言い方ないよ」
「あ? いや、そうじゃないよ。
 早乙女がそのつもりなら、俺、やってみたいなって思っていたぞ」
「へ?」
「え?」
 同時に声に出したのは、将と四本松だった。
 優美は?と言うと、喜ぶというより茫然としていた。やがて、その言葉の意味が飲み
込めると、両拳を固めて、唸るように叫んだ。
「くうーーっ! すごい進歩だぁ! 和人が化けたあ!」
「おいおい。どういう意味だよ、それは?」
 いかにも心外だと言うような口調の和人に、優美は答える、
「だって、だって。和人が、あの和人が、誰も何も言ってないのに、やる気を出すなん
て、これはもう事件だよ!!」
(ひどい言われようだ)
 将も四本松も、正直なところそう思った。だが、同時に、和人の変化が、なぜかとて
も嬉しいと感じているのも事実だった。
(和人、何があったんだろう?)
 将がそんなことを考えていると、偶然、和人と視線があった。
 和人はまるで、将の心を見透かしているような笑顔を浮かべた。
 そう、実際、和人は将が考えていることが判るような気がしていた。
(そうか、美里さん。将にも話してないのか・・・ 。
 あの人らしいな・・・ )
 和人はその数日前の日曜日に、記憶の時計の針を戻した。


 その日曜日の午後、和人は、将と美里のアパートの階段の下あたりを、うろうろと歩
いていた。それは和人自身でも、自分らしくないと思えるほど、はっきりしない行動だ
った。
 しばらくの間、そんな風にしていた和人だったが、ドアの開く音に視線を上げた。
「美里さん」
 視線の先、玄関のドアに、Tシャツにジーンズと言う、ラフな服の美里が立ってい
た。
「あら、やだ、和人くん、来てたの? 
 いつから? 呼んでくれればいいのに」
「まだ、寝てるかと思って・・・ 」
「気を利かせてくれたんだ。ありがとね。
 ・・・ああ、将なら部活があって、今は学校よ」
「あ、知ってます。き、今日は美里さんに、 ・・・話があって」
「ふーーん。ま、とにかく、ここじゃ何だから、上がっていきなさい」
「は、はい」
 美里に促され、和人は階段を上がっていった。


「それにしても久しぶりね、和人くんが家に来るのも。ま、家が遠くなっちゃったか
ら、仕方がないと言えば仕方がないかな?
 どう? 元気にやってる?」
 インスタントコーヒーを入れた美里が、座卓の前に座る和人に差し出し、その斜め前
に座りながら聞いた。
「はい、何とかやっています」
「和人くんらしい答えね。 ・・・で、話って?」
 単刀直入に美里は聞いた。
 和人は決心して、ここに来たつもりだったのだが、いざその段になると、その決心が
揺らぐ。
 はっきりしない自分に、和人自身が苛立っていると、それを見越したように、美里が
軽く座卓を叩く。
「領家和人! はっきりしなさい! 話があって来たんでしょ?!」
「は、はい! すいません!」
 感電したかのように姿勢を正す和人に、美里はクスクスと笑う。
「かと言って、そんなに緊張しなくたっていいのよ。
 別に話したくなければ、無理に話さなくたっていいんだから」
 妙なもので、そう言われると逆に開き直れる。和人は覚悟を決め、大きく息を吐く。
「笑われちゃうと思うんですが・・・ 」
「何? 言ってみないと判らないわよ」
 優しく微笑みながら、美里が言った。
 和人は続けようとしたが、喉が異常に渇いたため、コーヒーを一口飲み込む。
 コーヒーカップを置き、口を開く。
「俺、 ・・・美里さんの事が、一人の女の人として、ずっと好きでした」
 沈黙が流れる。
 その沈黙が和人にとって重圧になろうとした時、美里が言った。
「ありがとう、和人くん。 とっても嬉しいわ」
「え? 変じゃないですか?」
「どうして? 和人くんみたいな素敵な男の子に、好意を寄せてもらえるなんて、嬉し
いに決ってるじゃない。どうして変だなんて思わなければいけないの?」
「だって、美里さんからみれば、それこそ俺は子供だし、まともに相手にされないって
思っていたから・・・ 」
 美里は和人に向けて微笑んだ。それは決して和人をからかうような笑みではなく、慈
しむような笑顔だった。
「人を好きになるのに、年齢とか環境とかは関係ないわ。和人くんが真剣に私を想って
くれるのなら、それを笑うなんて、私にはできないわ。
 ありがとう」
 微笑む美里に、和人は顔を赤くしてうつむいてしまった。
 そんな和人に美里は言った。いかにも残念そうな口調で。
「でも、過去形なのね?」
 和人はしばらくためらった後、ゆっくりとうなずいた。
「やっぱり、美樹原さん?」
 今度は和人はうなずかなかったが、それは充分に肯定を表現していた。
 美里は天井を見上げながら、ため息をついた。
「あーーあ、後10年、いや、8年遅く生まれて、和人くんに巡り会えていたら、いっ
ちょ勝負してやろうかって思っただろうけど。
 美樹原さんが相手じゃ、あきらめるしかないわね、こりゃ」
 美里のややおどけた口調に、和人の気がほぐれる。
「違いますよ。
 美里さん、そして将がいなかったら、俺はもっと、どうしようもない人間になってい
たはずです。
 多分、一生、美里さんの事を忘れないと思います」
「でも、美樹原さんがいいんだもんねぇ?」
「そんなにいじめないでくださいよ」
 和人は苦笑いをするしかない。美里が言う。
「それでいいのよ。いつまでも私達に恩義を感じていることなんてないの。
 もう和人くんは、和人くんのために生きていいと思うよ」
「俺の、・・・ ために?」
「そう。和人くんは気が付いてないかも知れないけど・・・ 。ううん、多分知っているは
ず。
 和人くんは、ずっと自分を抑えていたでしょ?」
 美里の質問に、和人は答えず、美里の顔を見つめた。美里はゆっくりと続ける。
「間違っていたら言ってね。
 それは将より目立たないため。
 将の影に撤して、将を守ろうとしてくれていたんだよね?」
 和人はゆっくりとうなずき、そのままうつむく。
「俺にはそのぐらいしか出来ないから・・・ 」
「私はね、和人くん。それを察していながら、それを止めようとしなかった。
 だって、自分の息子、将が可愛いんだもん。だから、和人くんの好意に甘えていた」
「いいんです。それが俺の望んでいたことでしたから」
 そう答える和人に対し、首を振って美里が言った。
「私はずるい女よ。とても、和人くんのような、純粋な男の子には似合わないの」
「そ、そんな事・・・ 」
「ううん。ずるくて卑怯よ。だから、こんな私の事より、これからは和人くんを純粋に
思ってくれる娘を守ってあげて。
 もう、将も独り立ちするときが来ているんだから」
「美里さん・・・ 」
 和人にはもう何も言えなかった。
 和人には判った。今日、和人がここに来たのは、まさに、この結論を得るためだとい
う事を、美里が見抜いていることを。
 美里は自らをおとしめることによって、和人を自由にしたのである。
 和人自身が選んだ呪縛から・・・ 。


