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ときめく時の中で総集編 第11集


   ときめく時の中で(181)

  夏の日々(1)



 きらめき高校は、体育祭の当日をむかえていた。
 そんな中、将は、一昨年、昨年に続き注目を集めていた。正確に言うなら、期待され
た通りの働きをしたと言うべきだろう。
 5種目も出たのだが、それ自体は将にとっては、さして苦にはならなかった。
 だが、将がスタートラインに立った時などに時々起きた、主に下級生の女子生徒の、
まさに黄色い声援には、将としても戸惑ってしまうのだった。
 何しろ、
「吉野さーーん!」
 と、名指しされるのだから、それも無理もない。
 もっとも、
「そのぐらいで、プレッシャーを受けるようじゃ、テニスの試合でも、先が思いやられ
るわね。将くんの集中力は、そんなものじゃ途切れないわよ」
 と、連尺が2年生のテニス部員に語ったように、将の成績はそれに左右されることは
なかった。
 ともかく、そんな状況下で、将によって着実に点数が加算されていった。

 順調に消化されていくプログラム、それを眺めながら、優美が言った。
「ねえ将くん。なんか、和人、気合いが入っていない?」
 そう言われ、将は和人の方を見る。和人は四本松と何事か話しているが、取り立てて
変わった様子は、一見するだけでは感じられない。
 だが、優美の言うように、ほんのわずかではあるが、普段の和人とは雰囲気が違って
いた。
 そう、それは、ほんのわずかな違いである。優美が気が付くとは、将は思ってもみな
かった。
 将に隠れて、と言うのも変な表現だが、和人も将に負けず劣らずの点数を稼ぎ出して
いる。将に言わせれば、「和人がその気になれば、このぐらいのことは出来る」という
事なのだが、今まで和人は、”その気”になる事が少なかったのである。
 和人が”その気”になっただけでも、将にしてみればそうとうな変化である。
 将は、フッと小さく笑った。
「何々? 何かあるの?」
 優美の勘が冴える。その様子に、将が何か知っていると踏んだのである。
 将が答える。
「これも、気合いって言うのかなあ」
 優美の目が輝く。将のその言葉に、自らの勘に確信という成分が含まれる。
「ねえ、ねえ。何があったのよ? 優美にも教えてよ」
 将は笑いながら答える。
「いや、俺も詳しくは知らないんだけどさ。どうも、美樹原さんが絡んでいるらしいん
だ」
「美樹原さんが?」
「確信はないんだけどね。どうやら、和人、美樹原さんに”体育祭なんてかったるい”
みたいなことを言ったらしいんだよ」
「判った! それを美樹原さんに”そんな事、言っちゃ駄目だよ”とか言われたんで
しょ?」
 優美の推理は、将のそれと一致していた。将はうなずいて、言葉を続ける。
「どうもそうらしいね。
 和人の奴は、”いちいちうるさいんだよ”なんて言ってたけど」
「と、言いつつも、結局は、美樹原さんの言う通りに、張り切っちゃう訳だね?」
「そうらしいね。和人は否定するだろうけど」
 この時の将の笑いは、完全な苦笑いになっていた。
「なんだ。和人も結局は尻に敷かれてる訳ね」
 優美の言葉は鮮烈だった。将は驚きの表情を浮かべる。驚きつつも、つい、笑ってし
まうのも仕方がないのかもしれない。
「そんな事聞いたら、和人怒るだろうなあ」
「いいんだよ。だって本当の事だもん」
 将と優美は顔を見合わせ、笑い出してしまった。
「? なに笑ってんだ? あの二人は?」
 自分の事だとは思いもせずに、そんな疑問を口にする和人だった。

 実際のところはどうだったのかは不明なのだが、ともかく、和人の活躍もあって、
今年の体育祭は、将達の白組が勝つこととなる。



 その日、詩織は大学のキャンパスを歩いていた。
 大学での生活もかなり慣れてきていた。難関だった試験を乗り越えてきたのだが、キ
ャンパスの雰囲気はいたってのんびりしたものだった。
 もちろん、講義を受ける者はちゃんと受けるし、真面目に大学に通っているのだが、
そうでない者も多い。
 ともかくも、高校の雰囲気とはかなり違っている。
(こう言うものなのかしらね?)
 そう思う詩織だった。
「藤崎さん」
 そんな時、自分の名を呼ぶ声に、詩織は振り返った。
「どなたでしょうか?」
 詩織が思わずそう言ってしまったように、詩織を呼び止めたのは二人の男子学生だっ
た。
「ああ、ええとね。俺達、テニスサークルの者なんだけど・・・ 」
(またね・・・ )
 詩織は内心で、そう思わずにはいられなかった。
 正直言って、詩織に対する、各サークルなどの勧誘の数は相当なものになっていた。
 何しろ、詩織本人がどこからどのぐらいの誘いがあったか、数えるのをやめてしまっ
たほどなのだから。
 なかでも、このテニスサークルの勧誘は、その粘りは1,2を争っていた。
 ある意味それも、やむを得ない。詩織の名前は、テニスをしている者にとっては、全
く知らないものではないからだ。
 正確に言うと、きらめき高校の名前は、テニスにおいてはかなり有名になってきてい
る。そして詩織が、そのテニス部に在籍していたとあっては、注目されるのも当然とい
えば当然だろう。
 加えて、詩織の容姿がそれに拍車をかける。同じ大学でも、学部や講義によって、4
つほどのテニスサークルがあり、言い方は悪いが、勧誘の「えさ」になってもらおうと
いう魂胆があった。
 詩織には、それらの思惑が見えるので、どうもその気になれない。
 楽しむテニス、遊びのテニスを否定する気は毛頭ないが、今、自分がそれをする余裕
や、その気は全くなかった。
 きらめき高校ですごしたテニス部での生活は、詩織の生活のリズムになっていた。
 ぎりぎりの緊張感や、限界を突き詰めるような練習は、つらく苦しいものだったが、
それによって得られた物を考えると、それに換えられる物はない。


 丁重に詩織に断られ、二人の学生はため息をついた。
「ああ、だめかあ。守りが堅い娘だなあ」
「高校のコーチをしているって言うけど、もったいないなあ」
「でも、噂では、イギリスに恋人がいるって言ったぜ。この前、一時帰国したそうで、
 お似合いだそうだ」
「それを言うなって・・・ 」



 詩織はきらめき高校へとやって来た。来る予定の日ではなかったが、自然と足が向い
てしまったのである。
 詩織が着いた時、きらめき高校は、体育祭の後片付けの最中だった。
「あれ? 藤崎先輩、どうしたんですか?」
 詩織に気がついた連尺に呼び止められる。
「うん、ちょっとね」
「コーチの日じゃないはずですよね?」
「そうだけど、よかったらお邪魔していこうかな?」
「ええ、お願いします」
 詩織はうなずいて、テニス部の部室へと歩き出した。


   ときめく時の中で(182)

  夏の日々(2)



 学校の帰り、四本松は如月の家を訪ねていた。
「はい、未緒ちゃん。これ」
 出迎えた如月に、ささやかな花束を手渡す。
「まあ、ありがとう、優ちゃん。こんな綺麗な花を。
 わざわざ買ってきてくれたの?」
「当たり前でしょ。未緒ちゃんの小説が、コンテストに入選したんですもの。
 このぐらいのお祝いはしなくっちゃ。ね?」
「そんな、本当に、運が良かっただけよ」
「それは違うよ。運だけじゃ、そんなになるわけないよ。でしょ?」
「 ・・・そ、それはそうだけど・・・ 」
 四本松が言う通り、如月は雑誌の小説コンテストに見事入選し、準グランプリに輝い
たのだった。
 そのコンテストは、新人作家の登竜門のようなもので、そのコンテストから作家とし
て成功したものは多い。
 もちろん、それだけではなく、本人の努力や才能がその成功をもたらしたのであり、
如月のこれからは、本人自身に関わってくるだろう。
 だが、今は、受賞という栄誉を、素直に喜ぶべきだろう。
 それが判る如月は、四本松の言葉を受け入れ、喜びを表現した。

 如月は4年制大学に進みながら、小説を書いていた。
 生活のリズムが変わったため、如月と四本松が直接会って話すのは、本当に久しぶり
である。無論、電話などをしていたが、直接会うというのは、それとは比べ物にならな
い。
 如月の部屋で座り込み、ついつい、話が弾む。
「そう、君本さんが、帰っていらしたんですか?」
 そんな中、君本が一時帰国した事に話が及んだ。
 実のところ、四本松は、それを話すのを少しためらった。如月と君本との間にあった
事を誰よりも知っているのは、四本松なのである。
 だが、詩織の誕生日にあった出来事を話していく上で、話さないわけにもいかなくな
ってしまった。
 四本松は恐れていた。如月の心の傷が、まだ完全に癒えてはおらず、自分の言葉が如
月を傷つけはしないかと恐れていた。
 だが、彼女のその不安は的中しなかった。
 如月はにっこりと微笑むと、天井を見上げながら、静かに言った。
「そうですか。藤崎さん、嬉しかったでしょうね。やっぱり、直接、会うというのは嬉
しいですから」
「 ・・・うん。私達の前では、そんな素振りは見せないようにしていたみたいだけど、や
っぱり、嬉しそうだったよ」
 そう言いつつ、心配げな表情を浮かべる四本松に、如月はさらに表情を崩す。
「そんな顔はしないでいの。私はもう、大丈夫だから」
「 ・・・未緒ちゃん?」
 四本松は、未緒のその表情を意外な思いで見ていた。”強がっているのか?”とも思
ったのだが、すぐにそうではないと悟った。
「私は身体が弱いからと言って、どうしても内にこもりがちだったわ。
 本を読んで、その中の登場人物の心境に引き寄せられたり、その人になりきってみた
り、そうして、自分の想像の世界を楽しんでいたわ。
 だけど、今になって思うの。初めて人を、そう、君本さんを好きになった時、私の中
で何かが変わった、と。
 この想いは私だけの想い。言葉にすれば、ありふれた、何でもない表現になってしま
うけど、とても大切な自分だけの想い。
 その想いを人に伝えることの難しさ、怖さ。人を好きになるという事は、つらくて、
悲しい事もあるけれど、決してそれだけじゃない。
 とても大事なものを得られる、という事を知ったの」
 一気にそこまで喋り終えると、如月は一旦大きく深呼吸をした。
 そして、四本松の方に向き直る。四本松は何も言わず、ゆっくりとうなずき、次の言
葉を促す。如月が、それに答える。
「私、以前からお話を書いていたのは知ってるよね?」
「うん」
「でも、どうしても人に読んでもらう気になれなかった。恥ずかしかったと言うのもあ
るけれど、それ以上に、自分が何を書いても、薄っぺらな事しか書けてないような気が
してならなかったの。
 だけど、君本さんとの事があってなのかどうかは判らないんだけど、無性に何かを人
に伝えたかった。
 如月未緒という人間が何を考えているのか、それを伝えたくなったの。
 それは誰でも良かった。ちょうどその時、たまたま公募していたのを見たから送った
までで、入選なんて全然考えてなかったのよ」
 照れたように笑う如月に、四本松は首を振る。
「それで、入選しちゃうんだもん、やっぱり未緒ちゃんはすごいな。
 それで、お話はラブロマンスなの?」
 実際、それまでの話からいって、四本松にはそれ以外のジャンルは考えられなかっ
た。だが、如月の答えは違った。
「それが違うの。舞台は中世ヨーロッパの、ある貴族階級一族の話で、男女のロマンス
はメインじゃないの」
「え? そうなの」
「前から中世のヨーロッパには興味があって、それを物語にしただけなの」
「 ・・・ふーーん、そうなんだ。私は、てっきり自伝的なお話かと思ってた」
 四本松の表情は複雑である。自分の思惑が外れたということもあるが、その話が、ど
うして君本との事につながるのか? それがどうにも想像できなかったのである。
「優ちゃんが、不思議がるのも無理はないわね。
 私も不思議なんだけど、あの事は今回のお話に、直接関係はないの。
 だけど、私、思うの・・・ 」
「ん?」
「確実に言えるのは・・・ 」
「?」
「人を好きになるという事を知って良かった。
 君本さんを好きになって、本当に良かったって言う事、 ・・・なんだって」
「 ・・・未緒ちゃん・・・ 」
 如月の晴れ晴れした表情に、四本松は、肩から何か、重みが取れていったような気が
した。



 雨が降る朝、将は自室の窓を開けた。
 激しくはないが、しっかりした雨粒と、その量を見て、将は独り言のように言った。
「梅雨入りかな」
 ”そうなら、去年よりも早いな”とも思う将だった。
 何故、すぐにそんな事を思えるのか?
 それは、この日が古式ゆかりの誕生日だからである。
 思えば、昨年、一昨年と、この日に特別な出来事があった。
 一昨年の今日、将は初めて自分の姉を目にした。「会った」ではなく、「目にした」
程度だった。だが、それでも、将にとっては、言いようのない感慨にふけったものだっ
た。母である美里以外の肉親と言うものが、自分の心に生み出す感覚は、将にとっては
初めのものだった。
 昨年の今日の朝も将は思ったが、この日から将の生活は変わっていった。そんな節目
の日だったような気がした。
 そして、その昨年の今日、古式は自分と将が姉弟だと知って、ショックを受け、姿を
消した。
 幸い、すぐに見つけられたのだが、これもやはり、将のその後に大きな影響を与える
こととなった出来事だった。
「あれから、もう一年経ったんだな。早いもんだ」
 将はそう言うと、やや早めだが登校するための身仕度を始めた。
 2年前の今日と比べると、将を取り囲む環境は大きく変わった。
 将自身も変わっていた。
 これからどうなるのかは判らない。
 だが、将自身は、”自分に出来ることを全力でするしかない”と思うのみだった。



   ときめく時の中で(183)

  夏の日々(3)



 将は疲れていた。
 インターハイ予選へ向けての練習は、体力強化のメニューに入っていた。
 それは単調な基礎トレーニングの積み重ねであり、ともすれば、自分がテニス部にい
るということを忘れてしまいそうな、肉体的には苦痛を、精神的には退屈をもたらすも
のだった。
 将は本来、そう言った練習は嫌いではない。積極的に好きか?と言われれば、そうと
は言えないが、それでも、嫌いで逃げ出したくなるような類のものではない。
 実際、将が練習することが、他の部員を引っ張る形になっていたのは事実だ。
 だが、肉体的な疲労の蓄積は、避けられなかった。
 加えて、将には部を管理するという役目があった。それは、精神的にかなりの負担に
なっていた。
 実務的なことは、連尺やマネージャー達がするとは言え、実力者が引っ張るようにし
なければ、どんな集団でもまとめにくい。
 将がすべきことは、決して少なくない。そして、その責務は、将の肩に静かにずっし
りと、のしかかっていた。
 将はそれから逃げようとはしなかった。それ故、肉体的、精神的、双方の疲労は、こ
の時、ピークに達していた。
 将はそれを口にしないようにして努めて来たが、そういうものは、雰囲気として他の
部員たちにも伝わる。それは、「各自のことは、なるべく各自で処理をする」という、
自立性のようなものを育てていた。
 だが、ここに来て、一部の部員の間に、不満の芽が育ちつつあった。
 それは、キャプテンの連尺がマネージャーだという点から来ていた。
 練習のメニューが厳しいのは、なにも、将だけではない。
 各自のレベルアップに合わせて、その内容は強化されている。各部員とも、その差は
あれ、今までにないほどの疲労を感じていた。
 そして、それは連尺のせいだと思ってしまうのだった。それも自分は計画を立てるだ
けで、苦しみを分け合うことのないマネージャーの連尺に。
 それが、非常に上手くいっているシステムだと、理屈では判っていても、である。
 その不満は、やがて、将の姿に反映されていく。

 それは、練習後の定期ミーティングの時におきた。
 これは、全部員が一度に、部室に入りきれないため、班ごとに行われるもので、意見
交換や、細かな連絡等、すべきことは多い。テニス部は、全部で四班に分かれているか
ら、日時を変え、四回行われる。そのうちの一回が、この日、将が議長役となって行わ
れていた。
 いつもなら、これはキャプテンである連尺の役目だった。だが、この日、連尺は練習
試合の打ち合わせのため、他の学校へ行っていた。
 その為、言わば代役というわけなのだが、練習が終わってから、会を取りしきるとい
うのは、意外と精神的に負担をかけさせる。
 将はそれを口にしはしなかったが、その口ぶりや物腰から、その疲労は他の者に伝わ
っていた。
 なんとかミーティングを終え、他の部員たちが帰宅の用意をする中、自らも帰り支度
をしながら、将は大きなため息をついた。
「お疲れね。将くん」
「それは、四本松も同じじゃないのかい?」
 それに今日は、四本松の班で助かったよ。四本松が補助してくれるからね」
 心配そうに声をかけた四本松に、苦笑いを浮かべながら将が答える。
「でも、将くんはこれから帰って、家の事するんでしょ?
 やっぱり大変だね」
「あの人は、家事と約束事に関しては厳しいから」
「あの人って、お母さん?」
「ああ。家事は当番制だから、やる事はやんないと」
「そうなの・・・ 」
 言葉をなくす四本松に、将は慌てて付け加える。
「いや、もう慣れたから、こう言うの。さほどじゃないよ」
 この時、この会話に加わってきた者がいた。2年生の女子部員だった。
「でも、やっぱり将先輩はすごいと思います。
 そう言った家の事もあるのに、全然手を抜かないんですもん」
 将は少し照れながら、その声に答える。
「おいおい、あんまりおだてるなよ。
 家の事は、あくまでも私事。部活に影響させてはまずいだろ?」
「それはそうですけど・・・ 。
 連尺キャプテンも、もう少し、その辺りの事を考えてくれてもいいのに。
 将先輩の事は、キャプテンだって知っているはずなのに・・・ 」
「・・・ 」
 将は黙り込んでしまった。確かに家のことは負担になっているが、それによって部活
に影響があるようなら、それは将にとって、もっとも避けたい事態だし、もっとも嫌い
な論理だった。
 だからこそ、連尺も、それを知っていながら、将を特別扱いしないのだろう。将はそ
う理解していた。
 黙り込んだ将に関わらず、その女子部員に同調した声が上がる。
「私もそう思うな。
 キャプテンはマネージャーだから、そう言った選手の事情みたいなの、やっぱり、判
らないのよね。
 選手には選手にしか判らないものがあるから」
「そうよね」
 その言葉に、将の負の感情が刺激された。
「それ、どういう意味だ?」
「!?」
 部室中に緊迫した空気が流れた。
 それほど、将のその口調には迫力がこもっており、ただならぬ気配を感じない者は、
ただの一人もいなかった。
「今のはどういう意味だ?
 マネージャーでは、キャプテンは務まらないとでも言うのか?
 マネージャーは、選手より劣っているとでも言うつもりか?」
 シンと部室内が静まり返る。
 静かだが、気迫に満ちた将の声に、誰も声を出すことができない。
 その対象となった女子部員の表情は、この時、血の気が退き、蒼白となっていた。
 将の言葉は続く。
「お前たちが連尺のことを、どう思っているかは知らん。
 だが、連尺がマネージャーだからと言って、その能力を決めつけるようなことは許さ
ん。
 連尺が今まで、何か不手際をしたか? ないだろう?
 いや、むしろ、逆に、練習スケジュールや部活の運営は、今までにないほど、安定し
ているはずだ!」
 最初のうちは平静だった将の口調も、やがて熱を帯び始めてきた。将自身、自分の感
情をコントロールしきれていないのは、蓄積された疲労が影響していたのは間違いがな
い、とは判っていた。
 だが、それは判っているのだが、どうしても抑えきれなかった。
「いいか!? マネージャーだから、選手だからと言って、その人間そのものを区別す
るような事は許さん!
 たとえキャプテンの連尺が許しても、俺が許さん!
 そんな人間はテニス部にはいらん!」
 言葉を返すものは一人もいなかった。



