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ときめく時の中で総集編 第9集 2


   ときめく時の中で(141)

  このときめきは忘れない(21)



 2月に入ってのある日の放課後、1−Cの江ノ島が、となりのクラス1−Dで西島に
尋ねていた。
「マツ、どこ行ったか知ってる?」
 きら中4島と呼ばれた4人も西島と松島が同じクラスになっただけで、クラスは、
ばらばらになっていた。(ちなみに、福島は1−Fだった)
 一番後の廊下側の席に座っていた西島が答える。
「マツなら、3年生の教室の方へ言行ったよ」
「・・・また、虹野さんか?」
「うん。実くんのお弁当の事でって言って」
「みのくんも、もう小学校か? 早いもんだなあ・・・。
 しかし、マツもいい度胸してるっていうか、なんと言うか。平気な顔して3年生のク
ラスに行っちゃうからな」
 妙に感心したような江ノ島に、西島が心配げに言った。
「でも、マツ、本気なのかなあ? 虹野さんのこと」
「うーーん。単なるあこがれだって言ってはいるけどなあ。どうなんだろう?」
 考え込んでしまった二人の所へ、福島がやって来た。
「何してるの?練習、行かないの?」
「ああ、今行く」
 西島がそう答え、福島の横に立つ。西島が福島を見上げ、怪訝そうな顔で聞いた。
「フク、お前、また身長伸びないか?」
「え? 気にしたことないけど・・・、そうなのかなあ?」
「おまえなあ、少し、くれよ、その身長」
「無理言わないでよ」
「ほら、馬鹿言ってないで、行くぞ」
 西島と福島を制するように江ノ島が言った。
「はいはい」
「はい」
 西島と福島の二人は、江ノ島の後に続いた。
 テニスコートに向かう途中で、西島がぽつりと言った。
「それにしても、例の藤崎さんの噂、本当なのかなあ?」
「なんだ? ニシでもそう言うの、気になるのか?」
 冷やかすようにそう言ったのは、首だけ振り向いた江ノ島だった。
「気になるって言うかさぁ。はっきり言って、今のテニス部、そうとう浮き足立ってる
ぜ。
 こんな状態がいつまでも続くのは、まずいと思うんだけど?」
 それは、西島という人間を知っている江ノ島、福島からすれば、驚くほどまともな意
見だった。
「どうしたの、ニシくん? 熱でもあるの?」
 そう言って福島が西島の額に手を当てれば、江ノ島は江ノ島で、窓の外を見ながら、
「こりゃあ、明日は雪が降るぞ」
などと言ってしまう有り様だった。
「お前らなあーー! 人を何だと思ってるんだ!?」
 西島がそう言って憤慨するのも無理はないと思える、二人の反応だった。
 西島の怒りを抑えるかのように、西島の肩に手を置き、江ノ島が答える。
「お前の言う事はもっともだ。だがな、じゃあ、お前、藤崎さんに聞くか?
 あの噂は本当ですか?って?」
「・・・そ、そんな事聞けるわけないだろ」
「だよな。
 それで、今のテニス部、システム的に何か問題あるか?」
 江ノ島の更なる質問に、西島は首を振りながら否定した。
「いや、ない。だけど・・・」
 反論を試みる西島だったが、その機先を江ノ島が制した。
「そう、お前が言うところの、『浮き足立ってる』と言うのも事実だ。
 だがな、それは先輩たちのせいじゃない。俺達が浮き足立ってるんだよ。
 つまり、今、俺達も試されているんだよ」
 江ノ島がそう言うと、西島は感心したような表情になったが、それは口調には反映し
ていなかった。
「エノ、お前、言う事はもっともだけど、気障ったらしいんだよ」
「ふん」
 江ノ島は短く、そう言っただけだった。



「虹野さん、いらっしゃいますか?」
 それから時間は少し遡った頃、松島は虹野の教室を訪ねていた。入り口付近の男子生
徒が、その旨を虹野に伝える。
「あ、松島くん。今、行くね」
 松島にそう告げ、虹野はかばんの中から、一つの薄めの紙袋を取り出し、廊下へと出
た。
「お待たせ、はい、これ」
 虹野が手にしていた紙袋を松島に差し出す。松島も一冊の本を持っていた。それを、
虹野に手渡す。
「ふーん、これが松島くんが参考にした、お弁当の本か」
 パラパラとページをめくりながら、つぶやくように言った。
「中、見てもいいですか?」
 そんな虹野に、手にした紙袋を指し示しながら、松島が聞いた。
 虹野は、一瞬、何を聞かれたかわからないような表情をしていたが、すぐに、言われ
た事を思い出していた。
「ええ、いいわよ」
 虹野の了解を得て、松島が紙袋から、やはり一冊の本を取り出す。
「これですか・・・」
 3年生の女子と1年生の男子が、廊下で料理の本を広げて見ているという光景は、
少しばかり注目を集めるものかも知れない。
 その雰囲気に気がついた虹野が、松島の腕を取る。
「ちょっと向こうに行こう?」
「え? は、はい」
 
 そうして二人は、廊下のはずれのところに来た。
「松島くんって、料理好きなのね」
 にっこりと微笑みながら言った虹野に、松島はあまり感情を表に出さない表情で、
ぽつりと答える。
「好きと言うより、必要に迫られてますから」
「必要に迫られて?」
「弟の小学校って、週に2回、お弁当の日があるんですよ。
 僕の家にはお母さんがいないから、僕が作ってやらないといけないから・・・」
 虹野はハッとして、俯きながら言った。
「ご、ごめんなさい」
 松島の方も、まずいと言ったような顔になり、慌てて答える。
「いいんですよ。僕の方こそ、余計な事を言ってしまいました。
 ・・・そ、それじゃあ、本、お借りします」
 そう言って立ち去ろうとする松島を、ためらいがちな声で虹野が呼び止める。
「あ、あの、松島くん」
「はい?」
「こんな事、本当は聞いちゃいけない事だとは思うのだけれど、気になってしょうがな
いの。
 ・・・あの噂、本当のところどうなの?」
 虹野の言う「あの噂」が何の事か、松島にも判った。
「虹野さん? どうして・・・」
 そんな事が気になるのか? と言いかけた松島だったが、ある仮定に行き着き、それ
を口にした。
「ひょっとして、虹野さん、君本さんの事を・・・?」
 そしてそれは正しかった。虹野はコクリとうなずいた。
「これ、内緒にしておいてね。こんな事話したの、松島くんだけなんだから」
「・・・は、はい。そ、それはもちろん」
 力強く松島は答えたが、その表情は硬い物になっていた。
「それじゃあ、私もクラブに行くからね」
「はい」
 立ち去る虹野を見送りながら、松島は力なく苦笑いを浮かべる。
「終わったな」
 同じく力のない声で、自らに言った松島だった。



 そして、その日のクラブが終わるころ、将は本郷に呼び止められた。
「将先輩」
「ん? 何だ、南?」
「あの、お話があるんですけど・・・、お時間いいですか?」
「ああ、いいけど?」
「それじゃあ、帰り、待ってますから」
「・・・ああ」
 そう答えた将だったが、本郷の真剣な表情に、ただならぬ物を感じていた。



   ときめく時の中で(142)

  このときめきは忘れない(22)



 ここ数日、君本と詩織の噂を耳にして、なおかつ、将の存在を知る多数の者に、共通
の疑問があった。
 ここまで噂が噂を呼び、異常とも思えるほど状況下で、将がなんの行動も示していな
かったことだ。
 通常の感覚からすれば、将のような立場になれば、何か行動を起こすと考えてしまう
ものだ。頻繁にデートのさそうとか、校内でも機会を作って顔を見せる、というような
行動をとると考えるのは、むしろ当然だろう。
 だが、将は動かなかった。
 詩織がクラブに顔を出さなければ、将の方から詩織に接触するようなことは、ほとん
どなかった。
 確かに、今までも、将はそう言う行動はしてこなかった。ある意味、今までと変わっ
ていないとも言えるのだが、状況が状況だけに、将のそう言った行動が、更なる憶測を
呼んでしまうのも事実だった。
「身を引いた?」
 中には、そんな事を言い出す者まで出てしまったぐらいである。
 将自身、そういった事を口にしてこなかったし、その心境を聞く者もいなかったため
に、その信憑性が増したかのような印象が生まれた。
 だが、それに納得いかない人間が、何名かいた。
 その内の一人が、本郷南だった。


 クラブが終わり、部活の管理簿などをつけ、部室に鍵をかけて、将が校門の所に来る
と、約束の通り、本郷が待っていた。
 北風が吹く中、本郷の頬は赤く染まっていた。それが寒さのせいだということは、
将にも判った。
「待たせたね。寒かっただろ? 
 でも、こんなところで待っていなくても、部室にいればよかったのに」
 将の言葉に、本郷は首を振る。
「いいんです。そんなに待つわけじゃありませんから」
「・・・そうか。それじゃ、アルビオンにでも行くか?」
「は、はい」
 本郷がそう答え、二人は帰り道にある喫茶店、”アルビオン”に立ち寄った。
 
 将がアイスコーヒー(?!)、本郷がオレンジジュースを頼む。
 ストローで氷をつつきながら、将が聞いた。
「で、話ってなんだい?」
 単刀直入な将の問いに、戸惑いつつも本郷が答える。
「・・・判ってるはずです」
「何を?」
「とぼけないでください」
 本郷の声は、決して大きくなく、静かなものだったが、そこには気迫のような物が込
められていた。
 無駄だと知りつつ、とぼけてみた将だったが、目の前の本郷の姿に、その行為の意味
のなさを感じた。
 そして、両手をわずかに上げて、降参の素振りをして見せた。
「判ったよ。お前にすっとぼけてもしょうがないか・・・」
 そこまでは、将の表情にもくだけた物があったが、すぐにその表情が引き締まる。
「・・・藤崎先輩の事だろ?」
「はい」
 本郷がうなずく。
「詩織先輩は何を考えてるんですか? 
 将先輩の事をどう思ってるんですか? 
 私、それが全然判らないんです」
「・・・南、それは聞く相手を間違えてるよ。第一、それは俺が聞きたいぐらいだよ」
 将の言葉に、本郷は憮然としたような表情になる。
「それが判らないって言うんです。
 私が知っている将先輩なら、そんな答えが返ってくるはずがないもん。
 将先輩なら、そんな事で悩んだり、戸惑ったりしないもん。
 どんどん行動を起こして、自分の道を開いていく人だもん。
 今の将先輩、私の知ってる先輩じゃない。今の先輩、全然先輩らしくないだもん!」
 感情が入り込み、さすがに大きくなってしまった本郷の声に、店内にいた数組の客か
ら、好奇と非難が込められた視線が飛んできた。
 そんな本郷を、片手を上げて、将が抑える。
「まあ、落ち着けよ、南」
「・・・す、すみません」
 ぺこりと頭を下げる本郷に、真剣な表情で将が言う。
「俺らしくない、・・・か? 確かに、今の俺は俺自身でも持て余し気味だからな。
 南がそう思うのも無理はないな」
 本郷にとって、将の言い方は、ますます「らしくない」物だった。
「・・・先輩、どうしたんですか? 一体何があったんですか?」
 心配するような本郷の声に、将は静かに、そしてかすかに微笑んだ。
「何もないから、困っているんだよ?
「え?」
「俺はね、今は見守ることしか出来ないんだよ。俺が今、下手に動けば、かえって藤崎
先輩を苦しめる事になりかねないんだ。
 俺にそう言ってくれた人たちがいたんだ。
 正直言って、その理由は俺には判らない部分が多い。推測は出来るけど、あくまでも
推測だからね。
 だけど、俺にそう言ってくれたのは、信用すべき人達なんだ。俺はその人達を信じる
事にしたんだ。
 だから、今は見守ることしか出来ないんだ。
 例えその結果が、どんなものになろうとも、俺はそうすることに決めたんだ。
 時々、やりきれなくて、胸が張り裂けそうになるけどね」
 本郷は、悲しげな表情で、首を激しく横に振る。
「やめてください。そんな悲しいこと言わないでください。
 それじゃ、それじゃあまるで、将先輩、詩織先輩の事をあきらめたみたいじゃないで
すか!?
 そんな、そんなのってないですよ!」
「あ、あのなあ、南。
 言っておくけど、あきらめたわけじゃないんだからな。
 それだけは間違えないでくれよ。
 ただ、こういう事は、俺の気持ちだけじゃ、どうにもならない。
 人の心というのは、思い通りにはならないものだからな。
 覚悟を言ったまでだよ」
 その内容とは対照的な、淡々とした将の言葉には、力みといったものがまるでなく、
それが将の本心から来る物だと、本郷には実感できた。
 だが、それで納得できるかというと、それは全くの別問題である。
「許せない!」
 本郷はそう言って、グラスの中のジュースを一気に飲み干した。冷たさがこめかみに
痛みを生み、その苦痛に本郷は顔をしかめる。
 ぶんぶんと顔を振り回して、痛みを追い払い、将に向き直る。
「そんなの許せない!
 私は、詩織先輩にならと思って、一所懸命あきらめようとしたのに。
 将先輩がそれを望むのなら、それでいいと思った!
 なのに、そんな事になったら、私の苦しみは何だったの?
 そんなの、いくら詩織先輩でも許さないんだから!」
「・・・南!?・・・」
 静かさが、かえってその凄味を増す本郷の口調に、さすがの将も戸惑う。
 そんな将に構わず、本郷は自分の財布から小銭を取り出した。
「これお勘定です。
 それと、ここから私がすることは、将先輩にはいっさい関係ありません。
 私が独断ですることです。いいですね?」
 将の返事を待たずに、本郷は店を飛び出していった。
「待て・・・」
 ”待てよ”と言って、追いかけ、止めようとした将だったが、勘定を払うために、レ
ジに捕まってしまい、本郷を追いかけることは出来なかった。
「南、何をする気なんだ?」
 店を出た将は、見えない本郷の姿を捜しながら、そう自分に聞いてみた。