「では、お元気で」
 玄関で靴を履きながら、和人が言った。
「んもう、今生の別れじゃないんだから、そんな事言わないの。また遊びに来てね」
「はい」
「美樹原さんもつれておいでね」
「 ・・・美里さん?」
「ん?」
「俺、人を好きになる資格があるんでしょうか?」
 和人の質問に、美里は笑顔で答える。
「あるわよ。二人分ぐらいね」
 美里の返事に、和人はどんな表情をしていいのか判らず、結局苦笑いをしてしまうの
だった。



「どうした和人? ぼーっとして?」
 将の声に、和人は現実に引き戻された。
「え? ああ、ちょっとな」
 そう言って和人は笑った。
「?」
 その姿に、将達は首を傾げるだけだった。



   ときめく時の中で(216)

  迷いの季節(16)



 きらめき高校の文化祭が、秋晴れの中行われていた。
 仮装と言うべきか変装と言うべきか、普段ならとてもできないような姿の生徒達が歩
き回る中、美樹原は一人でいた。ここに来たのは卒業以来になる。
「半年ぐらいじゃ、そんなに変わるわけないよね」
 教室などの配置が、そのわずかの間で変わるわけもなく、美樹原は迷うこともなく和
人の教室3−Bについた。
「世界の文豪の生涯?」
 3−Bの教室の前で、美樹原は固まってしまった。なにしろ、そのクラス出展が、意
外に真面目な物だったので、感心するのと同時に呆気にとられてしまったのである。
(でも、これが本当の意味の文化祭なのかな?)
 そんな事を考えながら、美樹原は教室に入った。
 テーマがテーマなだけに、中に人はまばらだったが、展示物が真面目なものだけに、
ほとんどの人間が真剣にそれに見入っていた。
「ふーん。よく調べてあるのね。すごいな」
 しばらくの間、一人でそれらを見ていた美樹原だったが、ふとここに来た訳を思い出
した。ここからが彼女らしいのだが、近くの男子生徒には聞かず、少し離れた女子のと
ころに歩み寄って訪ねた。
 美樹原の質問に、その女子は少し不思議そうな表情をしながら答えた。
「ああ、和人ですか? 今日はもう体育館に行ってますよ。
 3オン3のイベントがあって、それが終わるまで帰らないと思います。最後まで勝ち
抜くつもりらしいから」
 そう言ってその女子生徒はクスリと笑った。
「そう、体育館に・・・ 、ありがとう」
 美樹原はお礼を言って教室を出て行った。
 後に残された女子生徒は、近くにいた女子に駆け寄り、焦ったような声で聞いた。
「ちょっと、今の人、誰か知ってる?」
「ああ、私知ってる。今年、卒業した人よ」
「それがどうして和人を?」
「さあ、それは知らないわよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 無言で顔を見合わせていたが、やがて唸るように言った。
「見に行きたいけど・・・ 」
「当番だからねえ・・・ 」



 体育館は歓声に包まれていた。
 バスケットボールの3オン3の試合が各ゴール下で行われており、その中に和人の姿
を認めた美樹原の表情が、ぱっと明るくなる。
「か・・・」
 和人の名を呼ぼうとして美樹原は気が付いた。この場にいる多くの者達の視線が、和
人達に向けられていることに。
 美樹原が卒業した後、和人、将、四本松、そして早乙女優美4人の人気は相当なもの
となっていた。
 確かに美樹原も、在校当時にはそう言った話は何度か聞き及んでいたが、現在のこの
状況はそれ以上のものがあった。
 どちらかと言うと将と四本松は、同級生の3年生からの人気が大きいウエイトを占め
ている。付け加えるなら卒業生等の年上の人間も含まれる。テニスでの活躍を見せる二
人に親しみを感じるのである。
 対する優美、和人は下級生の1.2年生からの人気が高い。
 優美はバスケット部での下級生に対する態度が示すように、以前から人気は高かっ
た。
 そして和人は、言うならば”身近な、あこがれの対象”だった。
 下級生(特に女子)から見た場合、将はあこがれではあるが、逆に雲の上の人と言う
印象さえ与えかねない。だが、和人にそれはない。
 加えて、和人は硬派として通っていた。特定の女性と付き合うということがなく、浮
いた話もない(実際には美樹原と校外で会っていたりするのだが)和人は、そう言う見
方をされていたのである。
 そんな4人が揃ったこのチームが注目を集めるのは、ある意味当然であった。
 美樹原の耳に、隣にいた二人の女子生徒の会話が入ってきた。