 それからしばらく後、将は日も暮れたテニスコートにいた。
 早く家に帰り、家事をしなければならないのだが、どうしてもそんな気になれなかっ
た。
「母さんに、またごちゃごちゃ言われちゃうなあ」
 一人、ぽつりとこぼした。

 ひとしきり、感情を吐き出した将は、部室を出た後、冷静になった。
 つい、感情を高ぶらせてしまったが、冷静になってみると、後悔する他なかった。
「なんで、あんな事言っちゃったんだろう。連尺にあわせる顔がないなぁ。
 留守を預かっているのに、これじゃあなぁ」
 将はうなだれた。
 その時だった。
「サブC」
 それは四本松の声だった。
 そしてその後ろには、他の部員たちが並んで立っていた。
「ごめんなさい! サブC!」
 一人の女子部員が頭を下げると、それに続いて声が上がる。
「すみませんでした」
「もう、絶対あんな事は言いませんから」
 それを見て、四本松がにっこりと微笑む。
「サブC、許してあげて。こうして反省してるんだし。ね?」
 将には判った。将が部室を出た後、四本松がフォローをしてくれたのだと言う事が。
 そして、微笑む。
「俺の方こそ、悪かった。つい、むきになってしまって」
 将も頭を下げた。そして同時に思った
(テニス部はいい部だよな。まとめる連尺ってのはたいしたもんだよ)



   ときめく時の中で(184)

  夏の日々(4)



「そう、そんな事があったの・・・ 」
「う、うん。俺としても反省してるんだけどね・・・ 。でも、申し訳ない」
 そう言って、将は連尺に頭を下げた。
 先日のテニス部の部室で、将が下級生を怒鳴り付けたことを、連尺はマネージャーの
後輩から聞いた。
 大体の事情は掴めたのだが、その真意を問うべく、連尺は練習前、テニスコートの脇
で、将に詳しいことを聞いたのだった。
「そう言うのは私の役目って言ったのにね」
 クスリと笑った連尺に、将はどうやって答えるべきなのか悩んだ。
 そんな将の戸惑いを察したかのように、連尺は言葉を続ける。
「いいわ。もう済んだことだし、みんなもわだかまりはないんでしょ?」
「あ? ああ、そうみたいだけどね」
「だったら気にしないことよ。将くんはそんな事より、練習に集中することの方が大切
よ。ね?」
「ああ」
 短くそう答えながら、うなずいた将はコートへと走っていく。
 その後ろ姿を見送りながら、連尺は静かに笑みを浮かべた。
「なんだか嬉しそうね。みゆきさん?」
「し、詩織先輩!?」
 連尺は、誰も自分の姿を見ていないと思っていた。だからなのか、詩織にそう言われ
たのには、そうとう慌ててしまった。
 その様子は詩織にしてみれば、普段の連尺らしからぬ慌てぶりだった。
「い、いえ。べ、別にそんな事はありませんよ」
 口ではそんな事を言っては見たものの、それが実際と違うことは明らかだった。
「私も聞いているのよ。部室で将くんが、あなたの事を悪く言った2年生の子を怒鳴り
付けたって話は」

 詩織にその事を話したのは、マネージャーの一人だった。部の雰囲気が、なんとなく
いつもと違う、と感じた詩織が聞いたのだった。
 それを聞いた時、詩織は、
(ああ、そう言う事ってありそうね)
 と、思った。意外でもなんでもなく、将ならそういう事も言うだろうなと、違和感な
く思ったのである。

 詩織にそう言われ、連尺は言葉に詰まる。
 なんと言えばいいのか? 今度は連尺の方が悩んでしまう番だった。
「 ・・・嬉しいだなんて、そんな事ありませんよ」
 やっとの事で言ってはみたが、それは先程の言葉と、同じ意味の繰り返しでしかなか
った。
 詩織はにっこりと微笑みながら、それに答える。
「みゆきさん、一つ言っておこうかな?」
「え? なんですか?」
「私がコーチを引き受けた、もう一つの理由を、よ」
「もう一つの?」
「そう、もう一つの理由」
 詩織は視線をコートの方に向ける。
「あなた自身のことなのよ」
「わ、私の?」
 自分を指さした連尺は、やや、間の抜けた声を発してしまった。
「そうよ。・・・実はね、卒業する前、元城くんがこぼしたのよ。
 自分の判断は正しかったのか?って」
「!?」
 連尺が浮かべた表情が、不安げなものだったので、詩織は慌てて続ける。
「間違えないでね。元城くんが言っているのは、あなたの力量を疑ってのものじゃない
の。むしろ、逆よ」
「逆?」
「そう、逆。あなたなら、テニス部を完璧にまとめることができる。その点について、
元城くんや米津くん、私もそうだけど、疑問をはさめる余地はないわ」
「そんなこと・・・ 」
「もう、何を言ってるの? 現に、しっかりまとめてるじゃないの」
 そう言って詩織はにっこりと微笑む。連尺としても、そう言われればうなずくしかな
いし、自分でもその点については、ささやかながらも自負がある。
「元城くんが心配しているのはその先なの。完璧にまとめた先に、孤独が待っていない
か?って。それが心配らしいの。
 あなたはそれを、甘んじて引き受けてしまうだろうとも言っていた」
「そうですか。元城先輩がそんな事を・・・ 」
 地面に視線を落とし、ぽつりと言った連尺の言葉に、詩織はうなずきながら、さらに
口を開いた。
「私もそれは想像できたわ。部員のみんなから、精神的に遠ざかった存在になってしま
わないかと。
 元城くんに、私がコーチを引き受けたことを話した時、彼、言ったわ。
 みゆきさんの事を頼むって。自分からテニス部に口を出すのは、院政になりかねない
から、それは出来ない。
 だから、それとなく、みゆきさんを支えてやってくれって。
  ・・・もっとも、私がみゆきさんに出来るようなことは、何もなかったんだけどね」
 苦笑いのような笑いを浮かべる詩織に、連尺は慌てる。
「そんな事はありません。
 詩織先輩がいてくれて、どんなに救われたか。感謝しています。
 本音を言えば、元城先輩の意見を聞きたいと思った事、何度もあります。
 でも、ご迷惑をお掛けしてはいけないから、自分でなんとか考えてきたんです。
 これからも、よろしくおねがいします」
 頭を下げる連尺だった。それに詩織が答える。
「それは構わないんだけど、みゆきさんも孤立しているわけじゃないでしょ?
 みんな、判ってくれてるみたいだしね。
 さっきの嬉しそうな顔は、そのせいなんでしょ?」
 しばらく黙り込んでしまった連尺は、しばらくして静かに言った。
「それもあります。それもあるんですけど、それだけでもないんです」
「?」
 今度は詩織が疑問の表情を浮かべる番だった。
「正直な事を言うと、将くんが、私の事を弁護してくれたことが嬉しいんです。
 駄目ですね。いくらそう思わないようにしても、嬉しくて、つい、顔がほころんでし
まうんです。
 将くんは判ってくれている。私の事を将くんが判ってくれている。
 そう思うと嬉しいんです。
 キャプテンとしては、こう言う個人的なことで左右されては、いけないと思うんです
けど・・・ 」
 連尺が視線を詩織に向けると、その先で詩織は首を振っていた。
「確かに理屈ではそうだけど、そこまで割りきれたら、それはそれで完璧すぎて問題が
出ると思う。
 それでいいと思うわ」
「そうですか。詩織先輩にそう言っていただけると、ほっとします。
  ・・・それではそろそろ練習に行きましょう」
「そうね。そうしましょう
 詩織がそう答え、二人が歩き出そうとしたその時、詩織が言った。
「 ・・・ところで、みゆきさん?」
「はい?」
「将くんが、あなたの事を判っているからと、嬉しかったのは、 ・・・ううん、なんでも
ないのよ」
 詩織は言葉を飲み込んだが、その意図は連尺に伝わった。
 足を止め、連尺は言った。
「その通りですよ。私は将くんが好きです」
 その言葉の音量そのものは小さいものだったが、意思の強さのようなものは、十分に
感じることが出来た。
 そして次の言葉に、詩織は少しばかりの寒気を感じた。
「多分、詩織先輩より早くから」
 正確には、それは連尺の深い藍色の瞳から発せられた視線からだった。
 それは単なる後輩の物などではなく、一人の「女性」から発せられた、鋭さのような
ものを感じたからだった。



   ときめく時の中で(185)

  夏の日々(5)



「和人にーちゃーーん! 朝だよーーー!!」
「ああ、雄一郎か? もう少し寝かせてく・・・ おおおおおおーーー!!」 
 和人のささやかな惰眠は、腹部への痛みによって中断された。
「雄一郎ーーー!!ー! もうちょっとましに起こせないのか?お前はーー!!」
「だって、見晴お姉ちゃんが起こして来て、って言ったんだもん」
「起こし方があるって言ってるの!!」
 和人を起こしたのは、小学校4年生の男の子だった。名前は雄一郎。館林家の長男で
ある。館林家には5人の姉弟がいて、上4人は全て女の子だった。
 和人が言うように、その起こし方に”多少”問題があった。和人の胴体部分に、自分
の体重をかけたヒジを落としたのである。
 本人にしてみれば遊びのつもりなのだが、小学生とは言え、そんな事をされれば、か
なりのダメージになる。
「和人お兄ちゃんなら、このぐらい平気でしょ? じゃあ、朝ご飯出来てるから早く来
てね」
(不意を突かれたり、準備が出来てないと危ないって、ちゃんと言わないといけないよ
なあ。このままだと大ケガしかねないぞ)
 和人はそう思った。もっとも、こんな事をされる、そもそもの原因は和人自身のせい
でもあった。
 と言うのも、妙に馬が合った和人と雄一郎は、まるで本当の兄弟のようにじゃれあっ
た。そして、お決まりの取っ組み合い(いわゆるプロレスごっこである)をするのだ
が、和人は雄一郎を軽くあしらっていた。
 その為、雄一郎の中で、和人は「強い」という像が固まってしまっていたのだ。
 それで、手荒な洗礼を受けてしまうのである。
「 ・・・ったく、今日は日曜日だぜ。・・・ああ、”家庭教師”の日か」
 和人は独り言をこぼしながら、寝ている間にかいた汗で、しっとりと湿ったTシャツ
を脱ぎ、新しいシャツに着替えた。



「おはようございます」
「あ、おはよう和人くん」
「おはよう。和人くん」
「おはようございます。館林さん」
 和人が2階から、1階のダイニングに降りると、そこには館林姉弟の両親、見晴、そ
して、乱暴に和人を起こした雄一郎がいた。
 長女は、和人の兄之信と別居しており、他の姉妹は外出していた。
 和人は両親を、「館林さん」と呼んでいた。
 「お義父さん、お義母さん」ではおかしいし、「おじさん、おばさん」では失礼なよ
うな気がしたからである。
 もっとも、名字で呼ぶというのも、少々違和感はあるのだが・・・。
 朝のあいさつを交わした後、和人はテーブルにつく。
 和人は、食事を一人で取る事に慣れていた。その為、当初、この家で食事を取る時は
落ち着かず、違和感を覚えたものだった。
 だが、慣れというものは恐ろしいもので、この生活に慣れると、その違和感も消え、
和人はすっかり馴染んでしまっていた。
「雄一郎。朝から和人くんに、遊んでもらったの?」
 先に食事を始めていた見晴が、箸を休めて雄一郎に言った。
 それを聞いた和人が、苦笑いを浮かべながら答える。
「見晴姉さん。あれは遊びなんかじゃありませんよ。一方的な攻撃です。いや、ヒジの
爆撃と言った方がいいのかな?」
 和人のその言葉で、見晴には大体の事情が飲み込めた。
「 ・・・雄一郎。相手の意識が無い時に、エルボードロップは危険よ。気をつけてね」
(そうそう)
 和人は内心でそう思い、ゆっくりとうなずいたのだが、父親の言葉で首から上の力が
抜ける。
「そうだぞ、やるなら関節技系にしなさい」。
(そういう問題はないでしょうに・・・ )
 和人は頭をかく。だが、同時に和人は思った。
(この雰囲気、 ・・・そうか、将の家に似てるんだ。それで、落ち着けるのか。
 今、分かったぜ)
 和人は何故か納得してしまうのだった。
 そんな時、キッチンの方から、母親の声が上がった。
「それにしても、雄一郎もすっかり、和人くんになついてしまったようね?
 やっぱり、男の子には男の子の兄弟が欲しいのかしらね?」
「お母さん、もう一人なんて言わないでよ」
「まさか。私はもう、初孫に期待してるわよ」
「それはお姉さんにお任せするわ」
 そんな会話を聞きながら、和人は食事を進めた。
「あ、ところで和人くん」
「え?」
 突然の見晴の声に、和人は顔を上げる。
「今日、お勉強、いい?」
「ええ。よかったらお願いします。 と言うより当てにしていた・・・ かな?」
「 ・・・和人くん・・・ 」
 和人が答えると、その視線の先には、苦笑いを浮かべる見晴がいた。



 和人は定期テストについて、見晴を「家庭教師」として、勉強を教えてもらってい
た。
 そのおかげもあって、3年に上がる前、春のテストで好成績を残すことが出来たので
ある。
 そもそも、見晴が和人に勉強を教えようと思ったのは、家に馴染んでもらおうという
気遣いだったのだが、予想より遥かに早く、和人はすっかり馴染んでしまっていた。
 今回も、教えてあげようかどうか、見晴は悩んだのだが、弟と仲良く遊んでくれてい
る、日頃のお礼も兼ねて教えてあげようと思ったのである。
 見晴にしてみれば、一年前にやったばかりの事を和人に教えるだけなので、さして難
しい事ではない。
 和人は和人で、自分でも(なんだかなあ)とは思いつつも、つい当てにしまってい
た。


 勉強を教えてもらうと言っても、正確には、テストの傾向を教えてもらうことであ
る。
 そんな中、見晴が驚いたような声をあげる。
「なあんだ。ここが出来るんなら現国は問題ないね」
「え? なんでそんな事言えるの?」
「現国の加藤先生は、ここをテストで出すのよ。去年も、その前もそうだったのよ」
「へえ、そうなんだ・・・ 」
 和人の安心したような表情に、見晴はため息をこぼす。
「こうして見ると、和人くん、私なんかの力なんか借りなくたって、いい成績残せそう
じゃない」
「そうかな? 出る範囲が違えば悲惨な事になりそうだけどな」
「大丈夫よ。そんな事より、基礎がちゃんと出来てるじゃない」
 見晴の言葉に、和人は照れ笑いを浮かべる。
「まあ、まわりの奴が俺より成績がいいと、聞く相手には困らないからね」
「じゃあ、メグちゃんにいいとこ見せるためにも、もうちょっと頑張ろうか?」
 和人はズルッと肩を落とす。
「あ、あのねえ、愛は関係ないでしょ?」
「そうでもないんだよ。
 メグちゃんに、『和人くんの勉強、ちゃんと見てやってね』って言われてるんだから
ね。」
「愛が? そんな事を」
「うん」
 和人は首を振る。
「そう。 ・・・まあ、愛の事はともかく、もうちょっと頑張るかな」
 そう言った和人の表情は、いかにも照れたもので、見晴は笑いを押し殺すのに苦労し
た。



   ときめく時の中で(186)

  夏の日々(6)



「と、こ、ろ、で、和人くん?」
 からかうような、冷やかすような見晴の声に、和人の心に警戒警報が鳴り、背中に冷
たい汗が流れる。
「な、なんですか?」
「メグちゃんとは、その後、どうなの?」
「 ・・・あ、あのねえ・・・ 」
 和人はそう言ったっきり、言葉に詰まってしまった。
(聞かれるかも? とは思っていたけどね)
 声にならない和人の声は、間違いなく彼の本音だっただろう。
 そんな和人に関わらず、見晴は興味津々といった表情で、その追及の手を緩めなかっ
た。

 一学期の定期テストを間近に控えた日曜日、テスト勉強を見晴に見てもらっていた和
人であったが、実際のところ和人の実力はなかなかのもので、見晴としても、つい気が
緩んでしまい、話題が別の方向へと飛んでしまう。
 そして、その話題は美樹原の事になってしまうのは、”ある程度仕方がない事”と、
和人はあきらめていた。

「もう、勘弁してよ。
 学校でも家でもからかわれるんだから、参っちゃうよなあ。
 女の人って、ホント、そういうの好きだなあ」
「好きじゃない人も多いと思うけど、私は好きだよ」
 にっこりと笑う見晴だった。
(やれやれ)
 その笑顔を見て和人は、あきらめにも似た心境に陥った。