 それから、数十分後、すっかり日も落ちた夕闇の中、本郷は一軒の家の玄関前に立っ
ていた。
 その家の表札は

「藤崎」

であった。


   ときめく時の中で(143)

  このときめきは忘れない(23)



 勢いに任せて詩織の自宅前まで来た本郷だったが、ここから自分がどうしたいのか、
彼女自身にも判らなかった。
 正直言えば、ここに来るまでに、かなり感情が抑えられて来ていたので、途中何度か
その足が止まりそうになった程である。
 それでも、そのまま引き返すのは彼女の性にあうはずもなく、結局、ここまで来てし
まったのだ。
(どうしよう?)
 将のことを、さんざん「らしくない」と言った本郷だったが、詩織の家を正面に見据
えながら、顎に拳を当てて悩む今の彼女も、相当「らしくない」様子だった。
「あら? 南ちゃん、どうしたの?」
「え!?」
 突然、思いもよらぬ方向、つまり、本郷の右手側の道からの声に本郷は慌てる。
「詩織先輩?」 
 そこに立っていたのは詩織だった。
「詩織先輩、どうしたんですか? こんな時間まで?」
 本郷の声に、詩織は微笑む。
「予備校の冬季集中コースを取ってるの。今まで、そこに行っていたのよ」
 本郷は、詩織が予備校に行っているという事実に違和感を覚えた。
 だが、受験を控えたこの時期、それは決して不自然なことではない。そう気が付いた
本郷は、内心納得いく物があった。
(そうか。詩織先輩だって、いろいろ頑張って、いい成績を残しているんだよね。
 何もせずにいるわけじゃないんだ) 
 本郷から見ると、詩織は努力という言葉から縁遠い人間だという印象があった。
 だが、予備校に行っていたと言う詩織に、親近感のような物を感じてしまう本郷だっ
た。
「南ちゃんこそ、こんなところでどうしたの? 南ちゃんの家、こっちの方じゃないで
しょ?」
 詩織の問いかけに、本郷は我にかえった。
「え? いや、・・・その、なんでもないです。それじゃあ、し、失礼します」
 そう言って、慌てて立ち去ろうとした本郷を、詩織が呼び止める。
「待って、南ちゃん!」
「はい?」
「なんだか寒そうね。少し、暖まっていかない?
 何もないけど、お茶ぐらいは出せるから、良かったらどう?」
「で、でも」
「このごろ私、クラブにも顔を出してないし、最近の様子聞かせて欲しいな」
 詩織に言われて本郷は悩んだ。 
 ここに来たのは、詩織に何か言いたい事があったからだ。
 それは確かなのだが、実際、詩織を目の前にすると、その目的がぼやけてしまうのも
また、確かだった。
 そんな本郷に、詩織は続ける。
「遅くなるようだったら、お父さんに車で送ってもらうから・・・駄目かな?」
 首を傾けてたずねる詩織に、本郷もうなずいた。
「判りました。お邪魔させていただきます」
「そう? それじゃあ、ちょっとだけ玄関に入って待っててね。
 お部屋を用意するから」
「はい」
 本郷を玄関に招き入れ、詩織は急いで靴を脱ぎ、母親に来客を告げる。
 その様子をうかがいながら、本郷は自分に言い聞かせた。
(南、ここまで来たら覚悟を決めなさい!)



 本郷は応接間に通された。石油ストーブがあかあかと火をともし、部屋の温度は上が
っていた。
「ごめんね。このごろ、私の部屋、お掃除してないから、散らかってるの」
 そんな事を言いながら、詩織が紅茶ポットを持って応接間に入ってきた。
 そして本郷の正面に座る。
「それにしても、寒いよねぇ。これを飲んで暖まってね」
 詩織はそう言って、ティーカップに紅茶を注いだ。
 それは気のせいなのかと、本郷は思った。詩織の口数が、なんだか普段より多いよう
な気がしたのだ。
「どうぞ」
 詩織に勧められ、本郷はミルクをたっぷりと注いで、ティーカップに口をつける。
 正直に言って、本郷は紅茶やコーヒーを美味しいと思ったことはない。こうしてミル
クや砂糖を加えなければ、とても飲める代物ではないと思っていた。
 彼女の場合、多くの女性共通の敵である、カロリーオーバーを気にしたことは全くな
い。逆に、
(もっと付くところには付いて欲しいなあ)
という悩みを抱えているほどだ。・・・もっとも、この先のことは判らないが。

 そうして、二人が一息ついた時、詩織がカップをテーブルに戻して言った。
「それで、どう? テニス部の方は様子は?」
 詩織にそう言われて、本郷は自分が思ってること、感じていることを話し始めた。
 この中で、本郷は意識的に将のことには触れなかった。
 ごくごく一般的な事、例えばサブキャプテンの役割についてなどは、もちろん話した
が、将個人の事については全く触れなかった。
 そうして、いろいろな事を詩織とやり取りしたのだが、やがて、詩織はためらうよう
に切り出した。
「将くんの調子はどう? どこか故障とか、していない?」
 この時、本郷の心の中で警報が鳴った。理屈ではなく、彼女の本能が、詩織はこの事
を聞きたかったのだと、判ったからだ。
「どうして、そんな事、私に聞くんです?」
「え? だ、だって、将くんはテニス部の主力となるんだもん。
 気になるのは当然でしょ?」
「そんな事聞いていません!
 なんで将先輩に、直接聞かないんです!?
 こんな回りくどい事しなくたって、将先輩に直接聞けばいいじゃないですか!?
 変ですよ! 詩織先輩も将先輩も、絶対、変です!
 いったいどうしちゃったんですか!?」
「南ちゃん・・・?」
 まるで堰を切ったかのような、本郷の言葉に詩織は戸惑う。
「将先輩も、私が知ってる先輩じゃないけど、詩織先輩はもっと、知らない人になって
ます!」
「将くんが?」
 自分の事より、将の様子が気になる詩織は、思わずそう聞き返してしまった。
「そうです。将先輩、すごく不安がっているんです。
 それを表に出さないのは、先輩らしいけど、それ以前に、そうやって悩んでいること
自体おかしいんです。
 いったい二人はどうしちゃったんですか!?」
「どうしちゃったって、どういうこと?」
「詩織先輩まで、とぼけないでください!」
「!?」
 先程、将にとぼけられたことを本郷は言っているのだが、それを知らない詩織は、戸
惑うばかりである。そんな詩織にかまわず本郷は続ける。
「将先輩は詩織先輩の事が好きです! いくらなんでも、それを知らない訳はないで
しょう? 
 詩織先輩だって、将先輩の事を好きなんでしょ?
 どうして、こんなになってしまったんですか!?
 教えてください!」
 あくまでもまっすぐ詩織を見つめる本郷の瞳に、詩織は気圧されする。
「南ちゃん・・・」
「私、将先輩が好きです」
 唐突な言葉ではある。だが、それは本郷の瞳のように、まっすぐ詩織を貫いた。
「はっきり言います。今の詩織先輩に、将先輩は任せられません! 
 私が苦しい思いをしたのは、こんな二人を見るためじゃないもん!
 私は詩織先輩も好きだけど、このまま、こんな状態のまま、ずるずると将先輩を傷つ
けるようなら、許さない。
 いくら詩織先輩でも許さない!
 そんな、詩織先輩なんて、絶対に許さないんだからあ!!」
 そう叫び、本郷は席を立ち、部屋を飛び出した。
「ま、待って南ちゃん!」
 本郷の言葉に、半ば呆然となっていた詩織だったが、すぐに我にかえり、本郷を追い
かける。
 玄関で本郷が靴を履く時間が助けとなって、詩織は本郷に追いつく。
 靴も履かずに、玄関先で本郷の腕をつかんだ。
 振り向いた本郷の瞳には、大粒の涙が溢れ出しており、それを必死にこらえようとす
る彼女の表情と視線は、まるで詩織を憎むように睨み付けていた。
「・・・!?」
 その視線に詩織が怯み、緩んだ詩織の手を振りほどき、本郷は夜の住宅街を駆け出し
ていった。
「・・・南ちゃん・・・」
 その後ろ姿を、詩織は呆然と見つめるだけだった。
 冬の大地は、靴下越しに、詩織の素足から熱を奪っていったが、それ以上に、詩織の
心に、冷え冷えとした物が生み出されていった。
 詩織は力なく、開け広げられた玄関のドアにもたれかかる。
「詩織、・・・どうしたの?」
「・・・大丈夫、・・・なんでもないのよ」
 心配そうな母親の声に、詩織は答えるが、その瞳は何も見えてはいないようだった。
 力を振り絞るように、玄関を閉める。それほど、玄関ドアが重く感じた。
 やっとの思いで、鍵をロックしながら、詩織は思った。
(私のせいで・・・、私のせいで・・・)
 だが、その瞳に徐々に光が戻ってきた。
「だからこそ、私がしっかりしないといけないのね」




   ときめく時の中で(144)

  このときめきは忘れない(24)


 バレンタインデイの声がそろそろ大きく聞こえ出した頃、和人は学校の帰りに寄り道
をして、将の家に来ていた。
 特にこれと言う用事があったわけではない。これまでも、よくあったことだし、特別
珍しい事ではなかった。
 新しいTVゲーム等で、将と和人は遊んでいたのだが、ふいに和人が将に聞いた。
「将、お前、今度の日曜日、空いてるか?」
「え? まあ、部活はないな。・・・うん、空いてるけど、それが何?」
「それじゃあ、どっか行くか?」
「どっかって、どこ行くの?」
「いや、別にここという所はないんだけどな」
「なんだよ、そりゃあ?」
 将は苦笑いを浮かべながら、和人の肩を軽く叩いた。
「痛いなあ。いいじゃないか、ここしばらく、お前と遊びに行ってないからさ。
 たまにはいいかな?と思ったんだよ」
 痛くもない肩をさすりながら和人が答えると、将は上目使いに天井を見上げ、自らの
記憶を巡らした。
「そう言われてみればそうだな。
 俺、クラブやなんかで忙しいって言ってたからな、ずいぶん、お前とも、どこにも行
ってないな。
 うん、いいね。どこ行く?」
「だから、ここという所はないって言ってるだろ」
「なんか、今、思いついたみたいだな?」
「悪いか?」
「いや、悪くはないけどね」
 将は和人が突然そんなことを言った意味を考えた。そして、ある一つの仮定に達した
時、それをぽつりと独り言のように和人に聞いた。
「気を使ってるのか?」
「なんだって?」
「いや、独り言だよ」
「・・・そうか?」
 将自身、気が付いていたことだが、ここ最近の将を取り巻く環境の変化を、和人は、
ずいぶん気にしていた。 
 それ以上に、将の事を気にしていた和人だった。
 君本と詩織の噂を耳にしても、将は気にしてしないように、いつも通りの態度を取っ
ていた。
 だが、内心ではかなり落ち着かないでいることが、和人には判ったのだ。
 自分には何も出来ないが、せめて力付けるぐらいの事はしたいと、常に思っていた。
 実のところ将も、それが彼なりの気遣いなのだと判っていた。
 だから将は、ありがたくその申し出を受けることにしたのだ。
「お前のことが心配なんだよ」
 等とは決して和人は言わないし、将とて
「気を使ってくれてありがとう」
 等とは照れくさくってとても言えなかった。
 それ以前に、言わなくとも、互いに分かり合っていたことなのだ。

”じゃあ、どこに行こうか?”
と、二人が話し合っていると、電話が軽やかな電子音を鳴らした。
「電話か? ちょっと待っててよ」
「ああ」
 和人との会話を中断して、将が受話器を取る。
「はい、吉野ですが?」
『あ、将くん? 私よ』
「え? 藤崎先輩?」
 将の声が緊張した事を、和人は聞き逃さなかった。
「どうしたんですか? 先輩?」
 そう聞いた将に、電話の向こうから、少しためらったような詩織の声が帰って来た。
「うん、・・・あのね。今度の日曜日、空いてる?」
「え? な、何故ですか?」
 何故と聞きながら、将の鼓動は早まった。さすがの将でも、詩織がそう聞いてきた理
由はうすうす判る。
『あのね。良かったらでいいんだけど、一緒に映画、見に行かない?
 映画のチケットが2枚あるの。将くんは、あまり好きじゃないかもしれないけど、
とっても素敵なラブロマンスなんだって、・・・どうかな?』
 そう聞かれて、将はちらっと和人の方を見たが、すぐに答えた。
「万難を排して行きます!」
『本当に? よかった、断られなくて。それじゃあ、どうしようか?
 ええと・・・』
 詩織が考え込んでいる様子を感じとった将は、すかさず言った。
「10時に映画館の前と言う事でどうですか?」
『そうね。そうしましょ。忘れないで来てね』 
「忘れるわけありませんよ」
『・・・あ、あのね、将くん?』
「何ですか?」
『ううん。なんでもないの。それじゃあ、お休みなさい』
「はい、お休みなさい」
 詩織が電話を切るのを待って、将は電話のスイッチを切った。
「藤崎さん?」
「ああ」
 短い和人の質問に、やはり短く将は答える。
 そして静かに電話を置き、和人に向き直り、顔の前で両手を合わした。
「ごめん!! 今度の日曜、駄目になった!!」
 合わせた手はそのままの位置にして、将は頭を下げた。
「この埋め合わせはいつかするから」
 そんな将に、和人は頭を掻きながら答えた。
「ばーーか! 
 もし、俺との約束を優先して、藤崎さんのお誘いを断ったりしたら、その場でタコ
殴りにしてるぞ」
 固めた右拳を顔の前に掲げて、和人は笑みを浮かべながらそう言った。
「和人・・・」
「行ってこいよ。
 ここしばらくの間、まともに顔もあわせてないんだろ?」
 将は無言でうなずく。
「会ってこい。
 それで、お前が思ってる事を、正直に藤崎さんに言えばいいじゃないか」
「そ、そんな事、出来るわけないじゃないか!」
「なんで?」
「な、なんでって、・・・」
 言葉に詰まる将を指さし、和人は続けた。
「お前ねえ、藤崎さんが卒業するまで、もう1カ月ないんだよ。
 このまま何も言わずに、卒業式の日、黙って見送るつもりか?」
「そ、そりゃ・・・」
 なんとも将に似合わない煮え切らない態度に、和人は両手で頭をかきむしる。
「ああ、もう! はっきりしろよ!!
 好きなんだろ、藤崎さんの事が!?」
「ああ、好きだよ」
「あ・・・」
 即答した将に、今度は和人が言葉を失った。
「だけど、それを言って、先輩を苦しませるような事になったら・・・と思うとさ」
「振られるとかは考えてないのか? お前は?」
「振られたらつらいし、考えるのも怖い事だけど、それ以上に先輩が苦しむことの方が
怖いよ」
「将・・・?」
「だけど、今、先輩の顔が見たい。声が聞きたい。
 ・・・なんか、行き当たりばったり、って感じで、正直言って、どうすればいいのか、
自分でも判らないんだけどね」
 困ったように笑いながら、将が言った。
「それでいいんじゃないの?」
 手を頭の後ろに組んで、和人が答える。
「あれこれ考えたって、上手くいくとは限らないんだし、こういう事って下手に考える
と、かえって上手くいかない事が多いものさ。
 ま、あんまり考えずにいた方がいいかな?」
「そうかもね」
 将はそう答えて、天井を見上げる。
(でも、先輩、、どうしたんだろう?)
 