「ううーー、今日の領家さん、気合い入ってるなあ」
「よく判るわね?そんな事」
「当たり前でしょ?! 私はねえ、昨日今日、領家さんの魅力に気が付いて、きゃーき
ゃー騒いでる、にわかファンとは違うのよ」
「はいはい。あんたが領家マニアだって事は、身に染みてよく知っていますよ」
「うー、何かひっかかる言い方」
「結局、それだけの間、見てるだけだったんでしょ?」
「そ、それを言われるとつらい・・・ 」
「ま、そんな人多いけどね」
 
 美樹原は急に疎外感のようなものに襲われた。それは、和人には和人の生活パターン
や、環境があることを実感させられたからだ。
 自分は和人の近いところにいると思っていた。だが、実際には和人には和人の生活の
場があり、自分はその場にいない。
 卒業してしまった自分には、和人と同じ空間にいる事は出来ない。そして美樹原には
それを乗り越える術はないのである。
 それはどうしようもない疎外感となっていた。
(そうか、和人くん人気あるんだ。そうだよね、和人くん格好いいもんね。それに優し
いし、人気があって当然よね。
  ・・・でも、私だって、負けないもん。和人くんが誰を好きでも、この気持ち、今まで
変わらなかったんだから)
 最初のうちこそ、疎外感から弱気になっていたものの、やがて前向きな感情に変化し
ていく美樹原だった。。
(でも、このままでいいわけないな。まだ、私告白もしてないんだもの)
 そんな事を考えた美樹原は、ふと館林から聞いた事を思い出して顔を赤らめた。
 文化祭の後夜祭のフォークダンスの時、女の子から告白して結ばれたカップルは永遠
に幸せになれるという伝説。それを思い出したのである。
 実際、その話を聞いた時、実行してみようかとも思ったほどだった。だが、美樹原は
ブンブンと首を振って、それを否定した。
(馬鹿ね。和人くんがそんな事するはずないのは、よく知っているじゃない)
 美樹原は、そうして自問自答を繰り返していたのだが、その姿は注目を集めるような
ものではなかった。
 しかし、その姿に気が付いた者が一人いた。
 和人や将がプレーをしているコート脇で、その姿を見ていた優美だった。
 準々決勝進出を決める試合に勝ち、引き上げる和人を優美が捕まえる。
「和人、和人」
「ん?・・・・・・なんだ?」
 荒い息で和人が答えると優美は体育館の隅をあごで示した。
「来てるよ。美樹原さん」
「なんであんな所にいるんだ? こっちに来ればいいのに・・・ ?
 ああ、そうか、愛の性格じゃ、人をかき分けてくると言うのは出来ないか。こっちか
ら出迎えてやらないとな」
 和人の声に優美は、
(さすがに将くんほどは鈍くはないか)
 と思ったのだが、声に出すようなことはしない。
「俺、ちょっと行ってくる。すぐ戻ってくるから」
「うん、次の試合はコート脇で応援してもらおう。そうすれば、和人の気合いもさらに
増すだろうしね」
「ば、そんな馬鹿なこと言ってるんじゃないよ」
 和人はそう言ったのだが、優美は、遠くなる和人の背中を見ながら、思わずにはいら
れなかった。
(ふーーん。和人も変わったなあ。前はあんな事じゃ、動じなかったのにね)

 和人の行く先では、ちょっとした小声の歓声が沸いた。その歓声が自分に向かってい
ることに美樹原が気が付いた直後、和人が声をかけた。
「愛、何してるんだよ? こっちにおいで」
「え? だって・・・ 」
「せっかく来たんだから、近くで応援してよ」
「で、でも・・・ キャッ!」
 戸惑う美樹原の腕をとり、和人は将達のいるところに向かっていった。
「ちょ、ちょっとあの人誰?」
「領家さんの何?」
 遠くからそんな声が聞こえたような気がして、美樹原はうつむいてしまった。
 しかし、それは恥ずかしいからではない。
 むしろ嬉しいという気持ちの比重が大きかった。



   ときめく時の中で(217)

  迷いの季節(17)



 3オン3の大会も準決勝をむかえていた。
「さあ行くか」
 将の言葉に、四本松がうなずく。
 そして和人は、靴のひもを結び直した後、ゆっくりと美樹原の方に向いた。
「愛」
「?」
「まあ、こんな校内のお遊びだけど、頑張るからな。見ててよ」
「?  ・・・うん。頑張ってね」
 美樹原がそう答えるのを聞き終えた和人は、将、四本松にわずかに遅れてコートに入
った。
 ずっと出番がなく、この試合も控えに回った優美が美樹原に近寄る。
「ひゃー、驚いた。
 和人が頑張るなんて言うなんて、初めて聞いたような気がするわ」
「わ、私も・・・ 」
 和人の言葉に、優美の存在を半分忘れていた美樹原は、その優美の声に、ほんのり頬
を桜色に染める。
 優美はそんな美樹原に微笑みながら言った。
「和人、何があったのか知らないけど、最近変わったなあ。どうしたんだろう?」
 それは暗に、美樹原の影響だと言いたい口調だったのだが、当の美樹原も不思議そう
な声で答えた。
「私も、それが知りたいな・・・ 」
「あら?」
 予想とは違う答えに、優美は肩を落とした。
 事実、美樹原も、和人の変化に戸惑いすら覚えており、その訳を知りたいと思ってい
た。



 試合の方は、将、和人、四本松のコンビネーションが冴え、圧倒的な攻撃力を見せて
いた。
「ヘイ! 将!」
「よし!」
 将のダンクシュートが決まり、館内に歓声が上がる。
 試合を決定づける得点に、四本松が手を叩く。
 試合終了の笛が鳴り、将達のチームは決勝に進み、そのままの勢いで、決勝戦も制し
た。