 その一方の当事者である美樹原は、その時、市内にある運動公園の中にあるテニスコ
ートの脇にいた。
 そこでは、インターハイに向けた地区予選が行われており、きらめき高校テニス部が
試合をしていたのである。
 この日の試合は、きらめき高校にとっての初戦だった。
 美樹原を含めた、きらめき高校の関係者が見守る中、きらめき高校は、男女各競技で
勝利を決め、順調な出足となった。

 試合が終わり、会場を後にするテニス部の中にいた詩織に、美樹原は声をかけた。
「おめでとう、詩織ちゃん」
「ありがとう、メグ。
 でも、まだ始まったばかりだから、気を緩めちゃいけないのよね。きらめき高校は、
かなりマークされてるんだから」
「そうね。でも、ともかく初戦を突破しなければ始まらないんだもん。今日の今だけは
おめでとうよ」
「うん、そうね。今だけは素直に喜ぶべきかな? そして、一戦一戦、大事にしていく
事が大切なのよね」
「そうそう」
 そう言って美樹原がうなずくと、詩織の後方から声がした。
「藤崎先輩。それではお先に失礼します」
 それは連尺の声であり、それに続いて、複数の声が上がる。
「失礼します」
「お先に失礼します」
 40名程のテニス部員が、詩織に挨拶をしたのだった。その中には将の姿もある。
 振り向いた詩織は、にっこりと微笑みながら、それに答える。
「はい。さようなら。テスト勉強は大切だし、大変だと思うけど、ともかく体調には気
をつけてね。
 じゃあ、また来週ね」
「はい」
 複数の返事が上がり、テニス部は遠ざかっていった。
「テニス部、これからどこ行くの?」
 それを見ていた美樹原が、不思議そうな顔で詩織に聞いた。詩織が美樹原に向き直
り、それに答える。
「みんな、これから学校で今日の反省会の後、テストの勉強会なんだって」
「 ・・・あ、そうか。もう、そんな時期なんだね」
「そうなの。
 今年は大会の日程が、少し、早め早めになっているのね。それで、テストをはさんで
の予選になってしまったの。
 去年までは、夏休みに入ってからだったから楽だったけど、今年はみんな大変みたい
よ。
 文武両道、それがテニス部のモットーだから・・・ 」
 そこまで詩織は言ったのだが、こらえきれないように吹き出した。
「なんて言ってはみても、そのあたりに不安があるから、勉強会となるわけなんだけど
ね」
 つられて美樹原も笑顔を浮かべる。ただ、その笑顔は多少ひきつっていたが・・・ 。
「でも、そうよね。私が学校に行っていた時も、テストになると慌てて勉強したもん
ね。
 ”詩織ちゃん、ここ教えてーー!!”とか言ってね」
「フフフ、そうだったね」
 ふと、笑いをおさめた詩織は、思いついたように美樹原に言った。
「ああ、そうか、そういう事か。それは領家君も例外じゃないもんね」
「え?」
 思いもしなかった話題の転換に、美樹原が口ごもる。
「どうもおかしいと思ったわ。
 学校にいた時には、滅多に応援なんかに来てくれなかったのに、私がなんにも言わな
いのに、それも一人で応援に来てくれるなんて、想像できなかったもん。
 ふーーん。そうなんだ」
「な、なに、詩織ちゃん? その笑いは?」
「とぼけない、とぼけない。領家君もテスト勉強なんでしょ?
 それで、”仕方なく”応援に来てくれたんだね」
 詩織が、”仕方なく”という部分を強調したため、美樹原もむきになる。
「そ、それじゃ、和人くんがいなかったら、私がどこにも行かないみたいじゃない。
 ひどいよ、詩織ちゃん」
 (からかいすぎちゃったかな?)と判断した詩織は、声のトーンを落とす。
「ごめん、ごめんね。冗談のつもりだったんだけど、ちょっとまずかったわね。
 ごめんなさい」
「んもう、詩織ちゃんの意地悪」
 などと言ってはみたものの、美樹原にもそういった感がないわけではない。
「確かに、和人くん、試験勉強で大変みたいなの。
 私の方から和人くんの邪魔をするわけにはいかないし、今日は他にする事がなかった
というのは、確かにあるわ」
「領家君の勉強、見てあげればいいじゃないの」
「それも考えたことあったけど、見晴ちゃんの方が適任だもん。
 私、あんなに上手く教えてあげられないから」
「それが、領家君のため? 彼を思えばこそ、という訳ね?」
「やだもう、詩織ちゃんたら!」
 からかう口調の詩織に、美樹原は顔を赤らめそう言いながら、詩織の背中を叩いた。
(痛いなあ。メグったら、もう)
 背中をさすりながら、詩織はそう思った。
「ところで、実際のところ、彼とはその後どうなの?」
 気を取り直してそう聞いた詩織に、美樹原は答える。
「特に変化はないわ。今まで通りよ」
「 ・・・今まで通りって、なんの進展もないの?」
 驚いたような、半ば呆れたような詩織の反応に対して、美樹原は平然と答える。
「進展もなにも、私達、お付き合いしてるわけでもないし、恋人同士という訳でもない
んだから」
(付き合ってないって、 ・・・今の状況はなんなの?)
 詩織はそう思ったのだが、あえて口にはしなかった。
 だが、その後に続く美樹原の言葉に絶句させられる。

「それに、和人くんの好きな人の存在、まだまだ大きいもん」



   ときめく時の中で(187)

  夏の日々(7)



「好きな人って・・・ 、領家君って、他に好きな人がいるの?」
「あれ? 言ってなかったかしら?」
「聞いてないわよ、そんな事!」
 美樹原に、和人に好きな人がいると聞かされ、詩織は驚くと言うよりあわてた。
「ちょっと待って! それを知ってて・・・ 」
 詩織はそれ以上言葉を続けられなかったが、何を言おうとしたかは美樹原にも判っ
た。
「うん。それでも、私は和人くんが好きなのよ。
 ううん、それだけじゃないな。和人くんは私にとって、とっても大切な人なの。
 別に、和人くんが私の事を女の子として見てくれなくてもいいの。先の事は判らない
けれど、今は、和人くんといられることが私にとて重要なのよ」
 晴れ晴れとした美樹原の表情に、詩織はなんとはなく、納得してしまった。
「 ・・・メグはそれでいいのね?」
「うん。だって、和人くんがいなかったら、私、きっと、大切な友達をなくしていたと
思うの。
 そう言う意味でも和人くんには感謝してるのよ」
「 ・・・メグ・・・ 」
 美樹原の言おうとしている意味、しばらくの時間をおいて詩織は理解した。
 彼女の言う”友達”が自分の事だという事に。
「 ・・・そう、そうなの」
 詩織は声をなくす。
 言葉が途切れた詩織に気づき、美樹原はにっこりと微笑む。
 そして、一呼吸おいてから、話題を変える。自分の言ったことが、詩織に重圧を与え
かねない性質のものだと悟ったからである。
 美樹原としてもそこまで言うつもりはなかったのである。口が滑ると言うことはこう
言うことなのかと、変に納得してしまう美樹原だった。
「ところで、テストの勉強会、詩織ちゃんは行かなくていいの? 実のところ、テニス
部のみんな、詩織ちゃんを当てにしてるんじゃないのかな?」
「え?」
 その質問そのものというより、いきなり話題が変わってしまったために詩織は一瞬考
え込んでしまったが、 すぐに何事もなかったかのような口調で、質問に答える。
「私は行かなくていいの。と言うより、キャプテンのみゆき・・・ 連尺さんに止められて
いるのよ。
 ”そこまで甘えるわけにはいきません”って言われてね。
 確かに、最後にはテストのヤマを教えることになってしまいがちだから、それを嫌っ
たのね。彼女は」
 詩織の口調に尊敬めいたものを感じた美樹原が聞き返す。
「真面目な娘なのね?」
「うーーん。そうも言えるけど、それ以上に厳しいわよ。人に対しても厳しいけど、自
分に対してはもっと厳しいわね。
 去年までのテニス部って、どこか、”まあ、なんとなく”で通ってきた所があったん
だけど、連尺さんがキャプテンになってから、いい意味で組織だってきたわね。
 素直に、すごいなって思うのよ。私にはまず出来ないと思うから」
「そうなの。すごいな、詩織ちゃんにそこまで思わせるなんて」
 感心したように美樹原がうなずくと、詩織は少し小声で言った。
「正直言って、1年先輩で良かったって思うの。
 同学年だったら、かなわないなって思っただろうし、後輩だったら尊敬、と言うより
怖かったでしょうね」
「ふーーん。そんなにすごい人なんだ」
「そうね。
 どうしてもプレイヤーに目がいってしまいがちだけど、彼女のようなバックアップが
あると無いとでは大違いよ。
 マネージメントというものにも才能ってあるのね。 そういう意味で、彼女は天才な
のかも知れないって思うほどよ」
 美樹原は少し戸惑い始めていた。詩織は決して、人を賞賛することを惜しむことはな
い。だが、これほど手放しで人を褒めるということは、美樹原の記憶にはなかった。
(詩織ちゃん?)
 言葉にはならない美樹原の声に気づいたかのように、詩織が言った。
「私、思うのよ。彼女なら私が出来なかったことが出来る。
 自分の感情に左右されず、将くんの持っている力を最大限に引き出すことが出来る。
 そう思うのよ」
「詩織ちゃん・・・ 」
 美樹原は、そう言ったきり言葉を続けられなかった。 
 美樹原は忘れていた。いや、正確には意識していなかった。今も詩織にとって、将の
存在は決して小さくはないと言うことを。
 詩織がどこまで納得して現在の状況下にいるのか? 美樹原は想像するしかない。
 だが、自分の体を壊してしまうほど悩んだ想いを、そう簡単に割り切れるものではな
い。少なくとも、ただの先輩、後輩という割り切り方は出来ないだろうと美樹原は思っ
ていた。
 それでも、あえてこの状況下にいられるのは、将を支えることが出来る人間が、自分
のほかにいるから、そう割り切れるのか? と。
 その想像が的を得ているのかどうかは判らない。
 ただ一つ判ることは、詩織が現状から逃げようとはしていないと言うことだった。
(私も負けていられないな。がんばらなくっちゃ)
 そう思いつつ、詩織ような友人と巡り会えたことを、心から幸せに思う美樹原だっ
た。 



 きらめき高校テニス部一同が、学校に帰ってきたのは午後二時ごろだった。
 これがもう少し遅く、具体的に言うなら5時以降になったのであれば、この後すぐに
解散ということにもなるのだろうが、試合開始が今日の最初だったため時間があまって
っしまう。そのために勉強会と言うことになったのである。
 強制と言うことではなく、用事があったりする者は帰宅することになっていた。もち
ろん、差し迫ったテストのプレッシャーは各自に襲いかかっていたので、残る者のほう
が若干多い。
 それでも、どうしても帰らなければならないものの何人かは、後ろ髪をひかれる思い
で学校を後にしていた。
 松島もそんな中の一人だった。
「じゃあ、俺帰るから、僕の班のみんなの事頼むね」
 西島と本郷にそう言い残し、松島が帰っていく後ろ姿を見送りながら本郷が言った。
「大変ね。家のことをしなきゃならないのは」
「まあね。おやじさんが休日出勤で、弟さんの面倒、というか食事の用意なんかはマツ
の仕事だからなあ。
 でも、マツは自分のことを大変だと思っていないみたいだぜ」
「そうみたいね。それでいてレギュラーもしっかり手にしてるんだから。すごいよ。こ
りゃ」
 そこまで言って本郷は松島のほうを見る。
「あんたも、そうとうしっかりしないと、差は開く一方よ」
「何でそこで俺の名前がでてくる?」
「さあ、なんででしょうねえ」
「ちっ!」
 西島はいかにも不機嫌と言った表情を浮かべる。
(まったく、こう言うところ、単純だなあ、こいつは)
 内心ではそう思い、笑みさえ浮かべる本郷だったが、思い出したように言った。
「そうそう、こんな所にいつまでもいるわけにもいかない。勉強、勉強!」
「なんだかなあ」
 苦笑いを浮かべ、西島が振り返るとそこに一人の女性が立っていた。
 本郷もその人物は知っていたが、最初にその名を呼んだのは西島だった。
「に、虹野さん。どうしたんですか?」
 そこに立っていたのは、日に焼けて、透き通るような白い肌を少しばかり赤くした
虹野だった。



   ときめく時の中で(188)

  夏の日々(8)



 西島と本郷のところにやって来た虹野。その虹野に西島が聞いた。
「あれ、どうしたんですか? 虹野さん。日曜日に」
 西島の疑問は、彼にとってはある意味当然だった。
 卒業してからも、たびたび学校に来る虹野は、学校内でもかなり知られる存在であっ
た。なにしろ在校当時から、”運動部のアイドル”として、サッカー部のみならず、運
動部全般で相当に有名であったし、愛らしい笑顔とともに放課後のクラブ活動の時間に
顔を見せる虹野が、人の目に触れないわけが無い。
 ただ、それは虹野が通う専門学校の都合もあって、「放課後に来る虹野先輩」という
イメージが出来ていた。
 それが日曜日の、この時間帯に来ると言うのはいつもと雰囲気が違ってきてしまう。
 西島の質問に虹野が答える。
「うん、サッカー部のインターハイ予選がここであったの。それで、その応援にね」
「ああ、それでか」
 その答えを聞いてうなずいたのは本郷だった。
 インターハイの予選となるとグランドの数が足りないため、学校の施設が使われるこ
ともよくあることだ。
 ただ、どうしても”地元有利”になりがちなので、最近は避けられる傾向にあるのだ
が・・・ 。
「ちょっと、日に焼けましたね?」
「やっぱり判る?」
「ええ、赤くなってますよ」
 本郷もさすがに女の子だけあり、桃色に染まった虹野の肌について小声で言った。
「一応、日焼け止めして来たんだけどな。もう私って、日に焼けるとすぐに赤くなっち
ゃうから、今日のお風呂は止めたほうがいいかな?」
「虹野先輩は肌白いから、うらやましいな」
「だけどこう言うときは恨めしいわよ」 
 一人蚊帳の外でその会話を聞いていた西島が、そこに割って入る。
「それで、サッカー部はどうでした? 勝ちましたか?」
「え? ええ、まずは初戦突破と言うところよ」
「そうですか。おめでとうございます」
 西島のお祝いの声に虹野は首を振る。
「まだ初戦よ。先は長いわ。
 ところで、 テニス部のほうこそどうだったの?」
「こちらも男女とも全員勝ちました」
 誇らしげに答える本郷に、西島が茶々を入れる。
「お前は何にも出てないじゃないか。いばるなよ」
「うるさいわねえ! いいじゃない、そんな事。あんただって、ぎりぎりでシングルに
滑り込んだだけじゃない!」
「ふん、それでもレギュラーはレギュラーだからな」
「くーー、なんかあんたに言われるとむちゃくちゃ悔しい!」
 大げさに右足で地面を蹴りつける本郷に、虹野がくすくすと笑い出す。
「あなた達って本当にいいコンビね?」
「誰がこんな奴と!」
 全く同時に声を上げる西島と本郷に、虹野の笑いが加速する。
 それを見て、互いに視線を交わし西島と本郷は顔を赤らめる。
「私、テニスはそれほど詳しくないんだけれど、あなた達、ミックスダブルスをやれば
きっといいコンビになりそうね」
「だからなんでこんな奴と!?」
 また声がそろう。
 気を取り直したかのように西島が口調を改める。
「まあ、こんなのとやっていいコンビになるとは思えないけど、それ以前に、うちには
”四本松島コンビ”がいるから出番はないですよ」
「・・・四本松島?」
 虹野の疑問に、本郷が答える。
「四本松先輩と松島ペアの事です。
 すごいんですよ、あの二人は。すごい息があってるんですから」
「そうなんですよ。ただ息があうだけじゃ無くて、本当に対等なパートナーって感じな
んですよ。
 マツなんか先輩を怒鳴りつけるような時があって、見てるこっちのほうがはらはらし
ちゃう事があるんです」
「松島は大人だからねえ。あんたと違って」
「うるせえな。そりゃ俺はマツほど落ち着いてないよ」
「威張るんじゃないの」
 言い返そうとした西島だったが、意外そうな表情を浮かべる虹野に気が付いた。
「あの、どうしたんですか?」
「え? あ、あの、松島くんて、大人っぽいかな? あなた達から見ると」
 虹野の問いかけに、今度は西島と本郷が意外そうな表情を浮かべる。
「ええ、そうですけど」
 そう答えるた西島に本郷が続ける。
「3年生の人たちも、よくそう言ってますよ。 ・・・それがなにか?」
「ううん、いいの。なんでもないから」
「そうですか?」
「それじゃあ、私そろそろ帰るから。次の試合、頑張ってね」
「は、はい・・・」
 いぶかしげな表情の西島と本郷を残し、虹野は校門のほうへと歩いていった。
 後の残された西島が本郷に言った。
「どうしたのかなあ? 虹野さん」
「私が聞きたいわよ」


 虹野が思っていたこと、それは松島に対する、まわりと自分の評価の違いだった。
 虹野が知っている松島という人間は、言葉は悪いが子供っぽいという表現がある程度
当てはまるものだった。
 それだけが全てではないだろうが、少なくとも、大人っぽいとかしっかりしていると
いうイメージはそれほど強くない。
「1学年違うと、印象が変わるものなのかな?」
 そう独り言を言って、ほてった頬を抑えながら家路に付く虹野だった。



 そして、各自が恐れおののいた1学期の定期試験が始まる。
 悪戦苦闘がいたるところで繰り広げられつつも、とにもかくにも全ての日程が終了し
た。
「ああ、終わったあ、後は夏休みだあ!!」
「成績次第じゃ、補習だぜ」
「今はそれを言ううなあ!!」
 等と言う会話があちこちに交わされるが、それでも校内には”一山こえた”と言うよ
うな安堵感が広がっていた。