 


   ときめく時の中で(145)

  このときめきは忘れない(25)


 詩織が将を映画に誘った理由はなんだったのだろうか?
 実のところ、詩織にもその理由は判っていなかった。
 本郷に言われた事は、確かにきっかけとはなっていたし、自分がなんとかしなければ
いけないことも判っていた。
 だが、実際に将に会って、何を言うつもりなのか? 自分はどうするつもりなのか?
そのあたりは、全く判らなかった。
 本郷の言う通り、将のことは直接本人から聞きたいと思った。
 今、将は何をどう考えているのか? そんな事や、何げない近況なども聞きたかっ
た。
 だが、それ以上に、将に会いたかった。
 会ってどうなると言う訳ではない。要するに、ただ単に、会いたかったのだ。
 他に理由などない。
 
 ここ数十日、詩織は将と顔をあわせていない。受験の準備に忙殺され、クラブ活動に
顔を出せないという理由もあった。
 だが、それ以上に、詩織自身が将と顔をあわせることを避けていた節がある。
 それは決して、まわりの噂や視線を気にしたから、なのではなく、半ば自分自身を見
失っていたため、将に顔をあわせづらかったのだ。
 だが、今、詩織は自らを見つめ直していた。
 その上で、将に会いたかったのである。



 約束の日、映画館の前で、詩織は将を待っていた。
 流れる人波を眺めつつ、将の姿を捜していた。
 約束の時間までには、まだ間がある。
 だが、詩織は信じていた、将は約束の時間よりも早く来る、と。
 そう信じていたからこそ、自分も早く来たのだ。

 そして将は来た。
 人の流れを泳ぐようにすり抜け、詩織の前に立つ。
 詩織は将をまっすぐに見つめていた。将もその視線から目を背けはしなかった。
 お互い、何か言葉を紡ぎだそうとするのだが、言いたい事、聞きたい事がありすぎ
て、何をどう言えばいいのか? 全く思いつかなかったのだ。
 二人は言葉もなく、そのまま時間だけが過ぎていった。
 二人の姿を興味深げに見て行く、通行人の視線も、今の二人は全く意に介さなかっ
た。
 絶対的な時間からすれば、二人が会わないでいた時間はさほどの物ではない。
 だが、生きてきた時間そのものが、まだ少ない若い二人にとっては、永すぎるほどの
時間であり、その間にあった様々な出来事は、それをさらに倍加させていた。
「げ、元気そうね?」
 やっとの思いで口にした詩織の言葉は、あまりにもありふれた、ごく普通の挨拶にな
ってしまっていた。
「先輩も、お元気そうですね」
 それに対する将の答えもまた、独創性からはかけ離れた物となっていた。
「そう? 少しやせちゃったよ」
「そうですか? そうは見えませんけど・・・」
「ああ? それって、もとが太っていたって言う事?」
 少しばかり(?)意地の悪い詩織の言葉に、将は慌てる。
「そ、そんな事ありませんよ」
 将の慌て方、それは詩織が記憶していた物と変わることがなく、空白の時間が一気に
埋められたような気がした。
「うふっ」
 たまらず詩織は吹き出す。
 それにつられるように将も静かに笑った。
 しばらくの後、笑いを納めて、詩織が言った。
「さあ、行きましょ。始まるわ」
「はい」
 将が答え、二人は館内へと入っていった。



 映画はいかにも、詩織の好みという内容だった。
 将にしても、ラブロマンスが好みというわけではなかったが、映画の話そのものが良
く、見て良かったと思えるものだった。
 上映が終わり、二人は映画館を出る。
 街並みを歩きながら、将が映画の感想を口にする。
「面白かったですね?」
「将くんもそう思う?」
「ええ」
「よかった、そう言ってくれて。将くんって、どう考えても、アクション映画だもの。
 つまんない思いさせたらどうしよう、と思ってたのよ」
(先輩となら、どんな映画だって楽しく見れます)
 たとえ内心ではそう思っていても、それを口に出来るわけもなく、将は苦笑いを浮か
べるだけだった。

 その後二人は、喫茶店で休んだり、ウィンドウショッピングをしたりした。
 その間、二人の会話は、近況や、何気ない話題に終始していた。 
 だが、通り掛かったきらめき中央公園での事だった。
 二人の間に変化が起きた。
「先輩」
「・・・二人きり、それも、部活と関係のない時には、”先輩”なんて呼ばないで。
 名前で呼んで」
「え?」
 突然そう言われても、将としても戸惑うしかない。
「や、あの・・・」
 対処に困ると言った将の表情に、残念そうな笑顔を浮かべて詩織が答える。
「やっぱり、将くんには無理なお願いだったかな?」
「だって・・・」
「んもう、いいわ」
 顔を背けた詩織に、将も決意を固めた。
「・・・詩織さん」
 将の言葉に、詩織が身をビクリと振るわせる。
「詩織さん」
 もう一度呼びかける将の言葉に、詩織が振り返る。
 にっこりと微笑み、小首を傾ける詩織。
 その仕草は、将の心に、せつないようなさざ波を立てた。
「なあに、将くん?」
「え? あ、・・・なんだったっけ?」
 詩織を名前で呼ぶという事に気を取られ、そもそも自分が何を言うはずだったのか、
忘れてしまった将だった。
「何を言うのか忘れてしまいましたよ」
 苦笑いを浮かべ、将はわざと両手を大袈裟に広げた。
「なんだ」
 それを見て、詩織もクスクスと笑う。
 そしてその笑いを納めると、ほんの少しためらうように言った。
「ねえ、将くん?」
「はい?」
「一つ聞きたいんだけどね・・・」
「?」
 詩織は大きく、そして静かに息を吸い込んで、もう一度将の名を呼ぶ。
「将くん」
「はい」

「私の事、・・・好き?」

 北風が、二人の間を通りすぎていった。



   ときめく時の中で(146)

  このときめきは忘れない(26)



 将は、今、詩織が何を言ったのか理解するのに、数瞬の時間を要してしまった。
 
「私の事、・・・好き?」

 詩織の言葉が、脳裏でリフレインするだけだった。
 しばらくは声も出せずに、茫然としていた将だったが、やがてにっこりと顔をほころ
ばせる。
 
「まだ、言っていませんでしたっけ?」
 
「?」
 将の返事は詩織にとって意外なものだった。
 いや、将という人間を知る者ならば、例外なく意外だと思ったことだろう。
 将はこう言った事に関しては、本当に不器用だと、誰もが思っている。それが、今、
将は堂々と、余裕さえ感じる口調で答えたのだ。
 かえって詩織の方が慌てたようになってしまった。
「わ、私は聞いてないけど・・・」
 それを聞いて将は、わざとらしく右手で口元を押さえる。
「そうか、・・・言ってなかったか。言わなくても判ってもらえるなんて、虫が良すぎる
もんな。うん」
 そして、その手を下ろし、改めて詩織に向き直る。

「好きです。
 念のために言いますけど、部活の先輩だからとか、人間としてという事だけじゃなく
て、一人の女性としてですよ」
 将は少し間を置く。
「好きです。世界中の誰より、あなたが好きです」

 それは、別の意味で将らしい、あくまでも堂々とした告白だった。
 最初は意外だと思っていた詩織だったが、その事に思いが及び、納得したような表情
になった。
 そして何より、将の言葉は詩織の心に、安堵と喜びの感情を満たしていった。
 それと同時に、苦しみも生まれていたが、それは最初から覚悟をしていたことだっ
た。
「ありがとう。とっても嬉しいわ。
 ・・・それと、ごめんね。変な事言っちゃって」
「どうしてですか? ・・・詩織さんがそう言ってくれなかったら、俺だって言えなかっ
たでしょうね。
 感謝したいぐらいですよ」
 将はそう言って、ゆっくりと歩き出した。
 詩織がその後に続く。

 池のほとりを、二人は歩いていた。将の斜め後ろに、詩織がついて歩いていった。
 それは詩織にとって奇妙な感覚だった。
 今までは、並んで歩くか、将が一歩、いや、半歩下がるように歩いていた事が多かっ
たからだ。
 将の背中見ながら歩くというのは、今までなかなか無いことだった。
 そして、その背中に、今まで気付くことの無かった物を感じた。
 それは、成長した将の証だった。

 だが、詩織は今すぐそれに答えることが出来ない。

「でも、ごめんね」
「え? 何が?」
「私から聞いておいて、今、将くんに答えることが出来ないの」
 将はそれを聞いて、肩ごしに詩織に顔を向ける。
「判ってますよ」
「・・・将くん?」
 ごく当然というような将の表情に、詩織は思わずにはいられなかった。
(将くんも、いつの間にか、変わっていくのね)
「将くんは、自分に自信があるのね」
「え? どういう事です?」
「だって・・・」
 口ごもる詩織に、将は微笑む。
「そんなもんじゃありませんよ。
 今だって、心臓はバクバク言ってるし、自分が何を言ったらいいか、判らない時が
あるし、もう、あたふたしてますよ。
 ・・・つまり」
 将は表情を引き締める。
「必死なんです。
 詩織さんを失いたくはありません。
 でも、それで詩織さんを苦しめる事になるのは、もっと嫌ですから」
「将くん」
「なにがあるのかは知りませんし、聞きませんが、自分に出来ることがあるなら、なん
でもします。
 そして、どんな結果になろうとも、受け入れるつもりです。
 だから詩織さんは気にせず、自分が思った通りにしてください」
 そこまで言って、将は静かに笑いながら頭を掻く。
「もちろん、詩織さんが、俺の想いを受けてくれることを願ってますが、こう言うのっ
て、そう簡単に、自分が思っているようにはいきませんから」
 詩織もそれにつられるように笑いを浮かべる。
「やっぱり将くんは、強いんだな。
 私、自分が情けなく思えちゃう」
「何故です?」
「だって、このごろ私、みんなに迷惑かけてるなって思うの。
 いろんな人に怒られたり、励まされたり・・・事実を突きつけられたり・・・。
 自分がまだまだ子供だなって、思っちゃったの。
 将くんのように、一人で受け止められる強さ、立ち向かう強さ、そういった物が私に
はなかったから、結局みんなに迷惑をかけてしまった。
 みんなの力を借りなかったら、みんなが私に手を貸してくれなかったら、私には何も
出来なかったし、どこにも行けなかった」
 半ば、自分に対して言ってるような口調の詩織の言葉を聞いて、将は、左手で足元の
小石を拾い上げ、池に向かって投げ込んだ。
 3つの同心円が広がったのを見たあと、将が答える。
「みんな、詩織さんが好きなんですよ。
 だから、時には厳しいことも言うし、同時に力付けようともするんです。
 俺も、そんな詩織さんが・・・」
 言葉が途切れた将に、詩織は首を傾げる。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
「なんでもないって事ないでしょ? そんな私がなんなの?」
 詩織の追及に、将は中断した言葉を続ける。
「そんな詩織さんが、好きなんですから」
「?」
 詩織は疑問に思った。顔を真っ赤にしてそう言った将の姿は、先ほどの堂々とした物
とは全く違っていたからだ。
「さっきと、ずいぶん違うね?」
「今になって思ったんですよ。
 なんかとんでもない事言っちゃったなって。
 詩織さんがあんな聞き方したから、何気なく答えちゃったけど、考えてみたら、普通
こういうのって、一大決心して言うものなのに。
 ・・・簡単に答えちゃって、まずかったかな?って思ったんです」
「後悔してるの?」
「そうじゃありません。ただ、ちょっと恥ずかしいかな?」
「それでも、ちゃんと言ってくれた。嬉しかったよ」
 詩織の言葉に、無言で将はうなずいた。
 日が傾き、吹く風の温度が下がった事を二人は実感していた。

「そろそろ行きましょう。風邪でもひいたらいけないしね」
「詩織さんは受験もありますからね。頑張ってください」
「うん、ありがとう」
 そうして、二人は帰り道を歩く。

 そして、その別れ際、将は詩織に言った。
「これだけは言えるんですけど、俺、詩織さんに会えて良かったと思ってるし、好きに
なって良かったと思ってます」
「私もよ。将くんと出会えた運命の巡り合わせのような物に、心から感謝しているわ」
 二人は申し合わせたように握手を交わす。
「それじゃあね」
「はい」
 名残惜しそうに、二人はきびすを返す。
 夕日の中、二人の影は離れていった。



   ときめく時の中で(147)

  このときめきは忘れない(27)