「すごいよ和人くん。圧倒的ね」
 はっきり言って、美樹原の関心は和人にのみに向けられていたが、将、四本松、そし
て優美も、
(これは、しょうがないか)
と、あきらめたような表情になっていた。
 和人も汗をタオルでふきながら、笑顔で答えた。
「なんとか勝てたよ。愛が応援してくれたからね」
 その口調は冗談めかしたものだったが、どうもそうは聞こえない。
 美樹原は耳まで顔を赤らめ、黙り込んでしまい、将達は将達で、
(はい、はい、はい)
と思いながら手で顔を仰いだ。



「えー。それでは、優勝した3−Bチームのメンバーには、恒例となった後夜祭のフォ
ークダンスのパートナーを選んでいただきましょう」
 バスケット部の男子部員が司会となって、表彰式が行われていた。
 バスケット部が主催となって行われた、3オン3大会の優勝チームにはバスケット部
員からダンスのパートナーを選べるという副賞があった。
 お立ち台に上った将は、どうしようか悩んだ。彼らしいことに、そう言った副賞があ
ることを、すっかり失念していたのである。
 散々悩んだ末、やっとこう言った。
「ああ、あの、バスケット部員以外の人を指名したいんだけど」
「は? はあ、それは構いませんが?」
 司会が困惑しつつ答えると、将は隣にいる人物を指さす。
「じゃあ、俺、四本松」
「え!?」
 全くの予想外の展開に、四本松は焦りまくったが、一回うなずいた後、はっきりとし
た声で答える。
「ハイ! 私もそれでいいです!!」
「 ・・・えーー。司会の私を差し置いて決められてしまいましたが、同意の上ですので許
可いたします」
 苦笑いの司会者につられて、場内に笑いが漏れる中、優美が片手を上げる。
「はい!はい! 優美はねえ・・・ !」
「早乙女さんは女子部のキャプテンですので、対象から外れます」
 司会の素っ気ない答えに、優美は不満げな顔になった。
「ぶーー!」
「さて、残った領家さんは、どうしましょう」
 マイクを差し出され、和人は息を吸い込んでから答える。
「俺は、・・・ そう、俺もバスケ部員以外から・・・ 」
「は、はあ?」
「美樹原愛さんを指名します。という訳だから、愛、帰るんじゃないぞ」

「だれ? なんで?」
 そんな声が沸き起こる中、当の美樹原の返事はなかった。その美樹原は、驚いたと言
うより茫然とした表情になっていた。
(和人くん・・・ ?)



 後夜祭のフォークダンスを踊りながら、四本松は将に聞いた。
「ねえ、将くん?」
「ん?」
「なんで、私を指名したの?」
 嬉しそうな四本松に対して、将は少しすまなさそうな表情で答えた。
「いや、バスケット部の人ってよく知らないから・・・ 」
「なんだ。たまたま、そばにいたからなのか?」
 四本松の表情が、一旦、落胆した物になったのだが、すぐに元に戻る。
(ま、将くんにありがちな答えよね)
 そう思いながら、話題をかえた。
「ところで、和人くんもどういう心境なのかな? 美樹原さんと踊るなんて?」
「うん。俺もそう考えていた。驚いたよ」
 二人はそれぞれの視線を、和人と美樹原の方に向けた。

 美樹原の胸の動悸は高鳴り通しだった。
 和人と踊るということは、嬉しいことは嬉しいのだが、まわりの視線が気になってし
まっていた。
 そしてそれ以上に、ある一つの言葉を言うべきかどうかを悩んでいた。
「愛? どうしたの? 嫌だった?」
 心配そうな和人の声に、美樹原は首を振る。
「ううん。そうじゃないの。あのね、・・・あ、なんでもないの」
 そう言ってから、美樹原は無言で自分に言い聞かせた。
(どうするの? このまま、黙っているつもり? せっかくのチャンスじゃないの!)
 美樹原は決心した。ゆっくりとうなずいてから、静かに言った。
「あのね、和人くん」
「ん?」
「言いたい事はいろいろあるけど、本当に言いたい事を、まず言うね」
「何?」
「好きよ。今まで言えなかったけど、今なら言えるわ。
  ・・・好きよ、和人くん」
「・・・ 」
 しばらく和人は何も答えなかった。
 本当に嬉しそうに微笑み、ポツリと言った。
「うん」
 和人は急にしゃがんだかと思うと、そのまま美樹原を抱き上げた。
「キャ!」
 美樹原が小さな悲鳴を上げる。それに構わず和人が言った。
「将! 後を頼んだぞ! 俺はふける! じゃあな!」
 美樹原を抱き上げた和人が、走り去る姿を呆然と見送り、将と四本松はほとんど同時
に言った。
「じゃあなって言われても・・・ 」