 そして、その結果が発表される。
 学年1位は将だった。2年の終了試験に続いての首位である。
「1位おめでと」
 発表の後、昼休みの教室で、和人の言った言葉に将が答える。
「ありがと」
 気の無い将の声に和人は首をかしげる。
「嬉しくないのか?」
「嬉しいとか嬉しくないとかそういう問題じゃないだろ。試験の順位なんてさ」
「そうか? 普通1位ってのは嬉しいもんだと思うぜ」
「そう言う和人のほうこそ、12位に上がっていたじゃないか。それもすごいぜ」
「そうかなあ、家庭教師の先生がいいだけじゃないのかな?」
 今度は和人が首をかしげた。
「館林先生か・・・」
 ため息混じりの将の言葉に和人が苦笑いを浮かべると、そこに四本松と優美がやって
きた。
「将くんって、いったい、いつ勉強してるの? 優美、今回頑張ったつもり何だけどな
あ」
「それでも31位じゃない、いいほうだと思うけどな」
「22位の優ちゃんに言われてもあんまり説得力ないなあ。私も本当ならもっと喜んで
もいいとは思うんだけど、この3人がすごいから、素直に喜べないよ。
 もっとがんばらなくっちゃって思うのよねえ」
 いわゆる「ミックスアップ」と呼ばれる現象である。互いが互いの良い部分に刺激さ
れ、限界が高まり、さらに他者に刺激を与える。
 将たち4人は、良い刺激を他の3人に与えていたのである。
 この時、優美はそれを充分知りつつ、あえて素直には口にはしなかった。
「まあ、和人に負けるのが悔しいってのもあるんだけどね」
「なんじゃあ、そりゃ! なんで俺だけなんだ!?」
 演技がかった口調で和人が言うと、その場に笑い声があふれる。
 ただし、将の声は含まれていない。
「どうした? 将?」
「いや、別に」
 そう言って将は教室を後にしようとした。
「どこへ?」
 四本松の質問に将は静かに笑って答える。
「トイレ。一緒に行く?」
「あ。そうか」
 顔を赤らめ四本松がそう言うのを見て、将は廊下へと出ていった。
 それを追っていた視線を和人に向け、優美が言った。
「なんか、将くん、様子が変だね」
「確かになんか、ボーっとしてるよな」
「インターハイ予選のプレッシャーなのかな?」
 四本松はそう言ったものの、確証は全くなかった。それは他の二人も同様だった。
「うーーーん」
 それゆえ、声を揃えて唸るしかなかい3人だった。



   ときめく時の中で(189)

  夏の日々(9)



 ベンチに座り、両手でうつむいた顔を押さえ、肩を震わせる四本松に、将は声もなく
その横に立つだけだった。


 夏休みに入り、インターハイに向けた地区予選もいよいよ大詰めとなってきていた。
 きらめき高校も勝ち進んでいたのだが、ここに来て、力及ばず敗退していくものが出
てきていた。
 四本松もその一人だった。
 女子シングルスで、四本松は優勝候補の一人と見られていた。春の公式戦で優勝した
のだから、それはある意味当然である。
 だが、それは同時に、まわりからのマークを受けると言うことも意味していた。そし
て残念なことに、四本松はそういう環境に、まだ慣れていなかった。
 自分の持ち味を徹底的に研究された四本松は、準決勝で敗退した・・・。


 競技会場となったスポーツ公園。その外れの方のベンチで、四本松は一人で泣いてい
た。
 テニス部員の誰もが、そしてコーチとして来ていた詩織でさえ、かけるべき適当な言
葉を思い付くことが出来なかった。
 そんな中、部員の視線が将に集まった。将にしてみれば「俺に何が出来る?」と言う
ところなのだが、他の部員たちのすがるような視線に抗し切れなかった。
 いや、それも確かにあるが、それ以上に四本松が心配だった。だから、四本松のそば
に来たのだが、やはり何も言えない将だった。
(ほんと、俺、こう言うのにはからきしだなあ)
 困り切ったような表情で、そんなことを考えていた将の心情を察したかのように四本
松が口を開く。
「ごめんね。将くんにはまだ決勝が残ってるのに、いやな気分にさせちゃって」
「あ? ああ、いいんだよ、そんな事は」
「私が勝って、将くんに気分良く決勝に進んでもらいたかったのに・・・ 」
 四本松の言葉は細かく震え、精神的な高ぶりがまだ残っていることをうかがわせる。
「四本松・・・ 」
 将はそれだけ言うのがやっとだった。
 しばし、空白の時間が夏の暑い空気の中に流れる。
「・・・私もインターハイに行きたかった・・・」
 やがて、ポツリとそう言った四本松の言葉を、彼女に全神経を向けていた将は聞き逃
さなかった。
「何言ってるんだよ? 
 まだミックスダブルスがあるじゃないか。あきらめるなんて早すぎるぜ」
 将は力付けるつもりでそう言ったのだが、四本松は激しく首を振る。
「そうじゃないの!
 誰かに連れてってもらうとかじゃなく、自分で自分の力で、インターハイに行きたか
ったの!」
「ミックスダブルスだって一人の力じゃ勝てないぜ。四本松の力がなけりゃ松島がいく
ら頑張っても勝てないさ。
 それは四本松自身で行くことになるじゃないか」
「そうじゃないの、そうじゃないの」
「四本松・・・ 」 
(将くんがシングルスで行くんなら、私も同じシングルスで、一緒に行きたかった)
 と思っていたのだが、それは口にしなかった。 
 これがスポーツをする上で、純粋な思考だとは思えなかったからだ。
 そして、それは彼女なりのプライドのようなものだった。彼女はせめて、テニスとい
う限られたフィールド内では、将と対等の立場でありたいと思っていた。
 四本松は確信していた。将は予選を突破し、インターハイへ行くであろうという事
を。
 それに対して自分はどうだろうか? 四本松はそう考えた。
 将と比べられた時、”見劣りがする”とは言われたくなかったのだ。
 そんな事はそうそう言われるわけもないし、客観的に考えれば、それがそれほど重要
な事でもないとも思えるのだが、四本松にはそれが重要な事だった。
 彼女は何か裏付けが欲しかった。自分という人間に対し、些細なものでいいから、何
か客観的な事実が欲しかったのである。
 ともかく、その当面の目標として、インターハイがあったのである。
 その目標に力が及ばなかったことが彼女の心に暗い影を落としていたのである。
 だが、面と向かってそれを将に口にする訳にもいかず、四本松は口ごもってしまうの
だった。
 それは、すなわち、先程までの状況と同じになったと言うわけなので、将としては、
再び、打つ手なしの状況になってしまった。
 だが、今度は四本松がその状況を変えた。
 いまだうつむいたままなので、その表情をうかがい知ることは出来ないが、少なくと
もその口調には先程までよりも力強さが加わっていた。
「ありがとう、将くん。私はもう大丈夫よ。でも、もう少しだけここにいさせて。
 踏ん切りをつけたら、すぐに行くから」
「 ・・・ああ、判った」
 短くそう答え、将はそこから離れていった。これ以上、自分が何を言っても説得力は
ないとと実感してしまったのだ。
 
 将が歩いていくと、松島が心配げな表情で立っていた。
「吉野先輩、あの、姉さんは?」
 松島の言った”姉さん”という言葉が将の思い出を呼び起こした。
 ちょうど昨年の今ごろ、将は古式を”姉さん”と呼んでいた。そしてシングルスと
共にミックスダブルスでも、古式とインターハイへと行ったと言うことを。
 そして将は微笑みを浮かべる。
 それは正直に言えば、安心したと言うような笑みだった。
「なんだ、考えてみれば松島くんがいたじゃないか。余計なことをしちゃったかな?」
「いえ、そんなことはありません。 ・・・それで、姉さんは?」
「今はそっとして欲しいと言うことだけど、もう大丈夫みたいだ」
「そうですか・・・ 」
「もっとも、ここからは松島くんの出番だぞ」
 将の言葉には、多少、驚かすような成分が含まれてはいたが、松島は怯まなかった。
 むしろ逆に、胸をはり堂々と答える。
「はい、任せてください。僕に出来ることを全て注ぎ込みますから」
 松島の言葉に将は驚いたが、やがて再び笑顔に変わった。それに触発されるように松
島も笑顔になる。
「じゃあ、頼んだよ」
「はい」
 一呼吸置き、まるで申し合わせたかのように二人は歩き出す。そして、すれ違い、
2歩ほど歩いた時、松島が振り返った。
「吉野先輩」
「ん?」
「インターハイ、行きましょう。僕も姉さんと行きますから」 
「そうだな」
 肩ごしにうなずいてから、顔を正面に向き直し、将は歩き始めた。
 松島も無意識のうちに右の拳を握りしめながら、歩き出した。



 その2日後、その約束通り、将は決勝戦で勝利し、インターハイへの出場権を手に入
れた。
 松島も約束を守りミックスダブルスも出場を決めた。
 男子ダブルスでも江ノ島、福島ペアが出場することとなり、きらめき高校テニス部の
雰囲気は、一気に盛り上がっていた。
「さて、私達はこれからが大変よ」
 その日、時間の遅くなった夕暮れ時、テニス部の部室で連尺が気合いを込めた表情で
マネージャーチームを引き締めた。
「去年は地元開催だったから良かったようなものの、今回は遠征で、しかも長期の合宿
になるわ。
 私達のすべきことは多いわよ」
「長期の合宿になるといいですね。僕たちは大変になるけれど」
 そう言ったのは、1年生の男子マネージャーだった。それは雰囲気を和らげようとす
る彼なりの気遣いだった。
 長期の合宿になると言うことは、それだけ勝ち進むということを言ったのである。
 だが、連尺は冷静な口調で言ってのけた。
「長期合宿なるといい、ではなく、長期合宿にするの。そのために私達は努力してきた
のよ。それを忘れないで」
「は、はい」
 男子マネージャーは体を硬直させ、声を張り上げるようにしてそう答えた。
 それを端で見ていた詩織でさえ、背筋を伸ばしてしまうほどの連尺の迫力だった。



   ときめく時の中で(190)

  夏の日々(10)



「あの・・・ 、それは、いったい、どういう事なのでしょうか?」
 連尺の質問に、将は全くの同意見だった。
 インターハイ出場を決め、忙しく動き回る連尺のもとへ、ある日、いかにもサラリー
マン風の姿をした人物が訪れた。
 正確に言うと、学校の応接室に連尺と将が呼び出されたのだが、そこで彼が言い出し
た提案に、連尺も将も戸惑ったのである。
 その提案と言うのは、インターハイでのテニス部の合宿所、つまり宿舎を伊集院財閥
が手配すると言うものだった。
 具体的に言うと、インターハイが開かれるところに、ちょうど伊集院グループの福祉
保養所があり、そこを宿舎として利用すると言うことである。
 なにしろ、日本でも有数の財閥である伊集院グループの保養所である。設備は1流ホ
テル並みと言ってもいい。話によれば全天候型のテニスコートが、8面もあると言うの
である。
 他にも様々な設備が整っており、関係者以外は簡単には入り込めないと言うこともあ
り、合宿所として申し分ない。
 加えて、宿泊料がいらないと言うのも破格の待遇だった。
 だが、連尺も将も、疑問に思わずにいられない。なぜ、テニス部がそう言う待遇を受
けられるのか? と。
 確かにきらめき高校は、伊集院財閥系の学校法人ではある。
 だからと言って、これほどの待遇を受けてもいいのだろうか? 他のクラブ、例えば
水泳部やバスケットボール部の男女、サッカー部等もインターハイに出場することとな
っていた。
 後々問題になりはしないか? 二人のそんな心配に、その男とその場にいた3人の教
師が静かに笑い声を上げる。
 一人の教師が代表してその心配を打ち消す。
「君たちがそんな心配をする必要は全くないんだよ。宿舎にしても、インターハイ中は
現地の宿が足りなくなるから、逆に体育協会から歓迎されているほどだ。
 他の部についても、それに見合った施設の宿泊する事になるんだよ。
 サッカーグランドや体育館は、さすがにその保養所にもないし、プールはあるが競泳
用ではない。
 つまり、それぞれの練習環境にあった宿舎が用意されているんだ。
 心配は無用だよ」
 そう聞いて連尺と将は安堵の表情となった。
 その時、この提案をした男が口を開いた。
「それに一つだけ付け加えることがあります」
「?」
「現在海外赴任中の伊集院レイより、吉野将様への伝言がございます」
 それが敬語の決まりごととは言え、伊集院は呼び捨てで、自分を様付けで呼ばれては
将としても多少むずがゆいのだが、その伝言に対する好奇心がはるかに勝り、将はその
続きを促した。
「俺に? なんですか?」
「はい。吉野様は伊集院との約束を守ってくださいました。
 心からお礼を申し上げたいと言うことです。
 本来ならば、お伺いをして直接お礼すべきところではありますが、今は遠方にいる身
でありますので、ご容赦下さいと」
「 ・・・ああ、あの事ですか・・・ 」
 将はその意味が判ったのだが、連尺にはなんの事なのか判らない。
 そんな連尺を無視するかのように男は続けた。
「今回の件はそのささやかな礼も兼ねていると言うことです。
 さらに、もう、秘密にしていなくとも良いと言うことも、付け加えさせていただきま
す」
「そうですか。
 ささやかな礼と言うには、少しばかり問題もあるようですが、ありがたくお受けいた
します。
 伊集院さんにそう伝えてもらえれば助かります」
「はい、承知いたしました」


 予想外の展開に驚かされつつも、テニス部の宿舎に関する問題は、こうして解決され
たわけである。
 だが、釈然としないのは連尺だった。
「訳が判らないわ」
 部室へ向かう途中の廊下で、将に言っているのか、それとも独り言なのか判別のつき
にくい口調で連尺が言った。
「伊集院さんの事?」
 恐る恐ると言う雰囲気に近い口調で、将が聞いた。
「うん。去年は地元の開催だったし、その前の年のことは知らないけど、こういう事っ
てよくある事なのかしら?」
「それは俺にも判んないなあ」
 その返事に連尺は歩みを止め、将に右の人指し指を突きつける。
「本当にそう? 実は何か知っているんでしょ!? 
 第一、さっきの意味ありげな会話は何?
 ほーら、答えなさいな!」
 連尺の指を見つめた将は、彼女の異様な迫力に気押されし、こめかみ辺りに冷たい汗
が伝う。
「い、いや・・・ 、こ、今回の事はともかく、あの人が言ってた秘密ってのは教えるか
ら、そんな脅かさないでくれよ。な」
 そして、無意識に辺りを見回して連尺の耳元に顔を近づけて、小声で言った。
 将にしてみれば、それは今まで秘密にしてきたことであり、それを話すというのは精
神的に開放されると言う側面があった。
 また同時に、ちょっとした優越感と言うのもある。
 だが、それを聞いた連尺の表情はいたって冷静なものだった。
「そう、やっぱりね・・・ 」
 そう言った連尺に将の方が言葉に詰まる。
「やっぱりって、この事知ってたのか? 連尺は?」
「え?」
 そう言って呆気に取られたような表情になった連尺だったが、やがてクスリと笑っ
た。
「そうよね。将くんって、そう言う噂話って嫌いだもんね。知らないのも無理はないか
な?」
 そして表情をやや固くして続ける。
「実のところ、その噂、けっこう前からあって、かなりの人が知ってるんだよ」
「え? そうなの?」
「そうなのよ。ただ、誰も確かめたわけじゃないし、噂を流した人がある日から、突然
『何馬鹿なこと言ってるんだ』なんて言い出したりしたから、真偽の程は定かじゃなく
て、噂は噂として捉えられていたんだけどね。
 ・・・やっぱりそうだったのか。
あれ? ・・・どうしたの将くん?」
 不意に将が立ち止まったので、連尺は振り返る。
 将は半ば茫然としたように、前方、やや上の何もない空間を見つめていた。
「そ、それじゃあ、俺が今まで秘密にしてきたことって、薄々みんな知っていたわけ?
 俺、和人にさえ黙ってたんだぜ。あの苦労はなんだったの?
 これじゃあ、俺、馬鹿みたいじゃない?」
 連尺は吹き出してしまいそうになるのを必死に我慢した。それほどの将の茫然自失ぶ
りだったのだ。
「まあまあ。将くんの、その”苦労”おかげで、今回助かったんだから、良しとしな
きゃ。ね?」
「そ、そうかなあ?」
「そうよ。
 さあ、これからが大変よ。頑張らろうね」
「ああ」
 そう答えつつも、今一つ釈然としない将だった。



   ときめく時の中で(191)

  夏の日々(11)



 世間が本格的な夏休み気分を味わっている頃、将は自宅で、出発を翌日に控えたイン
ターハイにむけての準備をしていた。
 部としての準備は、連尺を中心としたマネージャーチームがしっかりと進めていた。
 これは将個人の荷物等の用意である。
「連尺はいったい、いつ自分の準備をしたのかなあ?」
 荷物をバッグなどに詰め込みながら、ふと、思ったことを口にする将だった。

 実際、ここ数日の連尺の動きは目まぐるしいものがあった。インターハイへ行くこと
が決まってからと言うもの、急激に細々とした仕事が増えていった。
 宿泊名簿やその届け出、競技への出場申請や問い合わせなど、その数は相当なものに
なっていた。個々の処理はそれほどたいした手間ではないのだが、それがまとまると膨
大な仕事量になる。
 その仕事の一つ一つを、連尺は驚異的な事務処理能力とバランスの取れた人員配置を
ナイフとフォークのように使い分け、次々と処理していた。
 それは端から見ていてもはっきりとそうわかるほどの手際の良さで、同じくインター
ハイに向かうサッカー部や水泳部のマネージャー達が、顧問の教師などではなく、わざ
わざ連尺のところに判らないことを聞きに来るほどだった。
 それほど多忙な状況下ではあったが、将をはじめとする選手達に影響はほとんどな
く、練習に打ち込むことが出来た。
 それは確かにすごいことなのだが、将は心配になった。個人としての準備が進んでい
ないのではないかと。
 だが、連尺は将の疑問にあっさりと答えたのである。
「もうほとんど終わってるわよ」
と。
 それには将ならずとも、その場にいたものは声を無くすほど驚いてしまった。