 いよいよバレンタインまであとわずかとなった。
 そわそわし始めた校内にあって、それをそうと感じたのは君本一人だったであろう。
「どうしたんだ? トシ?」
 午後の授業、2時限目に入る前、好雄にそう問われて、君本は隣の席に顔を向ける。
「いや、詩織がさ」
「藤崎さんが気になるのか?」
 何故だか嬉しそうにそう言った好雄に、君本は少し真面目な顔になる。
「変に勘ぐるなよ。
 なんか、様子がおかしくない?」
「え? 藤崎さんが?」
 怪訝そうな顔になり、好雄が席の左側に身を乗り出して、詩織の席の方を見た。
 好雄の視線の先には、授業の準備をしている詩織の姿があった。
 小さく息を吸い込みながら、好雄が君本の方を向く。
「様子がおかしいって・・・どこが?
 俺には、普段と変わらないように見えるけど?」
 確かに、好雄にはそう感じられたし、クラスの中で誰一人、そう思っている者はいな
かっただろう。
「なあ、トシ」
 小声で言った好雄に対して、君本も顔を近づけ小声で答えた。
「なんだ?」
「お前が、藤崎さんを気にするのは判るけど、気にしすぎじゃないのか?」
 ややもすると、からかうようにも聞こえる好雄の声に、君本は少しムッとした顔にな
る。
「そうじゃないよ。
 どこがどう、とは言えないんだけど、なんかいつもと違うんだよ。
 判らないか?」
 判らないか? と言われても、もともと判らないのだから、好雄としても答えようが
ない。
「じゃあ、直接聞いてみたらどうだ? その方が早いぜ」
「好雄は気楽に言うがなあ・・・」
 そう言って君本は言葉を濁した。君本の言おうとした事は、好雄にも薄々とは判って
いた。
 とにかく、ここ数日、君本と詩織を見るクラスメイトの目が、一種独特のものになっ
てきているのだ。
 二人が近付けば、あからさまにではないにしろ、クラス内の視線が集中してしまいが
ちだったのだ。
 気にしなければいいと言われればそれまでだが、それを全く気にしないでいられるほ
どの神経は、詩織も君本も持ち合わせてはいなかった。
 だが、君本にとって、余りにいつもと違う詩織の様子は、とても放っておけるような
類のものではなかった。
 放課後になり、君本は詩織に声をかけた。
「詩織、なんだか、具合悪そうだけど、大丈夫か?」
 もはや君本は、まわりの好奇を含んだ視線も、全く気にならなくなっていた。
「え? ・・・大丈夫よ。どうしてそんな事聞くの?」
(とても大丈夫そうには見えないからだよ)
 君本は内心そう思わずにはいられなかった。だが、それをあえて口にはしなかった。
「それならいいんだけど、なんか、気になったから」
「うん、ありがとう。確かに、このごろ疲れ気味だから、早めに帰るね」
「ああ、その方がいいね」
 うなずきながら君本が答える。
 手際よく手荷物をまとめ、詩織が下校する。
 その姿を、君本は黙って見送るしかなかった。



 家に帰り、早めに休んだ詩織だったが、悪夢に悩まされることとなる。
 なんの脈略も無い、不条理、かつ非整合な場面、情景が、夢の中で現れては消えて
いった。
 例えば、酷い言葉で別れの言葉を告げる将と君本の姿に涙を流したり、学校中の生徒
から意味不明の非難を浴び、うろたえたりといった物などであった。
 そして、夜明け前、半ばもうろうとした意識の中、腹部の苦痛に目が覚める。
 あまりの痛みに、常備薬の力を借りようと1階に降りた。
「詩織?」
 気配を感じ、寝室から起きて来た母親の声に、詩織は振り返る。
「・・・お母さん」
 母親は、ただならぬ詩織の表情に、顔色を変える。
「ど、どうしたの、詩織?」
 息も絶え絶えに詩織が答える。
「・・・お腹が、痛い・・・の・・・」
 そこまで言った詩織が、その場にうずくまる。
「詩織!? ・・・詩織!!」
 母親が叫ぶ。



 それは偶然だったのかもしれない。
 だが、君本にはそうは思えなかった。
 昨日の詩織の様子に、普段と違う物を感じていたからか、窓越しの詩織の部屋に、
どうしても、気が向いてしまっていたのだ。
 朝も早いただならぬ時間に、詩織の部屋に明かりが灯ったことに君本は気が付いた。
 遅れて階下の部屋の明かりが次々と灯され、慌ただしい気配が伝わった時、君本は部
屋を飛び出していた。
 詩織の昨日の様子、そして今の藤崎家の様子。
 君本が部屋を飛び出すには、それだけで充分だった。



「おじさん!」
「トシくん!?」
 藤崎家のガレージには、車を出そうとしていた詩織の父親の心配げな顔があった。
「詩織が、どうかしたんですか?」
 いきなり的を得た君本の質問に、父親は驚いた表情を浮かべる。
「ど、どうして?」
「そんな事より、詩織は!?」
「ああ、今朝方、おなかが痛いと言い出して、今から救急病院へ連れて行くところなん
だ」
「俺も行きます。いえ、連れてって下さい!」
「トシくん?」
 父親は君本の言葉に戸惑ったが、ゆっくりとうなずいた。
「申し訳ないが、お願いできるかい?
 君がいてくれたら、詩織も心強いと思う」
「はい! すぐに戻ります。待っててください!」

 君本は急いで自分の部屋に戻り、着替える。
「詩織、大丈夫だよな? たいしたことないよな!?」
 それは自分に言い聞かせる言葉だった。
 そうでも思わなければ、いられなかったのだ。
「人思、どうしたの? こんなに朝早く?」
 君本の立てる音に、目覚めた彼の母親が声をかけた。
「詩織が、倒れた!」
「詩織ちゃんが!?」
「今から病院に連れて行くそうだから、俺も行く!」
「学校は?」
 意外な問いかけに、君本は一瞬動きを止めて答える。
「・・・自主休校!!」



 朝焼けの中、詩織を乗せた乗用車は街中を走り抜けていく。
 助手席に座った君本が振り向き、母親に抱きかかえられるように座る後部座席の詩織
を見た。
 元々白かったその素肌は、まさに蒼白と言うべきほどのものとなり、冬の朝だという
のに、額には脂汗が浮かんでいた。
(詩織・・・)
 声をかけたかったが、母親の心配そうな表情を見て、言葉を飲んだ。
 そして、進行方向、前方を見つめる。
 今、何も出来ない自分が、口惜しくて仕方がなかった。




   ときめく時の中で(148)

  このときめきは忘れない(28)



 元城が将のクラスにやって来たのは、一時限が終わった休み時間の事だった。
「し・・・、藤崎先輩が・・・、倒れた?」
「今朝方、救急病院に運ばれたらしい。詳しいことはまだ判らないんだが、親とトシが
付いていて、判り次第教えてくれるそうだが・・・・・」
 元城は、今まで判っていることを、将、和人、そして四本松の3人に小声で話した。
「・・・詩織さんが・・・」
 無意識の内に小声でそう言った将の声を、横にいた和人は聞いた。
 和人にとって、将が詩織をファーストネームで呼ぶという事は、かなりの違和感の
ようなものがあった。和人はこう思っていた。
(将が動揺している?)
 それは正しい洞察だった。
 実際、将達に元城が状況を説明するのだが、将の耳には何も入ってはいなかった。
 「・・・で、将、お前どうする?」
 一通りの事を言ったあと、元城が将に聞いた。
 だが、四本松、和人、元城の3対の視線を同時に身に受けても、将は全く反応しなか
った。
「将!」
 気迫を込めた和人の声に、将がビクリと身体を振るわせる。
「あ!? な、なんだ? 和人?」
「なんだ?じゃないよ。
 行くのか? 病院へ?」
「え? 病院?」
 将の返答は、全く要領を得ていなかった。切れかかった和人に代わるように、四本松
が将の両手を取る。
 柔らかな素肌の感触を感じ、将は四本松の顔を見つめる。
 四本松も、将の茶色の瞳をまっすぐに見つめ、静かに語りかけた。
「将くん、しっかりして」
「・・・四本松?・・・」
「詩織先輩が倒れたなんて聞いたら、いくら将くんでもショックが大きいのは解るわ。
 でも、ショックなのは私も同じよ。
 お願い。将くん、しっかりしてよ」
 両手に力を込め、将の手を上下に三回ほど小さく揺らす。
 そして、将の瞳に生気のような物が戻って来た事を確認し、その手をゆっくりと離
す。
 将は自由になった左手で、うつむき加減で自分の前髪を掻き上げる。
「ごめん、四本松。ちょっと待ってくれ。今、考えてるから」
「病院の場所、わかるか?」
 元城の言葉に、将は顔を上げて答える。
「いえ、判りません。放課後になったら行きますから、地図、お願いできますか?」
「・・・今、すぐには行かないのか?」
 元城の問いかけに、将は首を振って答える。
「いえ、それは駄目です。
 学校があるのに、それを放り出すわけにはいきません」
「将!」
「将くん!」
 和人と四本松が同時の声に、将は笑みさえ浮かべて答える。
「言いたい事は判るつもりだよ。俺だって心配だし、今すぐ、し、・・・藤崎先輩の所に
行きたい」
 将の言葉自体は、先輩を心配する後輩と言う形になってはいるが、その口調、表情か
らは、それだけではない物を容易にうかがい知る事が出来た。
「でも、今、俺が行っても何も出来ないし、逆に邪魔になってしまうかもしれない。
 だから、今は、ちゃんと授業は受ける。それから、病院に行く。
 そうしようと思うんだ」
「将・・・、言う事はもっともだけど、お前、それで良いのか?」
 和人の問に、将はうなずき、元城に向き直る。
「俺、なるべくこの教室にいますから、何か判れば教えてください。
 お願いします」
 頭を下げる将に、元城は困惑したような表情を浮かべつつ、答える。
「いいんだな?」
「はい。きっと、藤崎先輩がこの場にいれば、きっと、こうしろと言ったはずです」
 将は胸を張って答えた。
「判った。連絡が入り次第、教えに来るからな」
「はい、お願いします」
 自分の教室に戻る元城を見送って、将も自分の席に戻る。
 その姿を身ながら、和人と四本松も自分の席に戻る。
 


 詩織が運び込まれたのは、かなり大きめの総合病院だった。
 結局、詩織はそのまま入院する事になる。
 詳しい検査などをした事もあって、個室に用意された自分のベッドに横になったの
は、夕方になってからだった。
 痛みもとりあえず収まり、落ち着いた詩織が、ベッドで小さな寝息を立てていた。
 そのベッドの脇に、君本が椅子に腰掛けていた。
 詩織の両親は、詩織の入院の用意をするため、一旦自宅に帰った。
 父親しか運転免許を持っておらず、また、そういった準備は母親でないと手際が悪す
ぎるので、二人とも病院を後にしなければならなかった。


「では、人思くん、詩織のそばにいて上げてください。目が覚めたとき、誰も居なかっ
たら不安でしょうから」
 病室を後にする時、父親にそう頼まれ、君本は力強くうなずいた。
「はい、もともと、そのつもりで来たんですから。
 おじさんも運転、お気をつけて」
「そうだね。気をつけるよ」
 父親は、君本の言葉に力強い物を感じて、心の中のどこかが安心した。


 帰りの車の中、運転席の父親が、助手席の母親に言った。
「それにしても、詩織がな・・・」
「そうですね」
「私達は、いつの間にか、詩織を特別視していたのかも知れないな」
「ええ」
 母親がそう答え、二人は、詩織の暫定的な検査結果を、医師に伝えられた時の事を
思い出していた。

 それは、鎮痛剤を服用し、眠りについた詩織の病室の前での事だった。
「ストレス!?」
 夫婦揃っての声が上がった。
「そ、そんなに驚かなくてもいいでしょう」
 体格の良い、まだ、30代前半に見える医師が、詩織の両親をなだめるように言っ
た。
「いや、しかし、あの娘がストレスで、なんて・・・」
 困惑の表情でそう言った母親の声に、医師は首を振って答える。
「お母さんが、そう思われるのも無理はありません。が、ストレスという物は、程度の
差はあれ、誰にでも分け隔てなく影響するものなんですよ。
 ましてや、受験などを控えるこの時期、ストレスを受ける方がむしろ当然なのかもし
れません」
「でも、あの娘、それらしい事は何一つ・・・」
「ええ、本人も、恐らく自覚していなかったと思いますよ。
 しかし、身体の方は正直でして、いわゆる過敏性大腸と言う症状なんです。
 腸がやられてしまうんですね。
 そこへ来て、インフルエンザ、まあ、平たく言えば風邪にかかってしまい、弱ってい
た腸にもろに来た。
 明日、もう少し詳しく検査をしてみますが、まあ、そう言うところです」
「入院はどのくらいになりますか?」
 母親に代わる、父親の質問に、医師が答える。
「正式な検査の結果が出るまで、少なくとも2、3日。
 まあ、しばらくは様子を見るということです。
 受験などの心配もおありでしょうが、今は休むことです。いいですね?」
 諭すような医師の口調に、両親は無言でうなずいた。



「母さん」
 車を運転していた父親に、母親は答える。
「なんでしょう?」
「詩織は受験以外で、なにか悩んでいるんじゃ・・・いや、なんでもない」
 だが、なにが言いたかったか、というのは伝わっていた。が、母親は、ただ、窓の外
の景色を、心配げな表情で眺めるだけだった。
 



   ときめく時の中で(149)

  このときめきは忘れない(29)



 それは、元城から詩織が倒れたと聞いた日の昼休みの事だった。
 どういう経路を伝わってかは知らないのだが、事の次第を聞いた連尺が昼休みに将の
クラスへとやって来た。