 しばらく走った後、和人は美樹原を芝生の上にそっと降ろす。
 美樹原はそのまま、ペタンと座り込んでしまった。
「どうした愛?」
 和人の声に、美樹原は今しがたの出来事を思いだした。その現実が実感となった時、
その顔が熟したトマトの様になる。
「どうしたんだよ。愛?」
 和人がしゃがみ込み顔を近づけると、美樹原は和人の胸を両手で叩いた。
「バカ、バカ、バカ、バカ、和人くんの馬鹿! なんで、こんな事したの?!」
「恥ずかしかった?」
「当たり前じゃない! うんもお!」
「ごめん。だけど、ちゃんと返事をしたかったからね」
「え?」
 和人が視線を上に向ける。それにつられて美樹原が見上げると、そこにはこれまで何
度も見上げて来た見覚えのある木があった。
「伝説の木?」
「別に伝説とかジンクスとか気にする方じゃないんだけど、愛、こういうの喜ぶと思っ
て」
「え?」
「長い間待たせたあげく、先に愛に言われちゃったけど・・・ 」
 滅多に見せたことのない戸惑いの表情の和人に、美樹原の心臓が高鳴る。もちろん、
いい意味での高鳴りである。
「あ、あの・・・ 。それは?」
「うん。俺も好きだよ。愛だけをね」
 美樹原は首を傾げる。
「でも、和人くん・・・ いいの?」
 美樹原の言いたい事は和人には伝わっていた。
「いいんだ、あの人のことはもういいんだ。
 今は、愛だけが好きだよ」
「和人くん・・・ 」
 美樹原は自分の視界が急に霞んでいくことを実感した。
「ああ、愛、泣かないでよ。俺、どうしていいか判らなくなるだろ?」
「だ、だって・・・ 」
 美樹原はその時になって、初めて自分が泣いていることに気が付いた。
 和人が右手の人指し指でその涙を拭う。反射的に瞳を閉じる美樹原に、冷やかすよう
な口調で和人が言った。
「愛が泣いているところを見たのは2回目か」
「あ、あの時とは違うわよ」
 そう反論した美樹原は瞳を開ける。そして、そのまま、凍りついたように動きが止ま
った。
 美樹原の視界一杯に和人の顔があり、そのままゆっくりと近づいてきた。
「あ」
 そう言って美樹原は、当たり前のように再び瞳を閉じた。



   ときめく時の中で(218)

  迷いの季節(18)



 テニス部の部室内で椅子に座った西島は、将と連尺を前にしていた。
「お、俺が次期キャプテン!?」
 そう言ったきり、西島は黙り込んでしまった。
 対する将は? と言うと、興味深げな笑顔を浮かべるだけであり、西島に答えたのは
連尺だった。
「3年生達で話し合ってそういう結論に達したの。
 みんなに公表する前に、西島くん本人に言っておこうと思って」
 そう言って笑みを浮かべる連尺に、西島もつられるように笑ったが、その表情はひき
つった物となっていた。
「ははは。 ・・・冗談ですよね」
 そう言ったものの、そうでない事は雰囲気で判る。
「な、なんで、俺が?」
「不服そうね?」
 やや冷たい連尺の声に、西島は焦りつつ答える。
「ふ、不服とかじゃなくて、次のキャプテンはマツだと思ってたから・・・ 」
 将が答える。
「うん、確かにそれもあったね。正直に言えば、最初から満場一致という訳じゃなかっ
たよ。
 だけど、話し合って適任だという結論になったのさ」
「なったのさって・・・ 。
 マツの方が絶対適任ですって!!」
「松島くん自身は、”僕は黒幕の方があってるから”と言ってたわ。
 言えてるわね」
 事なげに連尺が答えると、西島は半ば茫然としながら言った。
「そ、そんな・・・ 」
 そんな西島に、将が笑いながら話しかける。
「嫌か?」
「嫌とかじゃなくて、俺、連尺キャプテンのように部をまとめるなんて、とても出来ま
せんよ!」
「私のまねをする必要なんてないわ。西島くんは西島くんのやり方でやっていけばいい
のよ」
「 ・・・そんな事言ったって・・・ 」
 西島らしくない、煮え切らない態度に、将がため息交じりで言う。
「キャプテンの指名は本来拒否できないんだけど、そこまで言うんなら考えなきゃい
けないのかな? 
 次の候補に当たってみることに・・・ 」
「え? 次?」
 意外な言葉に呆気にとられた表情の西島に対して、連尺がやや残念そうな表情で(や
や演技がかっていたが)言った。
「実はもう一人候補がいて、もつれたの。最終的には西島くんになったんだけど、断ら
れたらしょうがないわね。
 そちらにお願いしなくちゃ」
 そう言った後、連尺は皮肉めいた笑いを浮かべる。
「誰だと思う?」
 この時の西島の表情を言葉にするのは難しい。
 ほっとしたと言うか安心したようにも見えるが、それでいて、どこか不満げな表情に
なっていた。
「誰なんです? それは?」
 思わずそう聞いた西島に、まるで待っていたといった風な表情で連尺が答える。
「み、な、み、さん、よ」
「ほ、本郷!?」
 わざわざ音節を区切って言った連尺の声に、西島の表情がまた違った意味で表現しに
くい物になっていた。
「まあ、南なら断ることはないだろうからな。
 かわいそうになあ。一年間、南に頭が上がらないな」
 冷やかすよな将の声に、西島の表情に暗いものが加わる。
「南さん、熱心だし、下級生の面倒見はいいし、問題はないのよね・・・ 」
 西島はうつむき、その表情にさらに陰鬱な物が加わる。
 それに対する将と連尺の表情と言えば、こみ上げる笑いを押し殺しきれないと言った
ものだった。
 そしてしばらくの間、悩んだように見えた西島は、やっとの事で顔を上げて言った。
「判りました。やります」
 将と連尺が無言で顔を見合わせる。
「そう? やってくれるのね?」
 連尺の問い掛けに西島がうなずく。
「はい。やります」
「そう。よかった」
 連尺は薄い笑いを浮かべて言った。
 