 将が言った言葉には、このような理由があった。
(連尺がいなかったら、今ごろどうなっていたか・・・)
 荷物を整理する手を休め、将はそう思わずにはいられなかった。
「なに、ぼーーっとしてるの? 支度は出来たの? 明日出発なんでしょ?」
 そこに顔を出したのは美里だった。
「え? ああ、もうあらかた終わったよ。すぐに終わるから、あとは早めに寝て、明日
の朝、寝坊しないようにするだけだよ。遅刻したら置いていかれるからね」
 苦笑いのような笑顔を浮かべながら、将は答えた。
「そう? それならいいんだけど、最近、将集中力が欠けてること、多くない?
 そんな事で大丈夫なの?」
「え? そうかなあ? ・・・いや、そうかも知れないなあ・・・」
 なんとも気のない将の返事に、美里は少しばかり呆れたような、それでいて将を案じ
ているともとれる表情になった。
「どうしたの? 何か心配事でもあるの?」
「ん? んん。まあ、これは、自分でなんとかしなくっちゃいけない事だから、心配し
なくていいよ」
 それは、心配をかけさせまいとした将の配慮だったのだが、美里の反応は少々突飛な
ものだった。
「将ってば、もうお母さんのことが信用できないのね?」
 がくっ、と将は肩を落とす。
「あ、あのねえ。なんでそうなるんだよ!?」
「だって、ちょっと前までは、何かあると私に聞きに来たのに、もう必要ないって言う
訳ね?」
 これはかなり誇張がある。将はあまり美里に相談事をしては来なかった。そもそも生
活時間帯がずれていた事もあるが、それを差し引いても自分のことは自分で考える方だ
った。
 加えて、どうしてもと言う時は、和人という相談相手がいた。
 美里とてその辺りの事は充分知っている。なのに、あえてこう言うのは、有り体に言
えば将をからかっている部分もある。
 そして同時に元気づけてもいるのである。少しばかり屈折してはいるが・・・ 。
「いつまでも”お母さん”じゃしょうがないだろうが!!
 普通、親ってのは子供に自立を促すんじゃないのかい?」
「だってーー」
「だってじゃないって言うの」
 どうも、どちらが親なのか判らない会話ではあるが、この二人にはありがちな会話で
ある。これはあくまでも表面上だけの事で、言うならばコミュニケーションと言う類の
ものになるだろう。
 そのままの雰囲気で美里は続ける。
「本当にもう、将もそうだけど、和人くんも相手してくれなくなってきたから、ちょっ
ぴり寂しいなあ」
「え?」
「やっぱり和人くんも、私みたいなおばさんより、美樹原さん・・・ だったっけ? あん
な若い、ぴちぴちした女の子の方がいいのよねえ」
「あ、あのねえ・・・ 」
 将は頭を抱え、ひきつった笑いを浮かべながら思った。
(全くこの人はぁ・・・ やっぱり知ってたんだなあ。 ・・・悪女だからなあ)
「ん? 何かな?」
「なんでもないよ」
「何か考えていたでしょ!? それも良くないことを!?」
「え? いや、いいだろ、そんな事は」
「ああ! やっぱり考えてたなあ!」
「ああ、もう仕事に行く時間だろ? 早く行けよ!」
 将の慌てぶりが、ますます美里を調子づかせる。
『ああ、もう! これで明日行かなきゃならないのかあ?』
 将の声にならない声が上がる。



 将が美里にからかわれて(?)いる頃、詩織はパソコンのモニターに向かっていた。
 インターネット経由で、君本に向けての返事を書いていた。

 :>>10日間というのは長いな。                     :
 :>>全日程滞在するつもりという事は、優勝するということか。       :
 :>>キャプテンの連尺さんって、強気だな(^_^)               :
 :                                   :
 : そうね。そう思うかもね。                      :
 : もっとも、そのうちの一週間は合宿を兼ねているんだけどね。      :
 : どちらにしろ全日程いるつもりでいるのは、みんな同じよ。       :
 : 少なくとも優勝を考えてない人はいないわね。             :
 : 強気と言えば、確かに強気と言えるんだけどね。            :
 :                                   :
 :                                   :
 : ・・・という事で、明日からアクセスできないけど、頑張ってくるから許し:
 :てね。                                :
 :                                   :
 : それじゃあ、またね。                        :
 :                                   :
 :                             詩織    :

 詩織もテニス部に同行して、コーチとして、インターハイに行く事になっていた。

 正直なところ、自分も行っていいものかどうか、少なからずためらったのだが、
「詩織先輩が同行してくれないと私が困ります。
 ぜひ一緒に来てください。お願いします」
 と、連尺に言われ行く事となったのである。

 その事を思い返していた詩織だったが、ハッと我に帰る。
「そうそう、寝る前にメールを送っちゃわないと」
 そう言って、今書いたメールを送るために通信ソフトを起動させ、詩織は思った。

『本当に、強気なところがあるよね。みゆきさんは・・・』



   ときめく時の中で(192)

  夏の日々(12)



 夏休みに入ってからというもの、鏡家の朝は学校がないと言うだけあって、多少なり
とも落ち着いたものになっていたのだが、この日は少しばかり慌ただしいものになって
いた。
 自分の胴体ほどもあるバッグを抱えた明が玄関に立ち、それを不安げな表情の魅羅が
見送る。その後ろには5人の弟たちがいた。
 明の持つバッグをまじまじと見つめながら、魅羅が明に聞く。
「忘れ物はない? ちゃんと確認した? 忘れたからと言って、ちょっと取ってくるっ
て訳にはいかない所に行くんだからね」
「判ってるって! まったくう、お姉ちゃんは心配性だからなあ。
 何度も再点検したし、お姉ちゃんだって確認しただろ?」
 明は、さもめんどくさそうに答えた。魅羅が心配してくれるのは、確かにありがたい
とは思うが、出掛け間際になってまで、こうまで心配されては正直言ってうっとうしさ
さえ感じてしまう。
 明にしてみればそれも無理からぬものもあるが、その態度が魅羅に不快感を与えるの
も、また、無理もなかった。
「なによ、その態度は? お姉ちゃんは明のことを心配して言っているのよ」
「わ、判ったよ。と、とにかく、もうそろそろ行かないと」
 一旦はつっぱねてみたものの、やっぱり姉である魅羅にはかなわない。
 形勢不利を悟った明は、慌てて家を出ようとしていた。
「あ、明。待って」
 それを魅羅が呼び止める。
「な、何?」
「私にはテニスのことはよく判らないけど、こう言った合宿は、必ず、明のためになる
はずよ。
 一所懸命に頑張ってきなさい。明をテニスに引き込んだ”吉野先輩”をしっかり見て
おくのよ。
 いいわね?」
「うん。判った」
 うなずく明に、魅羅も満足そうな笑顔を浮かべる。
「じゃあ、行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃーーいぃ」
 魅羅、そして弟たちの声に送られて、明は集合場所である学校へと向かった。
 


 きらめき高校には2台の貸切バスが待機していた。
 この2台のバスに分乗してインターハイに向かうのである。
「はい。班ごと決められたバスに荷物を積み終えたら、そのまま乗って下さい。
 あまり緊張しても困るけど、かと言って遊びに行くというのでもありません。その辺
りの事をわきまえて行動してください。
 以上です」
 この連尺の命令一下、班ごとにわかれバスに分乗する。
「詩織先輩は、こちらの1号車です」
「あ、はい、ありがとう」
 連尺の案内で詩織は席に座る。
 詩織はクラブ内で慕われている事は間違いない。だが、各部員から見た場合、コーチ
という立場にある以上、どうしても一歩ひいた存在になってしまうのも仕方がない事だ
った。
 それを充分に知っている連尺が気をきかせ、自分の横に詩織が座るように座席を配置
した。
 詩織が窓際に座り、通路側に連尺が座る。その連尺に詩織が言った。
「去年は地元だったから、こう言う苦労はなかったけどけど、移動があるとやっぱり大
変ね」
「本当に大変でした。何から手をつけていいのかすら判りませんでしたから」
 そう言って連尺は困ったように笑った。
(でも、その移動を、こうしてしっかり準備するのはすごい事ね)
 という言葉を詩織は飲み込んだ。
 本来、そう言った準備などは学校側でするのであるが、各々の部員の書類を集めた
り、連絡をとったりするのはどうしても生徒、つまり連尺をはじめとするマネージャー
達となってしまう。
 普通こういう時、生徒側は指示を待つだけになるのだが、学校側とて慣れているわけ
でなく、どうしても不手際な部分が出てしまう。
 それを感じとった連尺は、実質的な事務処理まで一括して受け持ってしまった。
 異例と言うべきか、前代未聞と言うべきか、ともかく生徒主導という形で準備が進ん
だのだが、結果的に事務処理の能率があがり、誰もが連尺の能力に舌を巻いたものだっ
た。同時に、連尺がいなかったらどうなってたかと思わずにはいられなかった。
 連尺のそう言う能力の高さを前々から感じていたテニス部員は、今回の事にさらにそ
の思いを深くした。いや、それはむしろ畏怖に近いものがあった。
 詩織とて例外ではない。
 そして、賞賛に値するものだという事も疑う余地はない。
 だが、それを言っても連尺は喜ばないという事が判っていた。彼女にとってはこれは
しなければならない事であり、当たり前の事なのである。
 詩織にはそれが判るので、必要以上のことは口にしなかった。
 そして、あえて、少しばかりくだけた口調で、連尺の耳元で囁く。
「ところで、 ・・・将くんとは別のバスになっちゃったけど、いいの?」
 いきなりの話題の変化に、連尺は困惑したような表情になってしまった。
「あ、あの、なんと言うか・・・ 、先輩?」
 その困惑の表情を見て、詩織は笑顔で言葉を続けた。
「そうよね。みゆきさんがそんな事をするはずがないわよね」
 連尺は表情の選択に窮した。だが、詩織が言った言葉に、さして意味や結論を求めて
いるのではないと判断し、詩織と同じような笑顔に変わった。
「キャプテンとサブキャプテンが同じバスだと問題がありますから」
 そう答えた連尺、それを黙って聞く詩織。
 含みのある会話を交わす二人の間に一種独特の空気が流れ、まわりの者が不思議そう
な表情を浮かべる。
 その空気を乗せたまま、バスはきらめき高校を出発していった。



 その話題に上った将はというと、バスの窓際に座り、流れる景色を眺めていた。
 その将の通路をはさんだ隣の席に四本松が座っていた。その四本松に苦笑いを浮かべ
ながら松島が言った。
「姉さん、姉さん。キャプテンがあれ程言ったのに、1年生、遊びに行くつもりでいる
よ。
 インターハイと言ったって合宿に行くんだから、試合に出ない選手には”地獄の”練
習メニューが待っているとも知らないで」
 それに対して四本松は何も答えず、ただ小刻みに首を振り、笑みを浮かべるだけだっ
た。
「 ・・・姉さん?」
 いつもと違う四本松の様子に、松島は、まるで助けを求めるように顔を将の方に向け
る。
 だが、その将とて集中力を欠いたように、ただ外を見ているだけだった。
 あまりにも普段と違う二人の空気に、松島は困ったように髪をかき上げながら思わず
にはいられなかった。
(うーーん。こんなんで大丈夫なのかなあ?)
 そんな、普段と違う空気をそれぞれのバスに乗せながら、きらめき高校テニス部は、
インターハイの開催地へと向かって行った。



   ときめく時の中で(193)

  夏の日々(13)



 テニス部の宿舎は、湖のほとりに建てられており、いかにもリゾート用と言うべき雰
囲気があった。
 一年生の中には、半ばバカンス気分の者もいたのだが、そこに待っていたのは、その
気分を吹き飛ばすには十分な練習メニューだった。
 試合にでる者を除き、そのメニューは初日から中身の濃いものになっていた。
 その初日の練習が終わり、部屋に戻った明は、疲れ果てたようにベッドに倒れ込みな
がら、ツインルームの同部屋となっていた西島に、その疲れがはっきりと伝わる声で聞
いた。
「西島先輩」
「ん? なんだ鏡?」
「先輩も、去年の合宿でこんな練習やったんですか?」 
「あ? ああ、やったよ。
 きついか?」
「正直言ってきついです。こんなに濃いメニューだとは思わなかったから・・・ 」
「はははは」
 屈託のない笑い声を上げる西島に、明はさらに言った。
「中味は確かに濃いけど、時間そのものは少ないし、終わる間際まではなんとか乗りき
れるかな? と思うんだけど・・・ 」
「終わったとたんにがっくり来るだろ?」
「はい」
「そうだろうな。俺も去年はそうだった。いや、今年もそうだな」
「先輩もそうなんですか?」
「当たり前だろ。各々にあわせてメニュー組むんだから、俺だってへとへとだよ」
 苦笑いを浮かべ、西島がそう言うと納得したようにうなずいた。
「僕、思うんです。連尺キャプテンってすごい人ですね」
 明の実感のこもった声にも西島は平然と答える。 
「なんだ、今ごろ気が付いたのか? あの人はすごい人なんだよ。どうしても吉野先輩
や四本松先輩に目が向いてしまうけど、俺達はものすごい人をキャプテンに据えてるん
だぜ」
「 ・・・そう思います。少し怖いですけどね」
 表情の選択に困り、苦笑いを浮かべるしかなくなった明は、その表情を隠そうとベッ
ドに顔を埋める。
「ははは、いいんだって。1年生には怖いキャプテンだよ。俺達2年生だって怖い時が
あるからな。
 まあ、俺もキャプテンにはしょっちゅう怒られてるから、俺自身も恐いってのあるけ
どね」
 西島の言葉が明には意外だった。
「先輩が? キャプテンに?」
「ああ、キャプテンは部員の前では絶対に怒らないけど、班長の中では俺が一番怒られ
てるんじゃないかな?
 実際、自分のミスや不手際を注意されるんだから、一言も返せないし。
 ま、きらめき高校で1番苦手な人だな」
「西島先輩でもそうですか?」
「それってどういう意味だよ?」
「あ! いや、その・・・ 」
 口ごもる明に西島が笑いながら続ける。
「まあ、それはいいけどね。
 キャプテンになる前は、そんなじゃなかったんだけど・・・ 」
「やっぱり、責任感からでしょうか?」
「そうかもな。なんせ、いかにも真面目そうじゃない? あの人って」
「そうですね」
「それで、どうしても厳しくなっちゃうんだろうね」
「でも、優しいところありますよ。僕、前に気分悪くしたことありましたよね?
 あの時、ずっと側にいてくれたんですよ。その時の雰囲気と言うか空気みたいなのが
すごく優しかったんですよ」
「ああ、あの時ね」
「なんか、うちのお姉ちゃ・・・ 姉に雰囲気が似てたんですよ」
 そう言われると、西島は顔をしかめた。
 明の姉、魅羅のことは西島とて知っている。明が1年生のとき魅羅は3年生であり、
その名と美しい容姿の事は、充分、流れ伝わってきていた。
(もっとも、西島にとってはそれほど興味の向く対象ではなかったのだが・・・)
 だが、その魅羅と連尺が似ているとはとても思えなかったのである。
「お姉さんって、あの鏡魅羅さんだろ? 似てるか?」
「その、なんて言ったらいいのか・・・ 、雰囲気とかがなんとなく、優しくて、そういう
部分が似ているとしか言えないんですけど・・・ 」
「ふーーん、そうか。それで、キャプテンのそういう部分にコロっといったわけか?」
 冷やかすような西島の口調に明は顔を真っ赤に染める。
「ち、違いますよ。そんなんじゃありませんよ!!」
「でも、顔は違わないって言ってるぞ」
「う・・・」
 絶句する明を見て、西島が一旦声を上げて笑った後、表情を引き締める。
「別に悪いとは言わないよ。だけど、大変だぞ、あの人は」
「やっぱり、吉野先輩ですか?」
 明の質問に、西島が意外そうな表情になる。
「なんだ、知ってるのか?」
「いえ、単なる噂の段階ですから・・・ 本当なんですか?」
「いや、俺もあくまでも想像だけどね」
「でも、四本松先輩とはどうなってるんでしょうか? 
 そもそも、吉野先輩って、そういう事、はっきりしないじゃないですか?
 一体どうなってるのかって、1年生の部員の間ではよく話に上るんですよ」
 西島は小さなため息をついた後、明に向き直る。
「俺はあんまり噂話って好きじゃないんだけど、これだけは言えるな。
 そう言うのってのは、それほど簡単なもんじゃないんだよ。
 あの人にも色々あってな」
 西島のいう色々というのが何なのか、明には想像が付かなかった。
 自分が入学する前の出来事だというのは判る。
 ひょっとしたら、詩織と何かあったのかも知れないとまでは考えることは出来た。
 詩織と将、そしてそれを取り囲む雰囲気に感じる物がある明には、ある程度筋が通っ
たものだったがだったが、あくまでも想像の域を出ない。
 考え込む明に西島が言った。
「まあ、ともかく、今は明日からの本番に備えようぜ。応援するのも立派な経験だから
な」
「はい」
 釈然としない物を抱えながらも、肉体的な疲れによって、さほどの時間を要すること
なく、明は深い眠りに落ちていった。



 その翌日からインターハイの試合が始まった。
 各種目で熱戦が繰り広げられる中、きらめき高校テニス部も出場種目、江ノ島、福島
ペアの男子ダブルス、松島、四本松ペアのミックスダブルス、そして将の男子シングル
ス全てで初戦を迎え、全てで勝利していた。
 テニスのトーナメントはハードスケジュールである。
 一日一試合、連日にわたって試合が行われる。勝ち進むためには、6試合、もしくは
7試合を勝ち抜かなければならないのである。
 まずは一勝したものの先は長い。
 試合は午前中に終わったため、将は宿舎に戻った後、軽く汗を流す。
 そして、シャワーを浴び、宿舎のロビーで次の対戦相手の情報をマネージャーの一人
から聞いた。
 これは公式戦の時も大体行われる事なのだが、この時、他の部員が共通して思ってい
た事がある。それは
「将の様子がおかしい」
 という事である。
 もちろん、試合の時や練習の時、他の公式の場などでは集中した今までの将の姿を見
ることが出来るのだが、時々、集中力を欠いたような表情になることがあった。
 いわゆる「ぼーっとした状態」である。
 だが、誰も詳しいことを聞くことは出来なかった。
 連尺や四本松でさえ、である。
 