「見舞い? 俺一人で?」
 連尺の意外な提案に、将は戸惑いを隠せなかった。
 連尺がコクリとうなずく。
「詩織先輩をみんな心配してると思うの。でも、みんなで行ったら迷惑になるから、
テニス部を代表して、将くんに行ってきて欲しいのよ」
「なんで、俺なんだ?」
「将くんがサブキャプテンだからなんだけど、それじゃあ、だめかな?
 それとも、キャプテンとして命令して欲しい?」
 連尺の表情には微笑みさえ浮かんでいたが、その口調に脅迫めいた物さえ感じた将だ
った。
「わ、判ったよ。行くよ」
 半ば気押されたような口調で将が答えると、連尺はニッコリと微笑む。
「良かった。 じゃあ、お願いね。詳しいことは明日聞かせてよ」
「あ、ああ」
「それじゃあね」
 そう言って、連尺は教室を後にする。その歩いていた廊下で、連尺を呼び止めた者が
いた。
「キャプテン」
「あら、なに? 優」
 振り向いた連尺の視線の先にいたのは四本松だった。
 困ったような、呆れたような、そんな否定的な成分をわずかに含ませた笑みを浮かべ
て、四本松が立っていた。
 首をわずかに振りながら、四本松が言った。
「キャプテン、・・・みゆきも時々信じられないことをするわね?」
「え? どういう事?」
 首を傾げて連尺が答える。
「とぼけないでよ。
 将くんを、一人でお見舞いに行かせるなんて、私には出来ないな」
「そう?
 特に意味はないんだけどな。
 私は用があって行けないし、そうなるとサブキャプテンの将くんに行ってもらうし
かないでしょ?
 もし、詩織先輩の事が気になるんだったら、優も行っていいわよ。
 部の方はなんとかするから」
 平然とした口調で連尺が答えると、四本松はさらに大きく首を振る。
「そんな事出来るわけないでしょ」
「どうして?」
 連尺のこの言葉に、四本松は内心で、
(とぼけているのか、それとも本当に深い意味はないのかしら?)
と悩んでいた。
「はあ、やっぱり、みゆきは強敵だな」
 独り言ともとれるような、そんな四本松の言葉に連尺は答える。
「誰の?」
 キョトンとした顔で答える連尺に、思わず連尺は苦笑いを浮かべる。
「まあ、いいわ。 それじゃあ、部活でね」
「うん」
 連尺がうなずき、そう答えると、四本松は振り向き自分の教室へと帰っていった。
 その後ろ姿を見ながら、連尺は誰にも聞こえないほどの小さな声で言った。
「私だって行かせたくないわよ」



 自分の知らないところでそんな事があったとは露知らず、その日の夕方、将は詩織が
いる病院へとやって来ていた。
「連尺に礼を言えばいいのかな?」
 病院の玄関をくぐりながら将は思った。
 将自身情けないとは思うのだが、正直言って今の心理状態で部活動に出ても集中でき
ないのは明らかだった。
 ともかく一刻でも早く詩織の顔を見なければ、とても落ち着けない将の心理状態だっ
た。
 受付で詩織の病室を聞き、広すぎる病院を多少迷うように、詩織のいる病室に向かっ
た。そして、しばらくの後、将は

 藤崎詩織 殿

 と書かれたドアの前に立っていた。
「ここか」
 ややためらうように、小さめのノックを2回鳴らす。
 しばらく間が空いた。
 絶対的な時間はそうでないだろうが、将にとってはとても長く感じる時間だった。
 そしてドアが静かに開く。
「はい」
「君本さん?」
 ドアから現れた(将にとっては)意外な人物に、将は思わずその名を口にした。
「吉野くんか」
 そう言って君本は廊下に出て、音を立てないように静かにドアを閉める。
「・・・詩織のお見舞い?」
「はい。・・・あの、藤崎先輩は?・・・」
 心配げな将の表情に、君本も神妙な面持ちになる。
「うん。今は寝ているよ。昨夜はほとんど眠れなかったそうだから」
「そうですか・・・、それでどんな病状なんですか?」
「ああ、俺も詳しいことは聞いてないんだけど、それほど重病というものではないらし
い。
 その辺は心配しなくてもいいそうだ」
「そうですか、・・・よかった」
 将の表情に安堵の色が浮かぶ。
「ただ、今のところ微熱もあるし、まだ検査やら何やら残ってることもあって、大事を
取って入院という事になったんだ。
 ま、今はもう、大分落ち着いているよ」
 安心したせいか、将は目を閉じ、大きなため息をついた。
「顔を見て行くかい?」
「え?」
「顔を見なければ落ち着かないだろ?」
「ええ。まあ」
「俺、家に電話してこなけりゃならないし、ちょうど今、詩織のご両親とも自宅に戻ら
れているから誰も居なくなる。
 吉野くん、そばにいてやってくれよ」
「はい」
「ただし、静かにね」
「はい」
 片手を上げ君本がその場を離れる。
 その姿を見送ってから将は静かにドアを開ける。
 個室の入り口側についたてがあり、将は慎重とも言える動作でそこから室内を覗き込
む。
 なんの変哲もないごく普通のベッドに詩織はいた。
 その額には、ほんのわずかに汗が浮かび、心なしか肌色も悪く感じた。
 ベッド脇の椅子に将は静かに腰を下ろす。
 しばらくその姿を見ていたが、自分の両膝のあたりに両肘をおき、顔の前で両手を合
わせる。
 両手の位置はそのままに、頭を垂れ、下がりきったところでその両手を後頭部に回
す。
 しばらくその姿のまま、自分の足元の床を意味もなく眺めていたが、シーツのずれ
る音に顔を上げた。
「う、うん」
 声にも鳴らない声を上げ、詩織が身をよじったのだった。
 その時、詩織の右手が掛布団の外に出た。
「・・・」
 将はためらいながら、その手を両手で包む。
 やわらかなその感触に、不謹慎なものを感じつつも将の胸が高鳴った。
 ゆっくりと静かにその手に自らの額を当てて、心の中でつぶやいた。
(・・・詩織さん・・・)



   ときめく時の中で(150)

  このときめきは忘れない(30)



 自分の両手で包み込んだ詩織の手の柔らかさを感じながら、将は流れ去っていく時間
の中にいた。
 詩織が倒れたと聞かされた時から、ここに来るまでの時間は将にとっては、長く苦し
い時間だった。 自分でそう決めたとは言え、本当は何もかも放り出し、詩織のもとへ
と駆けつけたかった。
 今、こうして落ち着いている詩織を目の前にして、将はようやくホッとした。不謹慎
だとは思ったが、詩織の手のぬくもりに、心の奥で鼓動が高鳴るのを実感していた。
 
 詩織の手に動きが現れた。それまで、力なくベッドの上に横たわっていただけの腕に
詩織からの命令が伝わり、動き始めたのだ。
 それにあわせ、将はそっと自分の手を緩める。
 その時だった。
「トシくん?」
 という詩織の声が聞こえてきたのは。
 正直なところ、詩織のその声は将の心に影を差し込んだ。
「先ぱ・・・詩織さん」
 いかにも不器用に答えた将に、詩織は驚きを隠せなかった。
「将くん・・・いつのまに?」
「学校が終わって、今来たところです」
「そうなの・・・、お父さんお母さん、・・・それにトシくんは?」
「家に戻られたそうです。・・・君本さんは今、自分の家に電話をしてるそうです」
「そう・・・」
 そこまで言った詩織だったが、突然咳き込み始めた。それは健康時にはとても想像も
出来ないほど痛々しい物だった。
「・・・詩織さん・・・」
 その姿を将はなす術もなく、ただ見つめているだけだった。
 ようやく咳が収まり、乱れた息の中、詩織が言った。
「・・・ごめんね、将くん」
「謝らないでください。病気なんですから仕方ありませんよ」
 詩織を安心させようと落ち着いた声と笑みで答えた将に、詩織は首を振る。
「そうじゃなくて、・・・今・・・トシくんと間違えちゃったでしょ。・・・せっかく来てくれ
た・・・のに、ごめんね」
 途中何度も咳に中断されながら、まさに必死という感じでそう言った詩織に将は慌
てる。
「詩織さん、喋らないで。今はともかく休んでください。
 君本さんが一日ついていてくれたんですから、そう思うのは当然なんです。謝ること
なんてないんですよ」
「・・・う、うん」
 どうして詩織がそんな事で謝るのか、将には判らなかった。
 将が言った通り、君本が一日詩織のそばにいたのだから、眠りから覚めた時、そばに
いる人間を君本と間違えるのも無理からぬ事と将は思っていた。
 確かに自分が君本と間違えられたのは面白くない部分があるが、そんなに謝れてはか
えって戸惑ってしまう。
 将はその原因を、言葉は悪いが詩織が寝ぼけているからだと理解した。病によって、
詩織の思考能力が正常の物ではないのだと判断したのである。
 それは、ある一面においては正しいものだった。

 目覚める前、詩織は夢を見ていた。
 幼い頃の姿に戻った自分の10メートルほど前に、同じ年頃の姿をした君本が手招き
をしながら立っていた。
「トシくん、どこにいくの?」
「きょうは、とおくのこうえんにいってみようよ」
「え? でもぉ。おとうさんにおこられちゃうよ」
「だいじょうぶだよ。ゆうごはんまでにかえってくればわからないんだから」
「でも・・・」
 もじもじしながらそう言った詩織に、君本は残念そうに言った。
「しおりちゃんは、いいこちゃんだからだめなのか。じゃあいいよ。ぼくひとりでいく
から」
 いいこちゃんという言葉に、幼い詩織の心が反発した。
「わたしもいく!」
「じゃあいこう」
 勝ち誇ったようにニッコリと微笑む君本に、詩織は内心思っていた。
(もう、トシくんにはかなわないな)
と。
 差し出した君本の手に答え、二人は手をつなぐ。
 その手の感触を保ったまま詩織は目覚めた。そして現実と夢の区別がつかないまま、
自分の手を誰かが握っていることだけは理解できた。
 開いたばかりで焦点の定まらない視界に浮かぶおぼろげな姿が誰の物なのか、即座に
判別がつかなかった。
 そして夢の影響もあって、その手が君本の手だと判断してしまったのだ。
 将の声が帰って来た時、詩織の心には罪悪感のような物が生まれた。
 その理由は詩織自身にも判らなかったが、将を君本と間違えた自分が恥ずかしかった
のだ。

 ともかく休むようにと将に言われ、詩織は再び眠りにつく。
 身体が休みたがっているせいもあるのだろう。咳き込みながらも、それほどの時間を
おかずに詩織は寝息を立てる。
 その寝顔をひたすら見守るだけの将だった。
 しばしの後、静かに開く個室のドアに将の注意が向けられた。
 君本が帰って来たのである。
 さらに、恐らく途中で出会ったのだろう、詩織の両親もそこにいた。
 詩織を起こさないように注意しながら将が立ち上がり、両親に向けて会釈をする。
 詩織の両親もそれに応える。
「お見舞いに来てくれたんですか?」
 小声で言った母親の声に将はうなずく。
「はい。クラブを代表してきました」
 母親の声に合わせるような小声で答えながらも、なぜかクラブという部分に力を込め
る将だった。
 まるで申し合わせたかのように4人は詩織の方に視線を向け、そのまま廊下に出た。
「どうもわざわざ来てくれてありがとう。
 でも、ごめんなさいね。詩織、寝ていたでしょ?」
「え? ええ」
 一時、詩織の目が覚めた事を言いそびれてしまう将だった。
「それで、藤崎先輩はどんな具合なんですか?」
 将の質問に、両親はお互いの視線を交わす。
 将の質問に答えたのは父親だった。
「いや、まだ、検査の途中だから詳しいことはまだ知らされてないんだよ」
「・・・そうですか・・・」
 釈然としないといった将の表情に、母親が補足のように付け加える。
「あ、でも、ともかく休んでいれば今のところはいいらしいのよ。
 それほど心配しないでいいの。
 みんなには安心してくださるように言ってください」
「はい。わかりました」
 心底からとはいえないが、それでも安心したような表情を将は浮かべた。
「それでは、今日は帰ります」
 将がそう言うと母親が答える。
「皆さんによろしくお伝え下さい」
「はい」
 頭を下げながら将がそう答え、病室を後にする。
 それを見送った君本が言った。
「俺もそろそろ帰ります」
「そうだね。私が送っていくよ。・・・詩織の顔、見て行くかね?」
「・・・いえ、今日の所はこの辺で」
「そうか・・・」
 父親の声がきっかけになったように、3人は同時に視線を詩織のいる病室のドアに向
けた。



 将は病院の門を出るところだった。
 歩みを止め振り返り、病棟を見上げた。
「・・・詩織さん・・・、早く良くなってくださいね」
 今の将に出来ることはこういう事ぐらいだった。



   ときめく時の中で(151)

  このときめきは忘れない(31)



「先生。512号室の女の子、学校で人気があるみたいですね」
「そうだね。お見舞いの人があれほど多いというのも珍しいね。
 みんな心配してるんだろう。別の意味で個室にして良かったという事かな」
 詩織の入院している病院で、詩織の担当医と看護婦が詩織の事を話していた。
 二人の会話の通り、詩織が入院してから詩織の見舞いに訪れたものは引きも切らなか
った。
 詩織の病室には花束や篭盛をはじめ、「早く良くなってください」などの寄せ書きや
千羽鶴等が溢れることとなった。

「ナースの間でもあの娘の評判はいいですよ。先生方の中にもうわさを聞きつけてきた
先生もいるんです。整形の山田先生なんか一日に2回も来たんですよ」
「・・・わかるような気がするなあ」
 納得したような表情を浮かべ医師が答えると、看護婦が言った。
「それで、先生はどうなんです?」
「僕? 僕はどんなに可愛い子だろうと特別扱いにはしません。どの患者さんとも公平
に接しますよ。
 ま、別に威張れることではなくて、当然のことですけどね」
 照れたような笑いを浮かべ医師が答えると、看護婦が冷やかすような口調で答える。
「あら、先生はあんな娘がタイプじゃなかったんですか?」
 キョトンとしたような表情でいた医師だったが、わざとらしい咳払いをした後、おも
むろに答える
「そういうプライベートな質問には答えかねるなぁ」
 それを聞いた看護婦がクスクス笑った。
「そうそう忘れちゃいけない。先生、これを受け取ってくれますよね」
 そう言って看護婦は医師にカラフルな包みを差し出す。
「ああ、今日はバレンタインデーか、ありがとう」
「言っておきますけど、ナース全員から、ですからね」
「はいはい、判ってますよ」
「・・・あの娘も、誰かにあげるつもりだったんですかね?」
 医師が真面目な顔になり、静かに言った。
「・・・患者さんのプライベートに対する、そういう詮索はいけないな」
「はい、すいません」
 こんな会話が院内のあちこちで交わされるように、詩織は病院でもかなり注目を浴び
る存在になっていた。