 その後、引き継ぎやその他の事を話し合った後、西島は部室を後にする。
「それでは失礼します」
「うん、これからの事お願いね」
 連尺がドアを開け西島を送り出し、静かにドアを閉める。
 そして将と顔を見合わせる。
 しばらくそのままでいた二人だったが、こらえきらずに笑い始めた。
「フフフフ」
「ハハハハ」
 しばらく笑っていた二人だったが、やがて将が笑いを抑えながら言った。
「驚いたなあ・・・ 、マツくんが言った通りだ。
 想像通りの反応だったな」
「松島くん、黒幕というより、摂政や関白にでもなるつもりなのかな?」
「 ・・・連尺は最初からマツくんより、ニシくんを押していたよな?
 あれは何?」
「え? ええ、西島くんって、どこか突っ走るようなところあるでしょ?
 松島くんだと、どうしてもみんな、私とのイメージをダブらせると思うのね。それだ
と松島くん、自分のしたいこと出来なくなるかなっって思ったの。西島くんならそうい
った事、どんどん突破していけると思ったの。
 それが理由かな?」
 それがほめ言葉なのかどうなのか? 今一つ不明なところがあったが、将は納得した
ようにうなずいた。
「さすがだなぁ、連尺は・・・ 、そこまで考えていたのか」
 そう言って将は、一つ呼吸をおいた後、ためらいがちに言った。
「あのさ、連尺」
「ん? 何?」
 連尺が答えると、将は彼らしくもなく口ごもる。
「いや、なんでもない・・・ 」
「何よ? 将くんらしくもないなあ」
「うん。俺もそう思うけど、まだ、やっぱり自分なりに結論が出ていないんだ。
 ちゃんと結論が出たら話すよ」
「?・・・
 そう? うん、判ったわ。その時にはお願いね」
「ああ、そうするよ」
 将はゆっくりとうなずいた。



 部室から出た西島は、帰る途中の松島とばったり出くわした。
「お? その様子だと、話聞いたようだな? ニシ?」
「マツぅ。お前って奴はあ!」
「でも、受けたんだろ? 次期キャプテンの話」
「なんで判るんだよ? そういうの?」
「まあ、なんとなくな」
 そう言って笑った松島に、西島は顔をしかめる。
「お前はそう言う奴だよ」
「ん、じゃあそういう事でよろしくな。
 お先に」
「何がそういう事かしらないけど、判ったよ。お疲れさん」
 二人は互いに手を挙げてあいさつを交わし、それぞれ違う方向に歩いていった。
 西島は更衣室の方へ、松島は校門へと向かい、帰り道についた。



 松島の自宅は借家の平屋一戸建てである。
「ただいま、・・・ あれ?」
 帰宅した松島は、玄関に女性物の靴がある事に気付き、首を傾げた。
「あ、おかえりなさい。お兄ちゃん」
 奥から、弟の声がしたかと思うとその後、聞き覚えのある女性の声が続いた。
「あ、お帰りなさい。悟くん」
「え!?」
 その声に聞き覚えがある松島は、思わず手にしていたバッグを落としてしまった。
「に、虹野さん?」



   ときめく時の中で(219)

  迷いの季節(19)



 自分の家に思いがけない人物、虹野がいたために、松島はしばし茫然としてしまうの
だった。
 大きめのフリルの付いた白いエプロンをした虹野の姿は、松島の目から見ても相当に
(ある意味)刺激的なものだった。
 在校時の制服や、卒業してからの私服などは見てきてはいた。
 だが、それは、あくまでも外での物であり、エプロンという家庭内のアイテムが加わ
るだけで雰囲気はがらりと変わる。
 その虹野が、松島を出迎えたという事実は、松島から、本来彼に備わっているはずの
思考能力を奪い去ってしまった。
「 ・・・な、なんで・・・ ?」
 そう言ったきり、松島はぽかんと口を開け、玄関に立ちつくすだけだった。
「お兄ちゃん、 何ぼけっとしてるんだよ?」
「あ? ああ実、ただいま」
 弟、実の声に我に帰ったように、虹野に注意を向ける。
「に、虹野さん、どうしてここに?」
「あれ? 忘れちゃったの?
 この前、お料理作りに来るって約束したの」
「あ、あれって本当だったんですか?」
「あ!? ひどぉい。
 私、できない約束はしないよ」
 少しばかりむきになった虹野の声に、松島は慌てる。
「いや、そんなつもりはないんです。ただ、びっくりしちゃって・・・ 」
「そう。それならいいの。
 ともかく、荷物置いてくれば?」
 にっこり笑って虹野がそう言うと、松島はぎこちない物腰で靴を脱ぎ、自分の部屋に
向う。
 その途中、手洗場から出て来た父親とばったりと出くわした。
「おお、悟。お帰り・・・」
「お帰りじゃないよ!」
「おいおい、なんだ?」
「いいから、こっちへ来てよ!」
 松島はその父親の手を取り、家の一番奥へと引っ張っていった。
「これ、どういう事? なんで虹野さんが?」
「だから、この前一緒に食事した時、お礼に料理を作ってくれるって言ってたじゃない
か?」
「そうだけど、いきなり家でってのは唐突だよ」
「そう唐突でもないんだ」
「え?」
 父親の意表を突いた言葉に、松島は凍りつく。
「いや、悟には話してなかったんだが、実がずいぶんなついちゃってな。
 虹野さんも良くしてくれて、今日の事も、実が虹野さんにお願いしたんだ。
 子供相手だから、虹野さんも断りにくいだろうし、学校で習った料理を実際に試して
みたいというのもあったらしい。ま、実験対象と思えばいいんだろうな。
 それに、悟だって本当のところは嬉しいだろ?」
「あ、あのねえ・・・ 」
 反論を試みようとしてはみたものの、正直そう言った感情があることは否定できなか
った。