 対戦相手のデータを一通り見終わったのは、日も沈んで夕闇が訪れる頃だった。
 その時、連尺が将に来客を告げた。
 その来客は、意外と言えば意外な人物だった。
「和人、 ・・・それに姉さん」
 将の前には和人と古式が立っていた。



   ときめく時の中で(194)

  夏の日々(14)



 和人と古式が目の前に現われたという事がどういう事なのか、将は理解するのに相当
な労力を要した。
 だが、結局は理解しきれず、聞くことになってしまう。
「和人、それに姉さんまで。どうして、ここに?」
 和人と古式は顔を見合わせ、声のない会話を交わした後、和人が口を開いた。
「ちょっと、外、行かないか?」
「え? 今からか?」
「ああ」
 将は、躊躇したような表情をしながら振り向いた。そこには連尺が立っていた。
「いいでしょう。外出許可します。ただし、この宿舎の敷地内に限ります。
 行ってらっしゃい」
 にっこりと笑った連尺に見送られ将と和人は、宿舎の外に出た。
 見送る連尺のさらに後方、四本松がロビーの柱に背中を預け、同じく将の背中を見送
っていた。
 将と和人の姿が見えなくなると、四本松は小さくため息を漏らした。
「結局、頼りは和人くん、か」
 うつむき、そうつぶやいた四本松に、松島がためらいがちに声をかける。
「 ・・・姉さん・・・ 」
 その声に振り向いた四本松は、心配そうな松島の表情に笑顔で答える。
「もう、なんて顔してるのよ、悟くん?」
「だって、姉さん、なんだか暗い顔してるから」
「そうかしら? 悟くんの方こそ、鏡を見てご覧なさい。」
「え?」
 意外な反論に驚いた松島に、四本松が微笑む。
「悟くんは心配してくれたんだよね。ありがとう。
 でも大丈夫よ。今は明日の試合のことを考えましょう」
「 ・・・は、はい」
 釈然としないものの、松島はうなずくしかなかった。



「いい所だな、ここ」
 湖畔を歩きながら、和人が横にいる将に言った。 
「え? ああ、インターハイがなければちょっとしたリゾート気分だな」
 そう言って将は立ち止まり、昇り始めた満月が水面に映る湖に顔を向けた。
 和人も立ち止まり同じく顔を湖面に向ける。
 将が笑いながら静かに言った。
「で、なんだ? 一体どうしたんだって言うんだ? こんな突然に、しかも古式の姉さ
んと」
 和人は一旦将に視線を向けたが、すぐに足元の小石を拾い、湖面に投げ入れた。
 水面に広がる同心円を眺めながら、和人が答える。
「連尺さんから電話があってな」
「連尺から?」
 思わぬ返事に将は思わず首をかしげ、険しい表情で和人に聞いた。
「連尺がなんて言ったんだ?」
 和人はそれを抑えるように片手を上げて答える。
「そういきり立つなって。まあ、落ちつけよ」
 そう言われても、将には納得がいかなかった。どうして連尺が和人に連絡をとったの
か? その流れが全く見えてこないのである。
「だって、和人に頼むなんて。連尺らしくないやり方だから・・・ 。」
「ああ、それは彼女も言ってた。”こんなことを頼むのは筋違いだと思うけど”って」
「連尺、何を言ったんだ?」
「別に難しいことじゃないさ。ちょっとでいいから、顔を出してくれないかって。それ
だけ」
「?」
 不思議そうな表情の将に、和人は続ける。
「もっとも、それだけで彼女が何を言いたいのか判ったけどな。
 だから、即、OKしたのさ。
 ただ、問題はどうやってここに来るかって事だったんだけど、連尺さんはそこまで考
えていて、古式さんにすでに連絡済みだったんだよ。
 それで、古式さんの車に乗せてきてもらった。と言うわけさ」
「そうか、それで姉さんが・・・ 」
「いやあ、古式さんの運転はあれだな。意外と言うかなんと言うか・・・ 、だな」
 苦笑いでそう言った和人に、将も苦笑いで答える。
「そうだろうな。姉さんはあれでなかなか、スピード感覚が・・・ 、だからな」
 二人はしばらく声を出さずに笑っていたが、和人が表情を引き締め言った。
「で、ここからが本題なんだがな」
「ああ、だいたい判るよ。すまんな、心配かけちゃって。
 お前だけじゃなくて、他のみんなにも迷惑かけてしまったみたいだし、悪いとは思っ
てるよ。
 悟られないようにして来たつもりだったんだけどな」
「それだけ、みんな、お前のことを気にかけているってことだよ。
 ありがたいと思わなきゃ」
「ああ、そう思うよ。それは判ってるんだけど」
「そうそう、人に言える事じゃないんだろ?
 テニス部のサブキャプテンと言う立場上」
「ああ、 ・・・実はな、和人・・・ 」
「だいたい判ってるつもりだけどな。お前が考えてる事って、インターハイの事じゃな
いだろ?」
「!? 良く判るな?」
「何年一緒につるんで来たと思ってるんだよ? やっぱり連尺さんが俺に言ってきた
のは正解だったな」
 納得したようにうなずく和人に、将は首を振る。
「何を自画自賛してるんだか? 
  ・・・でも、その通りだよ。俺が最近考えるのはインターハイの事だけじゃない。
 もっと先の事だよ。これはテニス部の誰にも話せることじゃないんだ」
「先の事?」
 和人は無意識のうちに聞き返していた。



 将と和人の二人の様子を、遠くから見ている者がいた。
 それは詩織だった。3階の彼女の部屋から二人を見下ろすことが出来たのである。
 もちろん、声など聞こえるはずもなく、細かな仕種さえ判別つかない。
 それでも、見られずにはいられなかったのである。
 窓際の椅子に座り、詩織は動きを止めていた。
「心配ですか?」
 この部屋にはもう一人の人物がいた。傍らのベッドに腰を下ろした古式である。
 将と和人が宿舎を出ていった後、古式は詩織の部屋を訪ねていた。事の次第を詩織に
話している時、偶然外を見た詩織は、二人の姿を見つけてしまったのである。
 古式の話にも、まさに上の空で、なおかつ複雑な表情を浮かべ、窓の外を見つめる詩
織に古式は気が付いたのである。
「あ、ごめんなさい。ぼうっとしちゃって」
「いいんですよ。将くんの事が、気になるんですね?」
 高校時代となんら変わらぬ笑顔を浮かべる古式だが、詩織はその言葉に、自分を責め
るような成分が含まれているような気がしてしまった。
「ごめんなさい」
「どうして、謝るのですか?」
「どうしてって、・・・ ゆかりさんに迷惑をかけてしまったから・・・ 」
「? なぜですか? 私は、迷惑などとは、思っておりませんが?」
 人指し指を顎に当てて、首を傾げる古式に詩織は言った。
「だって、わざわざ遠くまで来させてしまって・・・ 」
「いいんですよ。私が、来たかったから、来たのです。
 現キャプテンの、みゆきさんに、助けを、求められたのです。テニス部OGとして
は、特別な事ではない、と思いますが?」
「それはそうだけど、でも、私が、もっとしっかりしていれば・・・ 」
「詩織さん」
「?」
 それは古式にしては強めの口調だった。詩織の表情に疑問の色が浮かぶ。
「詩織さんの、悪い癖ですね。なんでも、自分に、責任があるように、考えてしまうの
は、高校の時から、変わりませんね」
「でも、だって・・・ 」
 歯切れの悪い詩織に、古式が微笑みを取り戻して言う。
「まだ、詩織さんも将くんの事が好きなんですね?」
「!?」
 あっさりと古式は言ったのだが、それは詩織の動きを止めるには十分な内容だった。



   ときめく時の中で(195)

  夏の日々(15)



 「将のことがまだ好きだ」
 古式にそう言われた時の詩織は、驚くというより、呆気に取られてしまったという方
が正しかった。
 目の焦点が合わないまま、まぶたを激しく上下させ、口をぽかんと開けていた。それ
は、詩織を相当知っている人間でも、滅多に見た事がない姿だった。
「ゆかりさん・・・ 」
 やっとの事でそう言ったが、それはどちらかと言うとうわごとに近い雰囲気の言葉だ
った。
 自分の言葉に驚いたように、詩織はハッと我に返る。
 激しく首を振り、ようやくいつもの彼女の物腰に戻った。
「ゆかりさん・・・ 、何を言い出すの・・・ 」
 そこまで言って、詩織は再び、今度はゆっくりと首を振る。
 そしてにこやかに微笑んだ。
「そうね。ゆかりさんの言う通りだと思うわ。
 ただ、男の子としてじゃなくて、人間として、とても好意を抱いていると言うべきな
のかな? 判ってもらえるかしら?」
 詩織の問いかけに、古式も微笑みながら、ゆっくりとうなずく。
「はい、詩織さんのおっしゃりたい事は、なんとなく判ります」
 古式のその言葉に納得したようにうなずきながら、詩織はゆっくりと立ち上がり、窓
ガラスに右手を当てた。
「逆接的な言い方になるけれど、私、将くんがいなかったら、将くんと巡り会わなけれ
ば、トシくん・・・ 、人思くんと恋人という関係にはなれなかったと思うの。
 ただの幼馴染みなんだって思い込み、人思くんに対して素直になれない自分に気が付
かないまま、高校生活を送ってしまうところだった。
 将くんに出会って、人を好きになるという事の大切さや楽しさ、同時に覚える辛さや
悲しみを知った」
 そこまで言った詩織は、まるでそこに痛みを覚えたかのように胸に右手を当てた。
「苦しい思いもしたし、傷付けあうこともあった。でも、それ以上にかけがえのない経
験だったわ。
 今、この時までに、人思くん、将くん、そして私にはそれぞれにいくつもの選択肢が
あった。
 それが違っていれば、今、もっと違う間柄になっていたはず。
 でも、誰も後戻りは出来ない。あの時ああしておけばと思う事は、今の自分を否定す
る事になるわ。
 私は幸せにならなければいけないの。人思くんのためにも、私自身のためにも、そし
て、私が苦しい思いをしていた時に、自分のことより、私の事を思って背中を押してく
れた将くんのためにも、私は幸せにならなければならないの」
「詩織さん」
 何か言おうとした古式を、詩織は振り向き、視線でその声をさえぎった。
「判ってるわ。決して義務感なんかじゃないの。言葉にしてしまうとそうなってしまう
んだけど、義務感でそう思っているわけじゃないの。
 ただね、私は将くんの想いに甘えるばかりで、将くんのその想いには答えてあげるこ
とは出来ない。
 それは出来ないの」
 窓ガラスに左の拳を当て、それに額を付ける詩織の姿に、古式は立ち上がり、静かに
詩織の横に立った。
「だから、将くんの、そして、テニス部のコーチを、引き受けたのですね?」
 古式の質問に、詩織は首を少し傾けながら答える。
「それだけじゃないんだけど、確かにそう言うの、あったわ。
 それが、将くんには迷惑なだけかもしれないし、単なる自己満足なのかも知れない。
 でも、私はこうせずにはいられなかったのよ。
 なんでもいい、何か将くんの力になりたかったの。
  ・・・だめね、私」
「そんな事、ありませんよ。
 それは私も、同じ物がありますから」
 その言葉に、詩織は顔を古式の方に向けた。
「それでいいんですよ。何かをしてあげたい、何かの役に立ちたい、と思うことは、自
然な感情だと、私は思います」
「そう言ってくれると、救われるな」
「詩織さんの存在は、将くんにとっても、テニス部の誰にとっても、大切なものです
よ。
 ただ、今は・・・ 」
「領家くんにまかせよう?」
「ええ、そうです。それが、いいと思います」
 詩織はうなずき、窓の外を見た。古式もそれにならう。
 二人の視線の先に、将と和人の姿があった。



「もっと先の事?」
 将の言った意味を和人はしばらく考え込んでいた。
 二人はしばらくの間、何も言わないでいたが、やがて和人が何事か結論に達したよう
にうなずいた。
「なんとなくだけど、お前の言いたい事、判るような気がする。
 つまり、インターハイが終わった後、自分がどこに行くのか?
 将が言いたい事って、そういう事じゃないのか?」
 将はゆっくりとうなずいた。
「そう、インターハイが終わった後、俺はどこに行くんだろう?
 それがどうにも見えてこないんだ」
「その先、か・・・ 」
「2年前のあの日、詩織先輩に出会ってから、今までテニスに集中してきた。
 それは正直言って、詩織先輩を追い掛けることだった。
 追い掛けるものが途中からインターハイになったけど、それはそれで良かった。
 だけど・・・」
「そのインターハイが近づいてきたら?」
 和人の問いかけに、将はうなずく。
「そうなんだ。だけど、それが終わったら俺はどこに行くんだろう? そう考えるよう
になってしまったんだ。
 まだ、インターハイが終わってもいないのに、こんなことを言い出したらみんなに
動揺をあたえるだけだ。口にできるはずがない。
 俺自身も、今は当面のインターハイに集中しなくちゃいけないことは判っているんだ
けど、ふとした時、考え込んでしまう事があるんだ」
 和人は、将の言葉に納得したようにうなずいいてから、両手を頭の後ろで組んだ。
「なるほどね。そういう事だったのか」
 そう言って少し視線を下げ、ためらいがちに言った。
「残念ながら、どう答えていいか判らない問題だな。それは俺にも他人事じゃないから
なぁ」
「いいんだよ。聞いてくれただけで、ずいぶん気が楽になったから、それだけで充分だ
よ。
 和人が来てくれて助かったよ」
「まあな。前々から気になってたから、俺も来てよかったよ」
 そして二人は、まるで申し合わせてでもいたかのように、同時に笑い出した。
 その笑い声が収まり、将が言った。
「ところで、今日はこれからどうするつもりだ?
 泊まるところの当てはあるのか?」
 将の心配は、ある意味もっともではある。
 なにしろ、インターハイ期間中、このあたりの宿泊施設は慢性的に不足しているのだ
から。
 そんな将に、和人は笑って答える。
「いやあ、連尺さんがそれも手配してくれてあるんだ。ここの空いてる部屋を用意して
くれてあるんだよ」
「な、なんだそりゃ? それって姉さんもか?」
「ああ、関係者ってことで、抑えちゃったそうだ。もちろん別の部屋だぞ」
「当たり前だろ。そんな事、姉さんのお父さんに知れてみろ、ただじゃすまないぞ」
「そんなすごいのか? 古式さんのおやじさんて?」
「まあな。
 しかし、それにしても連尺もすごいな。よくそんな事できたなぁ」
 将は感心半分、驚きが半分と言った口調でそう言った。和人がそれに答える。
「事務処理を一手に引き受けているから出来た、まあ、荒技だな。
 ちなみに、テニス部が勝ち進んでいる間は、俺も古式さんも帰らないでここにいられ
るんだよ。ま、コーチって名目だから、途中で帰られると、かえってまずいと言うこと
だ。
 なかなか、あの人もやるもんだな」
「結構、ワルだろ?」
「そりゃ言い過ぎだ」
 と答えつつも、和人は苦笑いを浮かべ、将もつられて笑った。
 だが、将がその笑いを収める。
「それじゃあ、テニスの公式日程が全て終わるまで、和人も姉さんも帰れないな」
「将?」
「だって、俺、勝つから」
 そう言って将は微笑んだ。
 和人には、それが自信や決意などではなく、将にとって、それはすでに確定された
事実になっているような気がした。



   ときめく時の中で(196)

  夏の日々(16)



「なんで和人がここにいるのよ?」
「あのなあ早乙女、それは俺のせりふだ」
 インターハイのテニス会場で、和人は優美とばったりと出くわした。
 正確に言うと、将の応援についてきた和人を優美が見つけたのである。
 優美の方とて、バスケット部の10人以上の部員と来ていた。
「優美達は将くんの応援に来たのよ」
「俺は、まあ、お目付け役だな」
「何よ? それは?」
「ま、いいじゃないか。そんな事は・・・ 。
 早乙女の方こそ・・・ 、ああ、そうか、なんて言ったらいいのかな? 
 こんな時には?・・・ 」
 和人は彼にしては珍しく、口ごもってしまった。和人の心情を察した優美が、恐らく
彼女にしか出来ないであろう、屈託のない爽やかな笑顔を浮かべて答える。
「なによう、和人ったら。いつもの調子で言いたい事を言えばいいのに」
 優美の笑顔に多少気圧されした和人だったが、優美の言う通り、普段の口調に戻って
言った。その口元にはその口調にあった、ややひねくれた笑みが浮かんでいた。
「いやあ、早乙女だけだったら、情け容赦のない言葉を浴びせるんだが、まあ、その状
況じゃあな」
 和人の言葉に、優美は肩ごしに後ろを見る。そこには一緒に来た、他のバスケット部
員達がいた。
 優美は和人に向き直り、堂々とした表情で答える。
「大丈夫だよ。優美達、精一杯やったもん。全力を尽くしたから悔いはないよ」
 和人は納得したような表情で、本当に小さく顎を上下させた。
「そうか。それならいいんだ」
「優美達、明日帰るんだけど、せめて将くんの応援にぐらいは来たいと思ったんだ。
 後、残ってるのは、将くんとサッカー部だけだもんね」
「ああ、そうだな」


 全国各地の代表が集まり、激戦が繰り広げられてきたインターハイも、終盤を迎えて
いた。
 そして、基本的に各種目に勝者は一人、もしくは一チームしかいない。
 競技が進むということは、また同時に敗者を産むということだった。
 きらめき高校も各種目で善戦したが、力及ばず敗れた種目があった。優美達女子バス
ケット部は、惜しくも準決勝で敗れベスト4となっていた。男子バスケット部はベスト
16まで進んだところで敗退した。
 水泳部は好成績を収めたものの、優勝には及ばなかった。サッカー部は驚異的な粘り
を発揮して優勝候補を次々と撃破して勝ち進み、翌日に決勝戦を控えていた。
 そしてテニス部である。
 福島、江ノ島ペアの男子ダブルスは3回戦まで進んだが、そこで優勝候補に敗れ敗退
していた。
 四本松、松島ペアのミックスダブルスは昨日の準決勝まで進んだが、フルセットの熱
戦の末、敗れた。
 残るは将のみである。
 将は勝ち進んでいた。それはまさに鬼神の闘いぶりと言ってもいい物だった。
 ある時は激しく、またある時は優れた技巧を駆使し、相手を寄せ付けない戦いで決勝
に名のりを上げていた。
 今日は、その男子シングルスの決勝戦が行われるのである。