「それじゃあね」
「うん、ありがとう」
 ちょうどそのころ、詩織の病室から見舞いに来ていた詩織のクラスメイト3人が、部
屋を後にしていた。
 そしてその病室には詩織以外にもう一人、セーラー服の少女がいた。
 栗色の髪の少女、美樹原だった。
「良かった。ずいぶん元気そうだったから安心したわ」
 言葉通りの安心したような表情の美樹原に詩織が答える。
「お腹の痛みが収まってきたから、ずいぶん楽になったわ。
 まだ咳とかが出て少しつらいけど、もう大丈夫みたいよ。
 先生も検査で異常が出なかったら退院して良いって言ってくれたわ。
 メグにも心配かけちゃったね。ごめんね」
「いいのよ、そんな事は。
 ともかく今は身体を治すことだけ考えて、早く元気になってね」
 美樹原の声に詩織は無言でうなずく。
 その様子を見て美樹原が続ける
「でも、今日はみんな複雑な心境だったみたいよ」
「・・・何で?」
「今日は2月14日でしょ?」
「バレンタインデイ・・・か」
 詩織の口調は、今の今まで忘れていたかのような口調だった。
「詩織ちゃん、忘れてたの?」
「え? まさかぁ。いくら何でも忘れてなんかいないわよ。
 ただ、関係のない日になっちゃったでしょ? 忘れるというより、実感みたいのが全
然ないのよね」
「そんなものなの?」
「そんなものなのよ」
 そこまで言った詩織だったが、他に誰がいるという訳でもないのに美樹原に顔を近づ
け、小声で続ける。
「病院内の売店でもそれ用のチョコレート売ってるんだけど、さすがにそれじゃあな、
って思っちゃったんだ」
 それは詩織なりのジョークだと気が付いた美樹原は、多少ひきつりながら、笑いを浮
かべた。
「ところでメグはチョコレートあげたの?」
「え? だ、誰に?」
 突然、自分のことを聞かれ美樹原は戸惑う。
「誰にって、和人くんに決まってるでしょ?」
 和人の名前が出た瞬間、美樹原の顔がまるで火がついたように赤くなる。
「わ、私は、べ、別にそんな意味じゃなくて、和人くんにはお世話になったし、そのお
礼を兼ねてあげただけよ。 ふ、深い意味はないんだから」
 まさに慌てふためくといった様子の美樹原に、思わず詩織は吹き出してしまった。
「詩織ちゃん、ひどーーーい。そんなに笑わなくたっていいじゃないのよ!」
「ごめん、ごめん。 そうか、・・・あげたんだ和人くんにチョコレート」
「うん」
 顔を真っ赤にしながら美樹原はうなずいたが、すぐさまぽつりと言った。
「でも、和人くん人気あるんだね。私が和人くんの教室行った時、クラスの女の子の視
線が私に集まったもの。何だか怖かったぐらい」
「そうよね、判るような気もするわ。なんでも和人くんの生写真、1、2年の間ではプ
レミアがついてるそうよ」
 詩織の情報に美樹原も何事か思い出したように言った。
「それ、聞いたことある! しかも最高値が付いているのは吉野くんとの2ショット
って話だわ。
 私、まだ見たことはないんだけど、なんか妖しい構図らしんだって」
「なんだ、メグって意外と・・・なんだ」
「ち、違うわよ。私、べ、別にそんなんじゃないんだから!」
「判った、判った。そういう事にしておきましょうね」
「ああーーん、詩織ちゃんの意地悪」
 美樹原のその仕草がおかしくて詩織が笑い、つられるように美樹原も笑い出した。
 二人はしばらく笑っていたのだが、詩織がそのまま咳き込み始めてしまった。
「だ、大丈夫、詩織ちゃん?」
 反射的に詩織の背中をさすりながら美樹原が聞いた。
「う、うん。・・・私は大丈・・・夫・・・よ。
 でも、メグに風邪をうつしちゃいけないから、メグ・・・も、そろそろ・・・」
 咳き込みながら帰宅を促す詩織に、美樹原もうなずく。
「そうね。そろそろおいとまするわ。
 おじさま、おばさまによろしくね」
「うん」
 詩織がそう言うのを聞いて美樹原は病室を後にしようとした、その時、
「メグ」
 背を向けたまま言った短い詩織の言葉に、美樹原の足が止まる。
「なあに?」
「・・・正直言ってね、私、今日入院していて良かったって思ったわ。
 チョコ、誰にもあげないですんだんだから」
 それ以上詩織は何も言わなかった。
 だが、美樹原には詩織の言葉の意味は判っていた。判っていたが、返す言葉もなく、
そのまま静かにドアを開け廊下に出た。
 後ろ手にドアをそうっと閉め、うつむいた。
 そのままの姿勢でしばらくそうしていたが、やがて顔を上げ帰路につこうとした。
 だが、その足がまた止まる。
 前方から来る人影に、美樹原の視線が釘付けになっていた。
 その人物も美樹原の姿を認めた。
 5メートルほどの間を空けて、二人は向き合っていた。
 そのまま何も言わずに向かい合っていた二人だったが、やがて美樹原が口を開いた。
「お久しぶり、人思くん」
「久しぶり、美樹原さん」
 美樹原の正面に立っていたのは君本だった。



   ときめく時の中で(152)

  このときめきは忘れない(32)



 美樹原はにこやかに微笑んだ。
 君本を前にして、彼女の心が揺れ動かなかったわけではない。本当に好きだった相手
である。
 君本を想い、眠れぬ夜をすごしたこともあった。せつなくつらい想いも重ねて来た。
 心が動かぬはずもない。
 だが、美樹原は自然に微笑むことが出来た。
 君本への想いはうそではないが、すでに過去の物となりつつあった。
 まだ、完全に過去の物になっているとは言えないが、それでもその流れは確実なもの
だった。
 だから自然に微笑むことが出来たのだ。
「大変だったんですってね。詩織ちゃんが倒れた時」
「え? ああ、まあね」
「詩織ちゃん、人思くんがいてくれて心強かったって」
「・・・そう」
 君本は内心でつい思ってしまう。
(美樹原さんって、いつの間にこんなに堂々と物を言うようになったんだろう?)
 自分が持っていた美樹原のイメージと、今の彼女の違いに君本の方が言葉を詰まらせ
てしまうほどだった。
 そんな君本とは対照的に、美樹原が一旦詩織の病室に首を巡らし言葉を続ける。
「それじゃあ、私、帰ります」
「・・・あ、ああ、そう?」
「失礼します」
 美樹原は君本の傍を過ぎる。そして5歩ほど歩いた後、美樹原は振り返る。
「人思くん」
 美樹原の声に、ドアのノブに手をかけていた君本が振り向く。
「? 何?」
「・・・私、・・・好きになれそうな人が出来ました。
 これでも私、立ち直りは早いんですよ」
 そう言って美樹原は両拳を顔の位置に上げる。
「・・・」
 そんな美樹原に君本は声も出せない。
「もっとも、その人は別の人が好きなんですよ。私にはそういう運、ないのかな?
なんて思っちゃうんですけどね」
 君本に構わず続けてそう言った内容とは裏腹に、美樹原の表情は明るいものとなっ
ていた。
「美樹原さん・・・」
 君本は美樹原の名を口にした。それだけで精一杯だったのである。
 美樹原は上げていた両手を下ろし、背中に回して両手の指を絡ませる
 そしてにっこりと微笑みながらコクリとうなずいた。
「それじゃ、また」
「あ、ああ、またね」
 君本が答えると美樹原はそのまま廊下を歩いていった。
 美樹原そして君本、この時、二人は同時に実感した。
 何かが確実に終わったということを。



 美樹原が病院の玄関を出ると、そこに意外な人物がいたことに彼女は驚いた。
「和人くん?」
「え? め、・・・美樹原さん?」
 和人が「愛」と言いかけて「美樹原」と言い直したのには訳があった。
 美樹原の目には和人の姿がまず最初に入ったのだが、その横には将もいたのだ。
 将の前で「愛」と呼ぶのはさすがに照れくさい和人だった。
 もっとも、将にしてみれば(何言い直してるんだか?)と思ってしまうのだが。
「二人とも、詩織ちゃんのお見舞い?」
 美樹原の問いかけに、右手に持った花束を美樹原に見せるように上げながら将が答え
る。
「ええ、まあ、そんなところです」
 そんな将に、和人は冷やかすような口調で言う。
「俺はまあ、付き合い。 こいつ一人で来るのが照れくさいって言うもんだから」
 そう言って将を指さす和人に将は慌てた。
「ば、ばか! そんな事言ってないだろ! 暇ならちょっと付き合えって言っただけだ
ろ」
(同じことじゃない)
 和人、そして美樹原もそう思ったのだが、敢えて口には出さなかった。
「じゃあ、俺、用事ができたから帰っていいか?」
「え?」
 予想外の和人の問いに将は呆気に取られた。
「帰る?・・・用事って何?」
「俺、美樹原さん送っていくからさ。ああ、悪いけど藤崎さんにはよろしく言っといて
くれよ。な。」
「ああ、そうか。そうだよな・・・。うん、判ったよ」
 多少ぎくしゃくとした動きと共に将がそう言うと、和人は美樹原を片手で促し病院を
後にしていった。
「じゃーねーー」
 将は左手を小さく振りながらそれを見送った。


「和人くん、良いの? 詩織ちゃんのお見舞いは?」
 帰る道すがら美樹原が和人に言った。
「いいの。将の奴も、こういうのもう少し上手く立ち回ればいいと思うのにな。
 何で俺を付き添わせるかなあ?って思うよ。
 一人で来ればいいものを」
「吉野くんもそこまで不器用なの、考えものよね?」
「そうそう。まあ、そこがあいつらしいと言えばそうなんだけど、子供じゃないんだか
らお見舞いぐらい一人で行けよって思っちゃうよ」
「そうね」
 二人はそんな会話を交わしながらしばらく歩いていたが、ふと、思い出したように和
人が言った。
「そうだ。愛、チョコレートありがとう。
 昼休みの時、俺に渡すだけ渡したらすぐに帰っちゃっただろ?
 お礼を言う間もなかったよ」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくたっていいよ」
「和人くん、迷惑じゃなかった?」
「迷惑? なんで?」
「だって、他の女の子からもたくさんもらったんでしょ? チョコレート」
 意外な美樹原の言葉に和人は戸惑った。
「や、そりゃ、多少、義理などは・・・ね」
「そっか、そうだよね」
 実のところ、多少などというものではなかった。数で言えば将よりはるかに多い。
 将は詩織に好意を寄せていることが明白だったので、昨年から比べてその数自体は激
減していた。(ただし、校外からの”ファンからの”物は入っていない)
 対する和人は全くのフリーと思われていたため、力の入った物がかなり多かったので
ある。
「和人くん、人気あるもんね」
 そう言って背中を向ける美樹原に、和人は半分埴輪顔となる。
「なに、拗ねてんだよ。愛?」
「拗ねてなんかないわよ」
「拗ねてるじゃないか」
「・・・」
 美樹原がそのまま立ち止まる。
「?」
 和人が「何だ?」と思っていると、美樹原が小さな気合いの声を放った後、こう言っ
た。
「今日、お昼休みの時言えなかったことがあるの」
「ん? 何々?」
「うん、もし和人くんが嫌じゃなかったら、・・・嫌じゃなかったらでいいのよ!」
「え? あ、ああ」
「もし、良かったら、・・・私が卒業しても、・・・私と会ってくれないかな?」
「ええ?」
 絶句してしまう和人だった。



  ときめく時の中で(153)

  このときめきは忘れない(33)



 和人は美樹原の言葉の意味を、将とは違い、すぐに理解することが出来たのだが、そ
れに対してどう返事をすればいいのか、考え込んでしまった。
 やがてフッと笑い、言葉を発した
「それは別にいいんだけど、愛こそいいの? 俺・・・」
 言葉を続けようとした和人を美樹原がさえぎった。
「いいの。和人くんは今のままでいてくれれば。
 私がそうしたいだけなんだから。・・・もちろん、和人くんが嫌なら別だけど」
「そ、そういう訳じゃ無いよ」
「・・・なら、いいのね?」
「ああ、・・・喜んで」
 この時、和人が浮かべた笑顔は美樹原にとって初めて見る類のものだった。いや、そ
れは美樹原だけではない。
 今まで誰一人見たことのない笑顔を、和人は浮かべていたのだ。
 美樹原にはその意味どころか、それが自分だけしか知らない和人に表情だという事す
ら知らなかった。
 しかし、その表情は美樹原にとって、これ以上ない安心感と、そして幸福感のような
ものを生み出すものとなっていた。
 美樹原は両手を頬に当ててその内心を表情にした。
「・・・よかった。断られるかと思ってドキドキしちゃった」
 和人にとって美樹原がそう言った表情を浮かべることは、彼にとっても理屈ではなく
本能のようなものから嬉しいものだった。
「そんなに緊張しなくたっていいのに」
 和人の声に美樹原は小さく首を振る。
「だって、私が卒業したらもう今までのように会えなくなるでしょ? 今言っておかな
いと、っておもったら・・・」
 そう言って美樹原がうつむく。
「め・・・」
 愛と言いかけた和人の声を遮るように、美樹原が顔を上げる。
「私、和人くんがいなかったら、ううん、和人くんがいてくれたから、私、すごく救わ
れたの。一番落ち込んでいた時、そばにいてくれたから・・・、あの・・・
 自分の言葉が興奮した物になっていることに気付き、美樹原は口ごもった。
「いいんだよ」
 和人が微笑みながら美樹原に次の言葉を促す。
「ゆっくりと、慌てずに続ければいいんだよ」
 その笑顔は先程のものとは変わらない、美樹原だけが知る笑顔を浮かべていた。
「うん。
 こんな事を言ったら和人くんに嫌われちゃうかも知れないけど、私、和人くんが他の
人を好きでもいいの。
  和人くんと離れ離れになることはいやなの。
 男の子として好きなのかどうか判らないの。ううん、それ以前にとっても大切な人だ
から、失いたくないの」
「もう、いいよ」
 美樹原の言葉を和人がさえぎった。
「わかったよ。もう、それでいいよ。
 それじゃあ、愛にも電話番号教えなくっちゃな」
 独り言のような和人の言葉に美樹原は首を傾げる。
「え? 私、和人くんの電話番号知ってるよ」
 知っているどころか、電話したのも一度や2度ではない。それすら忘れているのか?
 美樹原は内心不安になった。
「そうじゃなくて、今度引っ越す事になるから」
「・・・!? 遠くへ行っちゃうの?」
「そんなに心配そうな顔をしなくたっていいよ。すぐ近くに引っ越すだけだし、学校だ
ってそのまま行くよ」
 自分の表情が和人の言った通りのものだと自覚していた美樹原は、和人にそう言わ
れ、安心すると同時に、恥ずかしさで顔を赤く染めた。
 その表情を隠しごまかすように質問をした。
「どうしたのかな? 家を建て直しするとかなの?」
「いや、引っ越すのは俺一人だよ」
 やや、表情を強ばらせた和人に、美樹原の表情に不安の要素が戻ってくる。
 それに気付き、和人は慌てたように笑顔を浮かべる。
「別になんでもないよ。詳しいことが判ったら、また教えるから。ね?」
「う、うん」
 心に多少不安が残るものの、とりあえず自分の願いがかない、安心した美樹原だっ
た。
 そうして二人は、北風が吹く夕闇の中、帰路についた。