 こうして、虹野が作った料理で、松島家では夕食をとった。
「どうです? 美味しいですか?」
 心配そうな虹野の声に、松島家の3人はそれぞれ笑顔と共に答える。
「うん、いけますよ」
「美味しいですよ」
「おいしいよ」
 その返事に虹野は安心したような表情になる。
「そう、よかった。途中の火かげんが難しいから、ちょっと不安だったんです」
「いや、ほんと美味しいです」
 松島がそう答えると、父親が満面に笑みを浮かべて言った。
「いやあ、女の子が一人いると、華やぐもんだなあ」
 その声に、虹野も微笑みを返す。その虹野の笑顔を見て、松島は思った。
(本当に、なんか違うものなんだな)
 松島家は男所帯であり、松島自身も男友達が多いため、女性を交えて食事をするとい
う経験が少ない。小さい頃には、まだ母親がいたが、思春期をむかえる頃からは激減し
ていた。
 もちろん、クラブや学校などで、大人数で食事をしたことは多い。当然中には女性が
含まれているのだが、その時とはまた違った雰囲気に、松島の心境は穏やかな物になっ
ていた。
 それが「家庭的」という単語にたどり着いた時、松島は一人、納得したようにうなず
いた。



「実がニンジンを食べたときには驚きましたよ」
「うん、私も嬉しかった。嫌いだからと言って無理して食べさせようとすると、もっと
嫌いになってしまうかも知れないって聞いた事があるから・・・ 。
 それが自分から食べてくれて、美味しいって言ってくれたから、本当に良かった」
「虹野さんが”無理して食べなくてもいいけど、食べてくれたら嬉しいな”なんて言え
ば、実、食べますよ」
「お役に立てたのかな?」
「もちろんですよ」
 松島と虹野は、車のヘッドライトが行き交う大通りの歩道を並んで歩いていた。
 食事が終り、帰宅する虹野を、松島がもよりのバス停まで送っていくことになってい
た。父親が松島にそうするように促したのである。
 バス停に着き、バスを待つ間、虹野が言った。
「私、実くんみたいな弟が欲しかったのよ。私、兄弟いないし。
 私の友達も、どういう訳なのか、一人っ子や末っ子という人ばかりでね。あんなかわ
いい弟がいたら、嬉しいのにな、って思ったの」
「そうですか。 ・・・実も虹野さんになついているし、よかったら、また遊びに来てくだ
さい」
「そうね。お父さんも素敵な人だし、実くんも可愛いしまたお邪魔したいな。
 私のお父さんもお母さんも共働きで、家族一緒の時間というのが少ないから、松島く
んの家にいると、なんだかほっとするの」
「そう言ってくれると嬉しいです」
 松島が答えると、道の向こうからバスが近づいてくるのが見えた。
 虹野が軽く手を挙げる。バスがそれを認め減速を始める。
 その時、虹野が松島に向き直った。
「ただ、一つだけ。
 私、松島くんのお母さんじゃないよ。
  ・・・それだけは覚えておいてね」
「?」
 虹野の言葉の意味を、松島がつかみかねている間にバスの乗降口のドアが開き、軽い
ステップで虹野が乗り込み、笑顔で松島に手を振った。
 松島は条件反射的にそれに答え、走り去るバスを呆然と見送った。
 だが時間を経て、虹野の言葉は松島の心に突き刺さった。
 複雑な表情で振り返る。
 その表情が驚いたという物に変わり、そして言った。
「お父さん?」
 そこには父親が立っていた。松島は無意識の内に聞いていた。
「実は?」
「家でTVを見てるよ。  ・・・一緒に帰ろうか?」
「 ・・・うん」


 夜空を見上げながら、松島は横を歩く父親に聞いた。
「僕、いつの間にか、虹野さんをお母さんを見るような目で見ていたのかな?」
「 ・・・どうかな? そうかも知れないな。お母さんは童顔だったから、悟が知ってるお
母さんは、ちょうど、今の虹野さんの雰囲気に近いかも知れない」
「僕はそんなつもりで虹野さんを見ていたつもりないんだけど、虹野さんから見ればそ
うなんだろうな。
 迷惑な思いをさせてしまったのかな?」
 父親は腕を組んだ。
「悟は普段落ち着いていて、大人びているのに、虹野さんの前だとあがっているよう
な、甘えているような感じはあったな、確かに。
 虹野さんの年頃だと、逆に誰かに甘えたい頃でもあるだろうしな。
 だけど、迷惑なら、実と指切りなんかしないだろ? 約束を破るような娘じゃないだ
ろういし」
「うん」
 帰り際、「また遊びに来てね」という実に、虹野はためらいもせずに笑顔で指切りを
して約束を交わした。
 その光景を思いだし、松島は首を振った。
「虹野さん、どう言うつもりであんな事言ったんだろう? お母さんじゃないなんて」
 独り言に近い松島の声に、父親が答える。
「せめてお姉さんとして見てか、一人の女性と見てか、はたまた、もっと違う意味なの
か? 女の子は本当に分からないからなあ」
「お父さんでも?」
「そりゃどういう意味だ? お父さんはずっとお母さん一人だけだぞ。そのお母さん
だってよく判らなかったのに、他の娘が判るわけないだろ?」
「 ・・・そうだね」
 苦笑いで松島が答えると、父親も笑った。
「その答えが出るには、もう少しおつき合いいただくしかないだろうな」
「うん」
 松島の声が合図になったかのように、二人は同時に夜空を見上げた。
 空一面に広がった星々が音もなくまたたいていた。



   ときめく時の中で(220)

  迷いの季節(20)