「あっ、優ちゃんだ! 優ちゃん!」
 和人と話していた優美だったが、その後方を松島と歩く四本松の姿を見つけ、その名
を呼んだ。
「あれ?」
 だが、四本松の返事はなかった。
(聞こえなかったのかな?)
 優美、そして肩ごしに四本松の方を見ていた和人はそう思った。
 だが、その脇にいた松島が優美の声に反応して、四本松の肩を叩いて何事か言ったと
ころを見ると、声は届いているはずである。
(?)
 優美はそう思った。彼女には四本松の今の物腰が不思議に思えてならなかった。
「ねえ和人。 優ちゃん、どうかしたの? 
 なんか様子がおかしいけど・・・ 」
 優美は和人に近づき、小声で聞いた。
「え? ああ、四本松、昨日負けたばかりだからな。まだ、それが残ってるんだろう
な、きっと」
 だが、優美には納得がいかなかった。
「そうかな? 優ちゃんて、そういう立ち直りは早いと思ったんだけどな」
 優美にそう言われ、和人が答える。
「実は、どうもインターハイに入る前から、どこか調子が悪かったらしいんだ。
 原因は・・・ 」
「原因は?」
「一言でいうと自信喪失という事になるのかな?」
「ええ!? 何よ、それ? なんでそうなるの?」
「詳しくは判らないんだ。四本松は何も言わないし、ペアの2年生の言葉によると、そ
ういう事になるって話なんだ」
「インターハイのベスト4なんだよ。それでも駄目なのかなあ?」
「どうもそういうのだけではないらしいんだ。これはなぁ、本人が言ってくれないと、
どうしていいか判らないからなあ」
「そうだよねえ」
 和人と優美は考え込んでしまっていたが、試合の時間が迫ってきたため、とりあえず
観客席に向かうことにした。



 松島は困っていた。観客席に向かう途中、四本松に話しかけていたのだが、うわの空で答えているようで、どうにも手ごたえがなかったのだ。
(一体どうしたっていうんだ? 本当に気が抜けたみたいになっちゃってる)
 そんな事を考えていた松島を呼ぶ声があった。
「松島くん!」
「あれ? 虹野さん、どうしたんですか、どうしてここに?」
 松島の疑問はもっともだった。こんなところに虹野がいるとは想像もしていなかった
のだから。
「サッカー部の応援よ。決勝に進出したんだもん。応援しなくっちゃね」
「ああ、そういう事ですか。でも、なんでここに?」
「決勝戦は明日なんだけど、ちょうどホテルが取れたから、一日早く来ちゃったの。
 そうしたら、テニスの決勝があるって聞いたの。やっぱり母校の応援はしなくっちゃ
って思ったのよ」
「そうですか。そういう事なら、ぜひ応援してください」
 そんな会話を虹野と松島がしていると、四本松がそっと言った。
「じゃあ、私、先に行くね」
「あ! ちょ、ちょっと、姉さん!」
 そう言って松島は後を追うような素振りを見せたが、その場にとどまってしまった。
「いいの? 行かなくて?」
 虹野の心配そうな声に松島は答える。
「本当はそうしたいんですが、正直言って、どうしたらいいのか判らないんです。
 姉さん、先輩が何を考えてるのか、ぜんぜん判らなくって・・・ 」
「スランプとは違うのね? もう公式戦はないんだし」
「え? ええ、そういうのとは違う感じです。それに、僕はもう先輩のペアでなくなっ
てしまうから、これ以上何か言っていいのかどうかも悩んじゃうところなんです。
 どうしたらいいのか?」
 ため息と共に漏れた松島の言葉に対して、虹野が優しい口調で言った。
「それでも、大切な先輩なんでしょ?」
「は、はい」
「だったら、迷うことないじゃない。励ましてあげなくちゃ。ね?」
「 ・・・そうか、そうですよね」
「私に何かできることがあるなら、力になるから、がんばろ」
「え? でも、いいんですか?」
「うん。松島くんには日頃お世話になってるし、せめて出来ることぐらいはね」
 小首をかしげてそう言った虹野に、松島は顔を赤らめながら答えた。
「は、はい。お願いします」
「はい、いいですよ。
 あ、そろそろ時間だよ。行かないと」
「はい、そうですね」
 松島がうなずき答え、二人は観客席へと向かった。



   ときめく時の中で(197)

  夏の日々(17)



「なんだかOB会みたいな感じ」
 本郷は思わずそう言った。
 インターハイ、テニス男子シングルスの決勝戦、将を応援する観客席には、在校生に
混じり多数のテニス部OBがいた。
 本郷の右前の席にいた西島が、肩ごしに後ろを振り向きながら、横に座る福島に聞い
た。
「なあ、フク。元城先輩の後ろで藤崎先輩と話しているの誰だか知っているか?」
「ん? 僕は知らないなあ。エノくんは?」
「いや、俺も知らないぞ。誰?」
 彼等の後ろ、1、2年生の女子の後ろで立ち話をしている詩織と、一組の男女に視線
を向けた。
 それは1昨年の卒業生、中沢と佐鳴だった。
「中沢先輩、琴美先輩、お久しぶりです」
「本当に久しぶりだよな。みんな元気か?」
「はい」
「それにしても、詩織がコーチとはね。聞いた時には驚いたけど、実際に見てみると、
なかなかはまってるわね」
「そうですか?」
 詩織はそう言って、無意識のうちに周りの視線を気にかけ、彼等の前に座る1、2年
生部員の視線に気が付いた。
「あ、みんな紹介するね。こちらは中沢健太さんと、佐鳴琴美さん。私の1学年上のテ
ニス部の先輩よ。キャプテン、サブキャプテンだったのよ」
「中沢健太です。よろしくな」
「佐鳴琴美です。はじめまして」
 二人があいさつをすると、1、2年生がそれぞれ答える。
「はじめまして」
「こんにちは」
 その1、2年生の女子部員の中に「素敵な人」と言う声が上がったことを、中沢は聞
き逃さなかった。
 身長176cm、明るい栗色の髪をポニーテールにまとめ、爽やかな笑顔を浮かべる佐
鳴は、在校時の頃から、同性の、特に年下から慕われることが多かった。
 それを知る中沢は佐鳴に小声で囁いた。
「おい琴美。かわいい後輩達を毒牙にかけるんじゃないぞ」
「な、何を言ってるのよ! バカねえ!」
 佐鳴の慌てぶりに、笑いを押し殺しながら詩織が聞いた。
「ところで、有玉先輩と、淳子先輩はやっぱり来られないんですか?」
 中沢と佐鳴は、苦笑いを浮かべながら顔を見合わせる。そして中沢が答える。
「いやぁ、いろいろと事情があってな。
 そもそも栄の奴、”勝ちが決ってる勝負ほど、つまらない物はない”とか言うんだ。
 あいつらしいと言うか、なんと言うか」
 それに佐鳴が続く。
「そうなると淳子も、ね」
 詩織は笑いかけたが、その言葉の内容に表情を強ばらせる。そんな表情を見た中沢が
笑いながら言った。
「まあ、そういう事だ。俺達はそういう結果しか見えてないのさ」
「先輩・・・ 」
 詩織は戸惑った。
 詩織は将のそばにいる人間である。 将の力を信じてはいる。だが、そばにいるだけ
に客観的な判断というのが付きにくい。
 そんな点から、どうしても不安が芽生えてしまう。
 端から見ればそう見えるのであろうか? と詩織は心強く思うのだった。
 だが同時に、それだけ将に課せられた物の大きさを、詩織は感じずにはいられなかっ
た。



 確かに下馬評でも、将の優位は動かなかった。
 だが、だからと言って、それが確実な結果をもたらすとは限らない。それが判ってい
るからこそ、不安に襲われている者は少なくなかった。
 そのうちの一人、決して表情には出してはないが、長時間に渡る緊張に、手のひらに
汗をかく者がいた。
 観客席の一番はずれに、一人立つ連尺である。
 その緊張感というものは、他の者のとは若干意味が違っていた。
 連尺は、この高校生活によって、自分の生き方を変えられたと言ってもいい。
 そしてそれは、自分が望んだものでもあった。
 それゆえ、自らの全力を今まで注いできた。
 しかし、残念な事だが、きらめき高校テニス部は、他の競技では敗退してしまった。
 残るは将の男子シングルスのみである。
 将が敗れるような事があれば、自分のして来た事、つまりテニス部に課してきた事が
正しかったのかどうか判らなくなってしまう。
 もちろん、成績だけが全てではないはずである。
 だが、連尺にはそれは重要なことだった。
 彼女がそこまでこだわるのは、責任感のようなものは大きかった。
 しかし、それ以上に彼女に緊張を強いていたのは、それほど複雑な理由ではなかった
かも知れない。
 それはただ、
(将くん、勝って)
 と言う、素直な感情から沸き起こったものだったのかも知れない。
 
 連尺本人はその感情を表情にしていないつもりでいても、その顔色は青ざめていた。
 その連尺の肩を、軽く叩く手があった。
「ゆかり先輩?」
 連尺が見上げた先に、古式がいつもと変わらぬ笑顔でいた。
「みゆきさんが、してきた事に、間違いはありません。
 今、将くんが、それを証明してくれますよ」
「 ・・・はい。 ・・・はい!」 
 連尺は力強く、2回うなずいた。
 古式も微笑みながらうなずいた。



 コートに将が姿を現した。
 沸き上がる歓声に応え、将は顎を少しだけ上げ、その声の方に視線を向ける。
 そして将は、わずかに、本当にわずかにうなずいた。
 男子シングルスの決勝が始まる。



   ときめく時の中で(198)

  夏の日々(18)



 将はまわりの人々の期待を裏切らなかった。
 いやむしろ、その期待に答えるべく、能力以上の力を発揮したと言ってもいいだろ
う。
 その戦いぶりには誰もが声をなくした。
 将は相手を全く寄せ付けず、一方的に試合を支配していった。


 将の放ったパッシングショットが、相手コートのライン上に落ちた時、観客席は一瞬、静まり返った。
「セットアンドマッチウォンバイ、吉野!」
 審判の声が上がると、そのほんのわずかな静寂は、いとも簡単に破られた。
 インターハイ、テニス男子シングルスを、将が制した瞬間だった。
 だが、観客席の歓喜とは裏腹に、将は軽く右手の拳を固め、腰のあたりまで上げただ
けだった。
 派手なガッツポーズをするわけでもなく、淡々とネットに近づき、対戦相手と握手を
交わした。
 それを見ていた1、2年生部員の中から、ため息混じりの声がもれた。
「やっぱり、吉野先輩ぐらいになると、インターハイで勝っても、それほど嬉しくない
のかなあ?」
「本当に冷静だもんね」
 そんな声での会話の中、詩織は思った。
(将くんはそう見せているのよ。対戦相手の気持ちを考えてね)
 詩織の洞察は正しかった。いや、洞察と言うよりも、将の気持ちがそのまま詩織の心
情でもあったと言うべきだろう。
 勝者がいれば必ず敗者が生まれる。
 四本松に、その敗者の悲しみを見てきた将には、対戦相手のその前で、はしゃぐ気持
ちにはなれない。
 将にはそうあって欲しいと詩織は考えていたし、実際にそうであった。
 将は笑みこそ浮かべてはいたものの、決して派手なポーズをすることもなく、表彰式
が執り行われ、インターハイのテニス競技の全てのスケジュールが終了した。
 雑誌社などの簡単なインタビューなどを終えた将は、コートから出てきたところで、
テニス部員に出迎えられた。
「吉野先輩!」
「サブC。おめでとうございます!」
「将先輩!」
 出迎える声に、将はなんと言えばいいのか判らないといった表情を浮かべた。
「先輩?」
「どうしたんですか?」
 その表情に、他の部員達の表情も曇る。
 その時、詩織が将の肩を軽く叩いた。
「詩織先輩?」
 将の声に詩織はうなずく。
「いいのよ、将くん。もういいのよ」
 詩織のその言葉によって、将はまるで緊張の糸が切れたように、しゃがみ込んでしま
った。
「?」
 周りのものは戸惑うしかなかった。
 だが、それも長くはなかった。
 将の体が小刻みの震え出したかと思うといきなり立ち上がり、普段の将からはとても
想像の出来ない声を発したのである。
 それが歓喜の叫びであり、将が今までそれを我慢してきたのだと悟ったテニス部員の
間に、再び喜びの感情が沸き起こった。
「将先輩ーー!」
 その感情を素直に、真っ先に行動に表したのは本郷だった。
 すでに先ほど流し止まっていたはずの涙が再びあふれ出し、頬を濡らしていた。
 本郷はその涙をぬぐうようなことはせず、そのまま将に飛び付いた。
「先輩! 先輩!」
 それがきっかけだった。
 歓喜の渦はあっという間に広がり、将はもみくちゃにされた。
 手荒な歓迎を一部に含む歓喜の中で、将は言った。
「勝ったんだな? 俺、勝ったんだよな?」
「そうです。先輩は日本一なんですよ!」
 ”日本一”という言葉の響きに戸惑いつつも、将は素直に喜びを表現していた。
 だが、その内に、この歓喜の輪の中にいるべき人物が、一人欠けていることに気が付
いた。
「あ」
 そしてそれは将だけではなく、やがて誰もが気が付くこととなった。



 その人物は、全く別の場所にいた。
 (気分でも悪いのか?)と、そばにいた見ず知らずの人間に思われるほどの、おぼつ
かない足どりで、木陰のベンチに座ったのは連尺だった。
 口元を手で押さえ、その小さな身体が小刻みに震えていた。
 空いていた手も使い、両手で顔を覆うと、幾筋かの水滴がその両手を伝う。
 そして、震えるかすかな声で、そっと言った。
「よかった。 ・・・本当によかった。
 これで、・・・ 悔いはない」
 その声は、今をさかりと鳴くセミの声にかき消されていった。


 だが、そんな彼女を見つけ出した者がいた。
「サブC! いました! こっちです」
 その声はテニス部の一年の女子部員のものだった。もちろんその声に聞き覚えのある
連尺は、慌ててスカートのポケットからハンカチを取りだし、自分の顔をぬぐった。
 ちょうどそこに声がかかった。
「何してるんだよ、連尺? こんなところにキャプテンが一人で」
 連尺は顔を伏せたまま、自分にかけられた質問を聞いていた。
 その声が将のものだということは、連尺には疑いようがなかった。
 視線を上げぬまま、それに答える。
「ご、ごめんなさい。宿舎に帰る準備をしなきゃね」
 それに対して笑いの成分が含まれた声が返ってきた。
「何言ってるんだよ。今、みんなが用があるのは、連尺、お前じゃないか」
「え?」
 思わず顔を上げた連尺の視線の先には、優勝の楯とメダルを持った将が立っており、
その背後には、テニス部員やOB達が並んでいた。
「あ、なに? どうしたの?」
「どうしたのじゃないだろう。みんな連尺にお礼が言いたいんだよ」
 その声が口火となって、複数の声が上がった。
「キャプテンのおかげです」
「ありがとうございました」
「連尺先輩、 ・・・本当にありがとう ・・・ございました」
 中には涙ぐみ、上手く喋ることさえままならなかった者もいたが、その気持ちは充分
伝わった。
「そ、そんな、 ・・・私がした事なんて、 ・・・大したことじゃないわ」
 だが、将はあっさりとそれを否定する。
「何言ってるんだよ。
 きらめき高校史上、最強のテニス部を作り上げたのは、連尺じゃないか。
 連尺がいなかったら、この楯もメダルもなかったさ」
 そう言って、将は楯とメダルを差し出した。
 ためらいがちに、連尺はそれを受け取る。
 しばらく、それらを見つめていたが、ゆっくりと顔を上げた。
 その視界に、にこやかな将の笑顔が入って来た。
「ありがとう、連尺」
 将のその声に、視界が霞んだ。
 それまで必死に我慢していたが、ついに耐えきれず、連尺は大粒の涙を流し始めてし
まった。
「 ・・・ああ、将くん」
 弱々しい声と共に、連尺はゆっくりと将の胸に顔をうずめた。
 その二人のもとに他のテニス部員が駆け寄ったのは、その直後の事だった。



 きらめき高校テニス部のインターハイは終わった。



   ときめく時の中で(199)

  夏の日々(19)



「海だねぇ」
「海ですね」
「・・・海だぜ!」
 ある夏休みの1日、きらめき高校一同は海に来ていた。
 海に向かって走り出す部員達に連尺が注意する。
「みんな! ちゃんと準備体操するのよ!」
「はーい!!」
 そうは答えるものの、その準備体操もかなり簡単に済まされてしまっていた。
「もう、こうなったら聞かないか」
 ぼやく連尺に、横にいた将が言った。
「まあ、大丈夫なんじゃないの? 
 みんなそれなりの自覚をもって行動してるんだし」
「将くんはそう言うけど、これ、一応はクラブ活動の一環なんだからね」
「行こうって言ったのは連尺だぜ」
 やや意地悪そうにそう言った将に、連尺は苦笑いを浮かべる。
「 ・・・意地悪」
 そのままズバリの感想を言った連尺だった。


 インターハイが終わり、合宿最後のミーティングの時、「次のクラブ活動の日に海に
行きましょう」と言ったのは確かに連尺だった。
 それはある程度、「骨休め」と言う意味があったのだが、驚いたことに、ほとんど全
部員が行くと言い出してしまったために、連尺はその準備に煩わされる事となってしま
った。
「余計なこと言わなきゃよかった」
 連尺はそうこぼしたが、その準備を喜々として進めたのだった。
 彼女のその姿を見た誰もが、連尺の肩から重荷のような物がとれたように感じたもの
だった。