「もう一度言ってくれないか?」
 詩織の病室、ベッドの横の椅子に腰を下ろしていた君本は、詩織に向かった聞いた。
 その声に対し、詩織は振り絞るような声で答える。
「イギリスは遠すぎるって言ったの」
 それは君本にとって、予想だにしなかった言葉だった。
 正確に言うならば、今、この場で聞く類のものだとは、思ってもみなかったのであ
る。
「それはつまり、どういう・・・」
 君本は言葉を続けられなかった。
 その先を聞くのは少し勇気を必要とした。 そしてそれに対する答えが想像できると
いうことが、またそれに輪をかけた。
 そんな君本の問いを先読みするかのように詩織は続ける。
「私、入院して思ったの。私はトシくんに想ってもらえるような人間じゃないって。
 気が付いたら、トシくんはとっても素敵な男の子になっていた。
 それが私のためだったと聞いた時、とても嬉しかった。
 でも、その間、私は何をしていたか? と思うととても恥ずかしい。
 私、その間に何も変わってない。ううん、それどころかトシくんに酷い事してしまっ
たもん」
 言葉に詰まった詩織に対して、君本がわざと明るい表情で答える。
「ああ、あの時のこと? ありゃ俺が悪い。詩織が怒るのも無理はないさ」
 ”あの時”というのは、君本に関する悪い噂が校内に流れ、詩織が君本に対してあか
らさまに不機嫌な態度をとった時のことを言っている。
「それを言うなら、俺の方が酷い事してるって事になるな。例え、本人に悪気がなかっ
たとしても俺が悪い」
 やや大袈裟に頭を下げる君本に、詩織は首を振る。
「ううん。そんな事よりもっと酷いことよ。
 私は悩んでいたの。そしてその答えを出そうとしていた。
 でも、そう簡単に答えられなかった。それほど難しい問題だったの。
 そして、それがストレスの一因となって、私は体調を崩しちゃったの。
 こんなに心が弱いなんて、私、自分自身が情けなくってしょうがないの」
 ベッドのシーツを掴む手が、わなわなと震えるのを見て君本がそっと言った。
「詩織、そんなに自分を責めるなよ。
 詩織がそれほど悩むなんてよっぽどの事なんだろ。それならしょうがないさ。な?」
 優しく語りかける君本の言葉をも、詩織は拒絶するように首を振る。
「違うの。人から見れば軽蔑されるような悩みよ!」
 そしてゆっくりと詩織は顔を上げる。
「私、トシくんの事、好きよ」
 言葉だけとれば、それは君本にとってもこれ以上ない返事に違いなかった。
 だが、詩織のその表情からは、それをそのまま受け取っていいものとは、とても思え
ないものが伝わってきた。
 君本の表情に真剣味が加わる。
「それで?」
 短くそれだけ聞いた君本の声は、鋭い切れ味のような物を伴いながら、詩織に返って
いった。
 詩織は君本にその顔を向ける。
 そして軽く瞳を閉じ静かに言った。

「だけどね、私、それと同時に将くんも好きなのよ」



   ときめく時の中で(154)

  このときめきは忘れない(34)



「知ってるよ。そのぐらいの事は」
 言った詩織本人が拍子抜けするほど、君本は詩織の言葉をあっさりと受け止めた。
「トシくん?」
「もう何年の付き合いになると思ってるんだよ。
 詩織が吉野くんのことを想っていることぐらいの事、わからないはずないだろ?」
 君本の浮かべる笑顔は決して嫌味といった類のものではなく、心底からの笑顔であっ
た。
「詩織が吉野くんの事が好きだということは判っていたよ。
 正直言って、俺のこともそう思っていてくれたというのは予想外だったけどね。
 まあ、例え詩織が吉野くんを選んだとしても、俺は詩織に対して好きだと言うしかな
かったのさ」
 君本は、そこで一旦言葉を切る。
 そして、ゆっくりと息を整えてから、次の言葉を口にした。
「俺にとっては詩織は家族みたいなもんさ。もっと突っ込んで言うなら、自分の人生の
一部なんだよ。
 詩織を失う事は、人生の一部を失うという事とほとんど同じなんだよ」
(大袈裟なことを言っちゃったかな?)
 君本はそんな事を考えたのだが、言ったことに間違いないことも事実だった。
 詩織は声も出せず、その言葉を聞き入るだけだった。
「だけど、だからと言って詩織を束縛しようだなんて思ってはいないよ。
 詩織は詩織が思った通りにすればいい。
 まあ、今回の事は、詩織の事だから、自分のことより人の事を考えてしまったんだと
思うよ。
 まず、自分のことを考えればいいのに・・・、そこが詩織らしいと言えば詩織らしいん
だけどね」
 君本は、まるで場の雰囲気を和らげるかのような笑みを浮かべるのだが、それに対す
る詩織の表情は固い。
「・・・軽蔑しないの?」
「軽蔑? なんで?」
「だって・・・」
 言葉に詰まる詩織に、君本は笑みを絶やさず答える。
「あんまり見くびらないで欲しいな。
 人間なんてどこかに欠点や、問題があるもんさ。それは詩織だって例外じゃない。
 そんなマイナスの部分、例えば、詩織が他の誰かを好きだとしても、俺は・・・」
 ほんのわずかの間を置いて、君本は言葉を続ける。
「俺は、そんな詩織、そんな詩織の事がまるごと好きなんだよ」
 君本の声は力むことなどなく、穏やかに優しく、個室に満ちていった。
「・・・トシくんはいつも優しかったね。
 ずいぶん意地悪されたことあったけど、結局、トシくんはいつも優しかったもんね」
「意地悪は詩織だって負けてなかったぜ」
「ああ、ひどい!」
 頬を膨らませた詩織の表情に、病室内に二つの笑い声が溢れる。
 その笑いを収め、君本が言葉を続ける。
「イギリスに行ってもそれは変わらないよ。
 俺は詩織の事が好きだし、詩織は俺の人生の一部だ。俺はイギリスが遠いとは思わな
いし、それが障害になるとも思わない。
 もっとも詩織がそう思ったのなら、そうなんだろうね。
 想像するのも嫌だけど、いつか二人が距離なんかではなく、本当に離れ離れになる時
が来たとしたら、その時は・・・」
 そこまで言って、君本は肩をすくめる。
「その時は、またその時考えるさ」
 君本の表情は苦笑いに似たものになっていた。
「ま、逃げるわけじゃないけど、詩織の答えは詩織が退院してから聞くよ。
 とにかく今は、保留って事にしておきたいな」
 それは君本の提案と言うべきものだったのだろう。詩織もうなずく他はなかった。
「それじゃあ、俺もそろそろ帰るわ」
「うん」
 立ち上がる君本を詩織が呼び止める。
「トシくん」
「ん? 何?」
「毎日来てくれて、本当にありがとう。大変じゃない?」
 君本は肩ごしに微笑む。
「詩織の事を思えばこのぐらいなんでもないさ。それに・・・」
「・・・?・・・」
「毎日来ているのは吉野くんもそうだろ?」
「?!・・・そうね。将くんも毎日来てくれてるわ」
「今日は来てないのかい?」
「そうね。今日は来てないね。将くんにも色々都合があるもんね」
「そうか。・・・じゃあな」
「うん」
 詩織の返事を背中にし、君本は病室を出た。
 その時だった。
「?」
 足元にある花束に君本は気が付いた。
「なんで、こんなところに?」
 


 美里が身仕度を整えているところに将は帰って来た。
「お帰り」
「・・・ただいま」
「藤崎さん喜んでいた?」
「え?」
 やや突拍子もない美里の言葉に、将は戸惑ってしまった。
「え? じゃないでしょ。お花持っていったんでしょ?」
「あ、ああ」
「全く、いくらなんだって、いつもいつも手ぶらじゃ駄目でしょう?
 こういう事、本当に気がつかないんだから」
「ああ、そうだね」
 将の気のない返事に、美里が首を傾げる。
「どうしたの? 藤崎さん、具合よくないの?」
「いや、順調だよ」
「なら、どうしてそんなに浮かない顔してるのよ?」
 美里の言う通り、将の表情には冴えというものがまるでなかった。
 そして、美里の問いに将は直接は答えない。
「母さん」
「何?」
 将の真剣な声に、美里もそれにこたえる。
「俺の親父、つまり、古式さんってどういう人だった?」
「どういう事?」
「だから、・・・俺が生まれた時、古式さんには、その・・・」
 口ごもる将に、美里は手招きするような仕草を右手でして、次の言葉を促す。
「俺が生まれた時、て言うかその時、もうすでに奥さんがいたんだよね?」
 いかにも聞きにくそうに言った将に、美里は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「まあ、あまり自慢できたことじゃないけどね。確かにそうだよ。
 それで? 何かあったの?」
「え?」
「そんな事聞くからには、何かあるんでしょ?」
 さすがに親子という訳か、この辺りは美里にとって判りすぎるほどの事だった。
 観念しつつも将はためらいがちに美里に聞いた。
「奥さんがいながら、古式さんは母さんに、・・・その愛情を示してくれたのかな?」
 美里にとって、将の口から「愛情」などという言葉が漏れたこと自体が意外なことだ
ったがそれでも驚くというほどのものではなかった。
 感慨深げな表情で美里は将の質問に答える。
「考えてみれば将を生んだ時、私は今の将より年、若かったんだよね。・・・私もまだ子供
だったけど、それでも、私なりに古式さんのことを愛していたし、古式さんの愛情を感
じることが出来たわよ。
 あの人不器用だから、お金で、という所はあったけど、私を愛してくれたわ。
 もっともそれと同じように奥様も愛していらしたんだけど。
 男の人の中には、そういう愛し方が出来る人もいるのよね。もちろん、そんな事は許
せないって人もいるのは確かなんだけど」
 言葉の最後の方では、美里の表情は苦笑いに似たものになっていた。
「そうなのかもね」
 それは将にとっては実感は出来ないが、理屈では判ることだった。
「まさか、将がそうだって言うんじゃないでしょうね?」
「え? ち、違うよ!!」
「そう? ならいいけどね」
 美里は自分の左手首の時計を見た。
「それじゃあ、私、そろそろ行くね」
「うん。いってらっしゃい」
 美里を送り出して将は一人つぶやいた。
「そういう事もあるんだよな。人には・・・」



   ときめく時の中で(155)

  このときめきは忘れない(35)



 詩織は退院した。
 完治というわけではないが、後は自宅療養ということになったのだ。
 きらめき高校、テニス部内でも「一安心」という雰囲気が広がっていた。
 だが、それはそれで、また別の問題、というより詩織が入院したことで棚上げになっ
ていたものが再浮上してきた、と言うべきだろうか?
 結局、将、君本、そして詩織、この3人の関係は何一つ変わっていなかったのだ。
 だが、将に近い立場にいる人間の中には、将の様子がそれまでとは微妙に変化してい
る事に気付いている者が何人かいた。
 その中の内の一人が西島だった。