 秋の青空の下。
 きらめき高校のテニスコートで、地面に腰を下ろして集まったテニス部員達の前に
将と連尺が立っていた。
 文化祭も終わり、3年生は実質的な引退となり、1.2年生に引き継ぐ事になったの
である。
 連尺が代表して、次期キャプテンとなる西島の名を呼んだ。
「西島くん」
「はい」
 あらかじめこの事を知らされていた西島は、ためらうことなく立ち上がった。
「次期キャプテンは西島くんにお願いします」
 連尺がそう言うと、その場にどよめきがおこる。意外と言うか、ある程度納得できる
と言うべきか? ともかく複雑な感情からおこるどよめきだった。
「な、なんだよその声は!?
 そりゃ本人が一番不安だって事はあるが、そんな言い方無いだろうが!?」
 むきになって言った西島に、周囲から声が上がる。
「自分で言うなあ!」
「大丈夫だって! 俺達がしっかりしてるから」
 そんな声に西島が苦い表情になった。
「みんなが俺をどういう目で見ているのか、良ーく判ったよ」
 もちろん、それらの声は西島という次期キャプテンを認めるものであり、連尺は苦笑
いしつつも内心でホッとしていた。
 そして連尺は無言で将に促すと、将が替わって言った。
「サブキャプテンは本郷南」
「え?」
 本郷自身は知らなかったため、これには彼女も驚いた。
「わ、私ですか?」
「そうだけど、 ・・・不満? それともニシくんの手伝いは嫌か?」
 半分冷やかすように将にそう言われては、本郷としても何も言い返せない。
「 ・・・判りました。頑張ります」
 その返事に将が満足そうにうなずく。
 それを見て、再び連尺が将に替わる。
「という事で、私達3年生はこれで引退となるわけだけど、これからは1.2年生が主
体となっていきます。
 自分達で全部決めていくのは大変だと思います。迷う時もあるでしょう。悩む時もあ
るはずです。私もそうでした。
 でも、それをなしえた時、きっとかけがえのないものを得るはずです。
 だけど、どうしても決断できない時、私達を含めた先輩に相談してください。
 それは、決して恥ずかしい事じゃないの。その上で決めればいいんです」
 連尺は一旦言葉を区切った。
「いろいろなプレッシャーがあるとは思うけど、自分達にできることを自分達なりにす
ればいい。そう私は思います」
 静かにそう言った連尺の言葉に、コートの中が静まる。
 その静けさの中、将は数日前の光景を思い出していた。



 連尺と将は、テニス部の部室で詩織と会っていた。それぞれ椅子に座り、新体制で詩
織はどうなるのかを連尺が説明していた。
 一通りの結論が出て、詩織が言った。
「新体制になってからは、西島くん達の判断にゆだねる。という事ね?」
 連尺はうなずく。
「西島くん達が、詩織先輩の力が必要だと思い、詩織先輩が協力してもいいと思えば、
手を貸してあげてください。
 どちらか一方が欠けたら、その必要はないと思います」
 そう言った後、連尺は将と顔を見合わせ、申し合わせたように立ち上がり、同時に頭
を下げた。
「どうもありがとうございました」
 二人同時にそう言ったのを聞いて、今度は詩織がうなずく。
「私の方こそ、お礼を言わせて、私にも良い経験になったんだから。
 それから、 ・・・私、みんなのお役に立てたのかな?」
「はい、それはもちろん!」
 将がそう答え、3人はそれぞれの表情を笑みに変える。
 そして、ごく自然にそれぞれに握手を交わす3人に、それ以上言葉はいらなかった。



 新体制への引き継ぎが終り、日が暮れ、誰もいなくなったコートに将は立っていた。
 ほとんど動きもなく、ただひたすら立ちつくしていた将の背後から、声がかかる。
「将くん」
「? ・・・連尺か・・・ 」
 振り向いた将の視線の先に連尺がいた。そして、ゆっくりとした口調と足どりで、連
尺が将に近づく。
「どうしたの? まだ、帰らなくてもいいの?」
 将は視線をコートに移して答える。
「今日はまだいいんだ。
 それより、なんとなく、帰りづらくってね」
「帰りづらい?」
「うん。早いもんだなって。
 もう、引退なんだなって思ったら、もうちょっと、ここにいようと思っていたんだ」
 連尺はその声につられるようにコートに目を向けた。
「そうね。確かにあっと言う間だったわね。
 でも、将くんは、まだ、引退するつもりなんてないんでしょ?」
 所は意外な思いにとらわれた。連尺の断定的な口調が不思議だった。
「どういう意味?」
「だって、まだこのテニスコート使いたいんでしょ?」
 連尺が何を言おうとしているのか、将には判った。
 将は一つため息を付いて答えた。
「全く連尺にはかなわないなあ。その通りだ・・・ 」
 将は連尺に向き直り、静かに言った。
「俺、プロになろうと思ってる。
 だから、まだ、しばらくここにお世話になると思う」
 その口調に合わせるかのように静かに笑った将。連尺はそれを知っていたかのように
平然と言った。
「そうでしょうね。それは想像どうりだったんだけどね。
 ただ、一つ判らないの」
「なにが?」
「将くん、この前、私に何か言おうとしたでしょ。あれ、何を言いたかったの?」
 将は”えっ?”というような表情になってから、笑顔で答える。
「ああ、あれね。あれはいいんだ」
「やだなあ。なんか気になるなあ。よかったら教えてよ」
「 ・・・う、うん。
 練習するのはいいんだけど、コートを使うための調整、ニシくんに迷惑かけるから、
その調整と連絡を連尺にお願いしようかとも思っていたんだ。
 だけど、こういうのは個人的なものだから自分でなんとかすべきだろうな、と思った
のさ」
 将がそう言うと、連尺も笑顔で答える。
「もう、水臭いなあ。そういう事なら喜んで協力するのに」
「え?」
「私もいきなり引退だと、どうしていいか判らなくなっちゃうだろうから、協力させ
て。
 私の方からお願いするわ」
「 ・・・連尺?・・・」
 将は連尺の顔を見つめ、やがてゆっくりとうなずいた。
「ああ、頼むよ。そうしてくれると正直助かる」
「ええ、喜んで。
 そのかわり・・・ 」
「そのかわり?」
「中途半端なことはしないでね?」
「? ・・・ああ、もちろんだよ」
 将がそう答えると、二人はそれぞれ自分の顔の高さに片手をあげて、その手を叩き合
った。



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−迷いの季節−−終り
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−続く

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