「みんな元気だなあ」
 なんとなく荷物番をすることとなってしまった将が、はしゃぐ部員達を見てつぶやい
た。
「もう、何、おじさん臭いこと言ってるかなあ、将くんは」
 その横で、同じく荷物番となった連尺が言った。
 だが、「将くんも泳いでくれば?」とは言わなかった。インターハイの疲れがまだ残
っていることを、連尺はよく知っているからである。
 本来ならば放っておいても人が集まるはずの将がぽつんといるのも、そういう事を他
の部員も判っているからである。
 逆に将が言った。
「連尺のほうこそ泳いでくれば? 荷物の番に二人もいることないだろ?」
 実のところ、それは多少の覚悟を決めていった言葉だった。だが、将の内心にかかわ
らず、連尺はあっさりと答えた。
「そうね。そうしようかな。荷物番よろしくね」
 そう言うが早いか、連尺は着ていたTシャツを脱いで自分のバッグに入れた。
「どう?似合う?」
 連尺はそう言いながら立ち上がり、くるりと一回転した。
「ああ、似合ってるよ」
「そう?」
 黄色をベースにした花がらのワンピースの水着は、確かに連尺に似合っていた。
 ただ、大きく開いたその背中に、将の内心では不安の芽が芽生えた。
 だが、連尺が笑顔で言った言葉に、それはすぐに打ち消された。
「将くん」
「ん?」
「ありがと」
 それだけ言って連尺は走り出していった。
 将は遠くなっていく連尺の背中を見送りながら小さな声で言った。
「連尺、変わったな」
 いつと比べて変わったのか? それは口にはしなかった。
 その時、将の背後から声が掛かった。
「吉野君? 吉野君だよね」
 将は振り向き、その声のほうを見た。
「え? 清川さん?」
「よ、久しぶり」
 そこに立っていたのは、まぎれもない清川だった。その姿は、海には少々似合わない
白色のライディングスーツで、上半身だけを脱いだ形で、袖を腰の辺りで結び、その下
の白いTシャツをあらわにしていた。
 その姿の違和感と、本当に久しぶりだと言う感覚、何よりあまりの突然のことに、将
はしばらく言葉をなくしてしまった。
「あ、あの ・・・今日はどうしたんですか? それにその格好は?」
 やっとの事で言った将の質問に、清川は笑いながら応える。
「どう? 似合うかい?」
 だが、将の答はつれない。
「確かによく似合ってはいますけど、ちょっと、場所的に合わないかな? って感じで
しょうか?」
 そう言われ、清川は辺りを見回す。確かにそう言われると、浜辺にこう言うライディ
ングスーツというのは似合わないような気もする清川だった。
「や、やっぱりそうかな?」
「いや、そうとは限りませんけど、なんとなく」
「うーーん、やっぱりそう思われちゃうかなぁ。
 実はね、今日、あれで来てるんだ」
 そう言って清川が指さした先、砂浜の入り口の所に、黒と銀色のカラーリングが施さ
れたレーサーレプリカのオートバイが停めてあった。
「ひょっとして、あれで来たんですか?」
 驚いた将は、間の抜けた声で清川に聞いた。
「うん。高校卒業したら堂々と乗れるからね。それにこんな日は、車だと渋滞に巻き込
まれちゃうから」
「そうなんですか。
 ところで、本当の話、どうしたんです?」
「え? ああ、今日、練習がお休みだから、連尺にインターハイのお祝いしようと思っ
て昨日電話したんだ。
 そしたら、海に行くって言うから、私も他に行くところがないから来ちゃった訳なん
だ」
「そうなんですか」
 納得したようにうなずいた将に、清川が言った。
「まずは吉野くん、インターハイ優勝おめでとう」
「は、はい。ありがとうございます」
「昨日の電話で連尺が、苦労したかいがあった、もちろん、みんなのおかげだけど、な
により、まず、吉野くんのおかげだって言ってたよ」
「そんな事ないです。連尺がいなかったら、こんな成績は残せませんでした。
 それこそ全て、連尺のおかげですよ」
 照れ笑いを浮かべることもなく、真剣な表情で言った将に清川は笑い出す。
「はははは、そう言うと思ったよ。吉野くんならね。
 でも、それは違うな。二人のどちらが欠けても、出来なかったことなんだよ。
 それと、まわりの環境もね。
 うぬぼれちゃ駄目だけど、もっと自信を持ちなよ。って、これは、昨日、連尺にも言
った事なんだけどね」
 清川の言葉に将は笑顔を浮かべた。
「オリンピック候補の清川さんにそう言われるんなら、俺も、もうちょっと、自信持と
うかな?」
「そうそう、それでいいの。
  ・・・ところでその連尺は?」
「え? ええ、ほら、あっちの方に行きましたよ」
 将が指さした先を見た清川は、安心したような表情となった。
 そこには部員たちの中心になって、はしゃぐ連尺の姿があった。
「なんかインターハイが終わったら、みんな連尺になついちゃったみたいです。
 それまでは怖がっていた一年生まで、急に変わりましたから」
「あれが本来の連尺の姿なんだよ。それまでは相当無理していたんじゃないかなあ?
 でも、連尺は強くなったと思うよ。
 これは吉野くんのおかげだな」
「いいえ、それも違います。連尺は自分の力で強くなったんですよ。
 俺は何にもしていません」
 将の言葉に清川は思った。
(それでも君がいなかったら、ここまでは変わらなかったはずだよ)
 だが、あえてそれは口にはせずに、無言で、連尺がいる方向へ視線を向ける清川だっ
た。
 連尺の明るい声が砂浜に響いた。



   ときめく時の中で(200)

  夏の日々(20)



 清川と将は、バッグなどの荷物に埋もれるように浜辺に腰を下ろし、遠くではしゃぐ
テニス部員たちを眺めていた。
「連尺はもともと、ああいう感じの明るい娘だったんだ。
 今までは電話なんかしてても、なんとなく重い雰囲気だったけど、きのうの電話だと
それを取り戻してた感じだったよ。
 むしろ、なんだか大人になった感じだったな。驚いたよ」
 清川は、心底感心したような表情でうなずいた。それに反して将は、不安げな表情で
聞いた。
「俺達、連尺に無理をさせていたんでしょうか?」
「いや、やっぱり無理というのとは、ちょっと違うと思うな。自分が望んでしてきた事
だと思うからね。
 しかもそれは無駄にならなかった。だから、そんな風に考えなくてもいいんじゃない
かな?」
「 ・・・そうですね」
 将と清川はテニス部員が集まっている方に視線を向けた。


 テニス部員の輪の中心にいた連尺だったが、時折彼女の背中に刺さる視線に気がつい
た。
「ああ、これね。やっぱり気になる? 
 ごめんね、やっぱり気になるよね。これだけ傷跡が大きいと、完全に隠れる水着って
なかなかなくって」
「そ、そんな事はありません!」
 慌てて答える1年生部員に、連尺は笑いながら言った。
「いいのよ、私だって鏡で見たりすると、”うーーん”て思うことあるもん。
  ・・・昔、交通事故でね。そりゃもう凄かったわよ。血が、どばって出て大騒ぎだった
んだから。
 痛みなんかないんだけど、手で触るとべっとりとした感覚があって、真っ赤に染まっ
てたりしてね・・・ 。
 もっと詳しく聞きたい?」
「きゃー! もうやめて下さい。キャプテン!」 
 その内容からしてみれば重い内容の会話なのだが、連尺の明るさからくるものなのだ
ろう、そう言った雰囲気は全くなかった。
 明るい空気の輪が広がり、その中にいた一人の男子部員が、小声で隣の男子部員に言
った。
「なあ、キャプテンって、きれいになったって思わないか?」
「うん、実は俺もそう思っていたところなんだ」
「やっぱりそう思うか・・・ 」
 それは決して彼らだけの感想ではなく、多くの部員がそう思っていたのだった。

 
 ちょうど同じ時、その明るい雰囲気と相対していたのが、四本松と松島だった。
 二人はそこからやや離れた場所にいた。その雰囲気はそれまでの二人を知る者からす
れば全く想像できないほど、重いものだった。
 何も言わず、ただ歩くだけの四本松の後を、松島がこれまた何も言わずに歩いてつい
て行くだけで、そこからは楽しんでいると言う雰囲気は伝わってはこない。
「悟くん、別について来なくてもいいのよ」
 やっと口を開いた四本松だったが、その言葉の内容、口調は松島にとっては決して心
地よいものではなかった。
 だが、松島は気分を害した風ではない口調で答える。
「ついて行ってるわけじゃないですよ。たまたま一緒の方向になってるだけですよ」
「 ・・・それじゃ仕方がないわね」
 あきらめたように四本松は歩いていく。
 口とは裏腹に、やはりその後を追いかけていく松島だった。


 連尺はその光景を遠くから、なんとはなしに見ていた。
「どうしたんですか? キャプテン?」
 不思議そうな表情の1年生部員にそう聞かれ、連尺は首を振った。
「何でもないのよ、ちょっとぼうっとしちゃっただけ」
「そうですか」
 1年生部員が納得したような表情を浮かべると、連尺は(将はどうしているか?)と
荷物のほうに視線を向けた。
 そして将の横にいた人物に、連尺は思わずその名を口にした。
「清川先輩? 本当に来たんだ」
「え?」
「なんですか?」
 周りの部員は慌てた。
 きらめき高校出身で、オリンピック候補でもある清川のことを知らない在校生は少数
派だった。
 どうしたのかと疑問を浮かべる他の部員に、連尺は説明した。
「清川さんは、私の先輩なの。昨日電話で来るようなこと言ってたんだけど、本当に来
たんだ」
 そうなると興味の対象は、一気に清川に向く。
 あっと言う間に清川は(もちろん、側にいた将も)部員達に取り囲まれることとなっ
た」
「清川先輩、こんにちは」
「あ、ああ、こんにちは ・・・なんかすごいな・・・ 」
 連尺と言うより、取り囲まれたことに多少気押されしながら清川が答える。
 そこから先は、他の部員達の清川への質問攻めとなった。
 その光景を、黙って見ていた連尺だったが、ふと気が付いたように将と清川に小声で
言った。
「ちょっと私この場を離れるので、後はよろしくね」
「え?」
「なに? おいおい?」
 二人は慌てたのだが、連尺はヨットパーカーを着込み、取り囲む質問の輪を、すっと
抜け出して行ってしまった。
 連尺には、さっきの四本松と松島の姿が、気になって仕方がなかったのである。
 


 その四本松と松島は、岩場のところに来ていた。
 ついて来たものの、松島は正直言ってどうしていいか判らなかった。四本松は「一人
にしておいていい」とは言うのだが、松島にとっては場所が場所だけにそういう訳には
いかない。
(こんな海のような開放的な場所に、姉さんみたいな人が一人でいたら、ナンパされる
のは目に見えているからな)
 端的に言えばそういう心理だった。
 かと言って何かできるわけでもなく、岩場に座り込み、ぼんやりと海を見ている四本
松の斜め後ろから、同じように海を見るだけの松島だった。
 そんな時だった。不意に肩を叩かれ松島は振り返った。
「マツくん、ニシくん達が捜していたわよ。行ってきなさいよ」
「え? 本当ですか?」
 正直にいえば嘘である。少し申し訳なさそうな連尺の表情に、松島もなんとなく、そ
れを察した。
「はい、すぐ行きます」
 そう言い残し松島が去っていくと、連尺はにっこり笑いながら言った。
「松島くんはあなたを心配してくれてるんだから、あんまり邪険にしなくたっていいん
じゃないの?」
 それに対して、四本松は視線をそらしながら、力のない声で答える。
「判ってるわ」
「そんなに準決勝で負けたのがこたえたのね。将くんに置いてきぼりされたような感じ
なのかな?」
「?!」
 四本松が驚いたような表情で、連尺に顔を向ける。
「そんなに驚かなくてもいいわよ。多分、それは私も経験してきたことだから」
「みゆきが?」
「そうよ」
 力強い連尺の声に、四本松は意外な一面を見たような気がした。
 連尺はさらに続ける。
「例えるなら、優は将くんの横にならんで、一緒に歩こうとした。
 将くんと同じ感覚を共有出来れば、力になれるもんね。
 でも、自分は転んでしまった。シングルスで負けたけど、ダブルスがまだあったから
一時は少し持ち直した。だけど、決勝には行けなかった。
 転んだと言ってもいいでしょ?
 その間に将くんは、どんどん先に歩いてってしまう。
 それで自信が無くなってしまった。
 そんなところでしょ?」
「・・・・・・」
 四本松は声をなくした。その例え方はともかく、言っていることがあまりにも真実を
突いたものだったからだ。
「そんなことで自信をなくすなんて、と思う?」
 やっとのことでそう言った四本松の言葉に、連尺は首を振る。
「人間なんて、ほんのちょっとしたことで、落ち込んでしまうものよ。
 特に普通の人には立ち入れないような領域にいる人には、周りには些細なことのよう
に見えても、それでスランプになることだってあるでしょう。
 まして、将くんのような人が身近にいればなおさらね」
「どうしてそう思うの?」
「だって将くんの事が好きなのは、私も同じだからよ」
 四本松は再び黙り込んでしまった。それはうすうす感じてはいたことだったが、こう
真正面から言われたのは初めてだった。
 そんな四本松に構わず、連尺は続ける。
「あなたが将くんと歩こうと思ったように、私は将くんの後ろから支えようと思った。
 違いはそれだけよ。
 いいじゃない、ちょっとぐらい遅れたって。後ろから応援することだって出来るはず
でしょ?」
「私より頑張っている人に、これ以上頑張ってなんて言えないわよ」
 無意識のうちに、四本松の語気は少しばかり荒くなっていた。
 連尺はわざとらしく首をすくめ、苦笑いのようなものを浮かべた。
「それじゃ、ライバルが一人減ったわけね?」
「え?」
「だって、あなたがそんななら、もう気にしなくても良いわけよ。そんな人に負けるわ
けがないもの。
 あなたが1番のライバルだと思っていたけどね」
 何についてにライバルなのか? 連尺は口にはしなかったが、その意味は充分、四本
松にも伝わっていた。
 だが、今、なぜそれを言い出したのか? 四本松にはつかみかねた。
「 ・・・みゆき?」
「今までは立場上と言うのがあったけど、これからは遠慮しなくていいからよ。
 言っている意味、判るわよね?
 もっとも、あなたがそんな状態なら、余計なことだったかも知れないけどね」
 それは痛烈な”宣戦布告”だった。四本松は、もはや連尺の顔を呆然と見つめるだけ
だった。
 連尺はそれだけ言うと踵を返し、もと来た方向へと歩き出した。が、2歩ほど歩いた
ところで足を止め、肩ごしに振り向いた。
「あ、そうそう。さっき言ったのは取り消し。
 私には、まだまだやるべき事があるのよね。新人戦に備えないといけないし、新体制
に向けての準備もしなきゃならないのよ。
 彼はそういう事の方を重く見ると思うから、まだまだ気は抜けないんだっけ。
 本当の勝負はこれからよね」
 それだけ言うと、連尺はその場から立ち去っていった。
 後に残された四本松は、しばしの間の後、大きなため息を突いてからこう言った。
「まったく、言いたいこと言ってくれたじゃない」
 彼女の瞳には、先程までとは全く違った光を放っていた。



 連尺が歩いていくと、松島が心配そうな表情で立っていた。
「キャプテン」
 その表情そのままの口調で松島が言うと、連尺は微笑みながら、両手で松島の両肩を
叩いた。
「こっから先はマツくんの仕事だぞ。
 正直なところ、憎まれ役は、もう、たくさんなのよ」
 連尺はそう言って、片手を上げながらその場を後にしていった。
「キャプテン・・・ 」
 それを見送って、ただただ茫然としていた松島の所へ、四本松がやって来た。
「悟くん!」
「は、はい!」
「明日からは大変よ。来年に向けての戦いは始まっているんだからね。
 君たちには今年以上の成績が求められるんだから、責任は重大だぞ!」
 四本松はそう言って、右手の親指を立て人先指を突き出す、いわゆるピストルのまね
で、松島を指さした。
 松島はにっこりと笑ってうなずいた。
「はい! 姉さん」



 連尺が戻ってくると、清川が水着に着替えていた。そのまわりを、テニス部員達が取
り囲んでいた。
「清川先輩、やっぱり泳ぐんですか?」
「うん、せっかく来たんだし、軽く泳ごうかな? と思ってね。
 それにみんなも私と泳ぎたいっていうから」
「プールと違うんですから、気をつけてくださいね。
 みんなもあまり無理はいわないでね。先輩にはオリンピックがあるんだから」
「はーーい」
 そう答える声に連尺がうなずくと、清川を中心とした集団は海に向かっていった。
 それを見送って荷物の置いてあるところに向かうと、相も変わらず、将が荷物番をし
ていた。
「なに? 将くん、まだ荷物番なの?」
「そ、そんな怒ったように言わなくたっていいじゃないか。別にこう言うの嫌いじゃな
いし」
 苦笑いを浮かべながら首を振り、連尺が言った。
「私が代わるから、ちょっとでいいから泳いでくれば?」
「連尺一人で、こんなところに置いていけるか」
「なんで?」
「なんでって・・・ 」
 将は返答に窮した。理由というのは先ほどの松島のそれと、ほぼ同じである。
 そういう事は口にしにくい将だった。
「僕で良かったら、いますけど?」
「鏡くん?」
 将が振り向くと、そこには明が立っていた。
「今まで泳いでいましたから、良かったらここにいます」
 将はちらりと連尺の方を向いてから、笑顔を浮かべる。
「それじゃ、二人にお願いしよう。ちょっと行ってくるね」
「ええ、どうぞ」
 連尺にそう言われ、明の肩をポンと叩いて、将は海に向かって行った。
 その背中を見送った後、明が遠慮がちに連尺の横に腰を下ろすと、連尺が言った。
「明くん?」
「はい?」
「秋の新人戦、出る気、ある?」
「え? ぼ、僕がですか?」
「うん、まだ正式な事は全然決ってないんだけど、明くんも候補の一人なんだよ。
 どう?」
 明は少しためらう素振りを見せたが、はっきりとした声で答えた。
「はい! 出させてもらえるのでしたら、精一杯がんばります!」
 その声に、連尺は満足そうな表情を浮かべてうなずく。
(こうして受け継がれていくのよね)
 内心でそう思い、一抹の寂しさを覚え、空を見上げ、瞳を閉じた。
 まだ熱く照りつける太陽を、まぶた越しに感じながら、連尺はぽつりと言った。
「もう、夏も終りね・・・ 」



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−夏の日々−−終わり

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−続く

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