 練習を終え、身体を冷やさないようにウインドブレーカーを着込んでいるところに、
松島がやって来た。
「おう、どうした? テニス部幹部の松島さん」
「よせよ」
 冷やかすような西島の声に、松島はそう言って右手を振る。
 松島は2日前、連尺に言われ、幹部会議に加わる事になった。連尺は新入生を受け入
れる体制を整えているところだったのだ。
「で、真面目な話、なんの用だ、マツ? 何か聞きたい事があるんだろ?」
「あ、まあな。あのさ、サブCの様子、どう?」
「サブC? 吉野先輩? 絶好調だよ、怖いぐらいにね。ゲームをしたって全くかなわな
いよ。悔しいけどさ」
 西島は自分のバッグに荷物を詰めながら、松島に答える。
 松島がそれに対し、さらに問い掛ける。
「それだけじゃなくてさ・・・」
「ん? 言いたい事は判るよ」
 手を休め、西島が松島に向き直る。
「なんか、藤崎先輩が退院したあたりから、妙に明るくなったと言うか、憑き物が落ち
たって感じなんだよ。
 確かにそれまでだって、暗い表情をしてたり、不安げな素振りなんか見せちゃいなか
ったけど、・・・判るだろ? そう言うの」
 松島が肯定の意味を込めて2度ほどうなずくのを見てから、西島は続ける。
「ここ数日の変化には、俺も驚いたよ」
「藤崎先輩と何かあったのかな?」
「さあね。その現場に立ち会ったわけじゃないし、俺には何も言えないな。
 ただ吉野先輩の変化を感じただけだからな」
 しみじみと言った感じでそう言って、西島は休めていた手を動かし、バッグのファス
ナーを閉める。
 そのバッグを肩ごしに担いで、コートの出口に向かって歩き出した。
 松島がそれに続く。
「で、それがどうしたの? こういう類の話、マツは嫌いじゃなかったっけ?」
 その問いに、松島は右手の中指で、メガネの中央部を軽く押し上げながら、言葉を選
ぶようにゆっくりと答える。
「好きじゃないさ。
 でもね、テニス部における吉野先輩のウエートはでかいんだよ。
 そのデータ収集は必要だろ?」
「なんだよ。言い方が米津先輩に似てきたぞ」
 西島の言い方は、あからさまにからかうような口調だったが、松島は動ぜず、冷静に
答える。
「おそらく、連尺キャプテンが僕に求めているのはそういった事だろうからね、その期
待に応えようとするだけだよ」
「くあーーー!! さすが幹部は言う事が違うなあ」
 歩きながら大袈裟に両手を広げ、西島はおどけて見せた。だが、それも、松島の次の
言葉で遮られる。
「何言ってるんだよ。ニシだって、ひと事じゃないんだぜ」
「なんだよ、それ、どういう意味だよ?」
「キャプテンは、あと2人幹部会に加えるつもりらしいぜ。誰だと思う?」
 松島の声に西島は首を傾げる。
「ま、まさか・・・その内の一人が・・・俺?」
「そう。そしてもう一人は本郷だよ」
「いいいっ!! なんだよ!? それ!?」
「嬉しいだろ? 本郷と仕事が出来るんだぜ」
「ば、馬鹿野郎!! なんで俺が本郷と!?」
 慌ててそう答えた西島の表情は、すでに真っ赤になっていた。
「お、俺はなあ、今、女なんかにかまけてる場合じゃねえんだよ。
 それに、本郷の奴が吉野先輩1本だって事は、誰だって、よく知ってる事だろうが
!?」
 西島はむきになって反論したが、松島は全く動じない。
「まあ、そういう事にしとこうか」
「ああ、全然そう思ってないいいー!」
 握りこぶしを振り上げて悔しがる西島だった。
「でもさ、それがどうであれ、吉野先輩の影響は大きいことは認めるだろ?」
 松島の問いかけに西島は、面白くもなさそうに答える。
「ったく、誰が好きだの、そうじゃないのと、ここは浮かれたクラブだぜ」
 言葉そのものは辛辣だが、その口調はさして責めるようなものではない。
 松島が苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
「その中心にいる吉野先輩が、それによって良い影響を受けているんなら文句も言えな
いだろ?
 浮き足立っていたこともあったけど、総じて、いい影響の方が大きかったしな。
 ただ、これからもそう上手くいくとは限らないけど、その時にはキャプテンが泥をか
ぶるつもりらしい。
 実際、大した人だよ、連尺さんは。損な役回りを受けるつもりなんだから」
 ため息と共に言った松島に、西島も天を仰ぐ。
「本当の所、これからどうなるんだろうなぁ?」
「さあてな、こればっかりは第3者がどうこう言えるものじゃないからなぁ」
 同じように天を仰いで松島が答えた。



 きらめき高校内の様々な思惑を抱えながら、カレンダーの日付は進んでいき、2月の
最終日曜日となっていた。
 3年生にとって高校生活最後の日曜日となる。

 この日、君本は、自宅でイギリス留学のための準備を進めていた。
 何もかも初めてのことなので、戸惑うことばかりだった。
 そして、それだけでなく、詩織の様子も気にならないといえば嘘になるので、準備が
はかどらない事おびただしかった。
 手を休め君本は窓の外を見る。
 自室の向かいの家、カーテンの閉められた部屋には、詩織が寝ているはずである。
「・・・」
 声もなくそのカーテンを見つめていた君本だったが、鳴り出した電話に、ふと我に帰
った。
「誰だろう?」
 独り言と共にコードレスホンのスイッチを入れる。
「はい、君本ですが、どちら様ですか?」
 しかし、電話からは何も聞こえてこない。
(いたずらか?)
 一瞬、君本がそう思った時、ためらうような声が聞こえてきた。
『あの、如月ともうします。人思さんですか?』
「如月さん? あ、ああ、人思ですけど、どうしたの?」
『突然の事だとは思いますけど、今から、きらめき中央公園に来ていただけますか?
 ・・・いえ、ぜひ来てください。お願いします』
 それだけ言うと、一方的に電話が切れた。
 君本はコードレスホンを見つめながら思った。
(な、なんだ? 如月さん、どうしたんだ?)
 その理由の見当は全くつかなかったが、電話の様子から、放っておく訳にもいかない
と君本は身仕度を始めた。



   ときめく時の中で(156)

  このときめきは忘れない(36)



 高校生活最後の日曜日、思いがけず、如月に呼び出された君本は、如月の真意をはか
りかねていた。
 ほとんど一方的に、自分の用件だけ伝えた如月の電話の仕方は、普段の彼女らしくな
いものだった。
 それでも君本は、指定されたきらめき中央公園へとやって来た。
 春が近いとは言えまだ2月、吹きつける北風は、まだまだ冷たく、君本の体温を奪っ
ていった。
「ふう」
 身震いと共にため息を漏らした君本の背後から、如月が声をかける。
「あの、すいません。突然こんなところまで呼び出してしまって」
「如月さん? いや、いいんだよ・・・」
 その声に振り向きながら言った君本だったが、それも途中で中断される。
「・・・如月さん・・・」
 そう言ったきり、君本はしばらく、声さえ出すことが出来なかった。
 君本の視線の先にいたのは、如月本人に間違いはなかったが、記憶の中の如月の外見
と、今、目の前の如月との変化に君本は戸惑ってしまった。
「如月さん・・・眼鏡・・・」
 そう、今、如月は常にかけていた眼鏡をしていなかった。
 眼鏡というものはそれほど大きな物ではなく、普段からかけていると気にならなくな
るものなのだが、その存在がなくなるとその雰囲気は驚くほど変わる事がよくある。
 今の如月は、まさにその状態だった。
 もっとも、それだけならば、よくある事であり、言葉に詰まるほどの物ではないのだ
が、この時の如月の雰囲気は普段の物とは明らかに違っていた。
 そのため君本は、まず、何をどう言ったらいいのか、と悩んでしまったのだ。
「それでは、散歩でもしませんか?」
 君本の悩みを察したのか、如月が微笑みながら、これからどうするか、という提案を
する。
「え? ああ、そうしよう」
 反対する理由もなく、また、他に考えがある訳でもないため、君本はあっさりとそれ
に賛同した。

 二人が歩く並木道、両脇に並ぶ木々は、春を控えているという先入観からか、心なし
か真冬の頃よりも力強く見える。
 しばらくはお互いの近況だとか、これからの事などを話していた。
 卒業を間近にした寂しさと、新しい環境に向けての不安なども正直に語り合った。
 そして、ほんの少しばかりためらうようにして、君本が話題を変える。
「如月さん」
「はい、なんでしょうか?」
 君本の問いに如月が答える。
「眼鏡、・・・してないんだね?」
 それはまるで、お互い暗黙の内に了解していたかのように、避けてきた話題だった。
「・・・変ですか?」
「いや、そんな事はないよ。もとがいいからね」
 君本の言葉に、如月は思わず吹き出した。
「え? な、なんかおかしい事言った?」
 戸惑う君本に、如月が微笑みながら首を振る。
「そうじゃないんです。それと同じ事を私に言ってくれましたよね?」
 如月の言う事を、君本はほんのしばらく考え込んだ後、はっきりと思い出した。
「ああ、あの映画の時ね」
「ええ、そうです。感動して泣いてしまい、”眼鏡がないほうがいいですか?”
と聞いた私に、今と同じ事言ったんですよね。
 君本さん、覚えていてくれたんですね」
「当たり前でしょ。忘れるわけないよ」
 如月は口に手を当てて、はにかむように笑った。
「実は、コンタクトにしたの、君本さんのその言葉がきっかけだったんですよ」
「え?」
 正直言って君本には、如月のその言葉の意味は理解しかねた。
 それを説明するかのように、如月が続いて口を開く。
「君本さんが、あの時言ってくれた言葉で、私、コンタクトにしてみようかなって思っ
たんです。
 実は、君本さんがそう言ってから、3カ月後の春にはもうコンタクトを作っていたん
ですよ。
 でも、一時期、悩んだ事もありました。
 人から言われたから、眼鏡を外すのか? と」
 君本は如月の言葉を、ただ黙って聞き入るだけだった。
「私のお友達が言ったんです。誰かを好きになる前に、まず自分と言う人間を知りたい
って。
 本当にその人が好きかどうかは、それから考えたいって、言ったんです。
 私、それを聞いてから考えたんです。
 その時コンタクトにすれば、君本さんの気を引けたかも知れません。
 でも、それでは私の考えはどこにあるのか? 私という人間がどこにあるのかと考えた
ら自分が情けなくて、眼鏡を外すことが出来なかったんです。
 結局、答えを出すまでに一年近くかかってしまったんですけど、今は、確かに言えま
す」
 そこで一旦言葉を切る。
「誰かに言われたからではなく、私は自分でこれが自分だと言えるからこそコンタクト
にしたんです。
 そして、こんな私が言えること、それを、今日、言いたくて、突然呼び出してしまっ
たんです」
 君本は唾を飲み込んだ。一種独特の緊張感のような物を感じたのだ。
 その緊張感を打ち破るかのように如月が口を開く。
「後悔していないと言えば嘘になります。
 もっと早くこうしていれば、とも思います。
 でも、・・・でも私にはこれ以上のことは出来なかった。だから、せめて、これ以上後
悔したくないから、勇気を出します。
 君本さん、・・・私・・・」
「如月さん」
 だが、彼女の言葉は、君本の声に遮られた。
「もう、いいよ。それ以上言わなくても。
 何を言いたいのか判るつもりだし、それに、俺にはもう・・・」
 つらそうに言った君本だったが、対照的に、如月はにこやかな笑みを浮かべていた。
「ええ、それは知っています。でも、言わせてください。
 たとえそれが報われないことだとしても、私が私であるために、この想いは私自身で
生み出したという証のために、言わせてください。
 聞いてくれるだけでいいんです」
 君本は、ゆっくりと無言のままうなずいた。
「好きです。
 あなたの事をずっと好きでした」
 そう言ったきりうつむいてしまう如月だった。
「・・・如月さん・・・」
 そんな如月に気の効いた台詞をかけることも出来ず、彼女の名前を呼ぶだけの君本だ
った。
 そして、ただ一言だけを口にする。
「・・・ありがとう・・・」
 君本の言葉を聞いた如月が顔を上げる。
 その表情は君本が想像していた物とは全く違う、本当に晴れやかなものだった。
「今日は本当にありがとうございました。
 これで帰ります」
「・・・ああ」
 頭を下げ、そう言った如月に、君本はそう答えるのが精一杯だった。
「それでは」 
「うん。それじゃ」
 右手を振り、振り向き歩き出す如月を、同じように手を振り見送るだけの君本だっ
た。



 きらめき中央公園の出口で、如月の足が止まった。
 如月の前に、一人のショートヘヤーの少女が手を後ろで組んだ姿勢で立っていたの
だ。
「優ちゃん」
 如月の声に、その少女、四本松が質問の形で答えた。
「ちゃんと言えた?」
 主語や述語を大幅に省いた四本松の質問だったが、その意味は充分通じた。
 如月は言葉にはせずに、大きくうなずいてその答えの代わりとした。
「そう、頑張ったんだね。勇気を出せたんだね」
 四本松の感想に、如月が多少苦みを含ませた笑顔で答える。
「遅すぎたのは事実だけど、これが今の私の精一杯よ」
 今度は四本松の方が、声に出さず、うなずいた。
 その四本松の手を取り、如月が彼女にしては珍しい、悪戯っぽい笑顔と共にこう言っ
た。
「それじゃあ、行きましょう。 今日は優ちゃんのおごりですもんね」
「うひゃーー!! お手柔らかにね。未緒ちゃん」
 明るく笑う四本松。
 今の如月には、その四本松の笑顔は何物にも代え難いほど貴重なものだった。



   ときめく時の中で(157)

  このときめきは忘れない(37)



 高校生活も残り少なくなった3年生の間では、カップルの数が急増していた。
 その理由は色々ある。
 それまで秘かに付き合っていたのだが、ここに来て公にしたカップルもあるし、卒業
を控え、勇気を振り絞って告白したものもある。
 また、お互い意識しあってはいたものの、素直になれず、「友達以上恋人未満」の間
柄だった者達もいた。
 だが、このままでは、と思い立ち、一方が折れる。そうすると、それまで意地を張っ
ていたのが嘘だったかのように、急速にその距離を縮めたカップルがいた。
 朝日奈と好雄の2人もそんなケースだった。

 
「ったく、お兄ちゃんも素直じゃないんだから。誰がどう見たって、朝日奈さんとだっ
たらお似合いだと思うのに、つまらない意地張っちゃってるもんだから、こんなに卒業
間近になるまで、恋人同士になれなかったのよね」
 いつものように、昼休み教室で、将、和人、優美、そして四本松の4人は昼食をとっ
ていた。
 その中で、お弁当をぱくつきながら、優美は将達に朝日奈と好雄の事を、本当に、事
細かに話した。
 もっとも、将達はそれほど2人を知っているわけではなかった。
 辛うじて将だけが、「姉さん・・・、古式さんから、朝日奈さんの話だけはよく聞く」
と言う程度だった。
 普通、自分の知らない人間の話をされても、おざなりになりがちである。
 だが、将達は優美の話をちゃんと聞いていた。
 それは、優美が本当に嬉しそうに、2人の事を話したからだ。
 優美が一通り話し終えると、四本松がにっこりと微笑みながら言った。
「優美ちゃんは本当にお兄さん思いなのね」
「ちょ、ちょっとやめてよ、優ちゃん! な、何で私があんなバカ兄貴のことを!?」
 優美は必死になって反論を試みるのだが、当の四本松にはもちろん、和人や、果ては
将にまでニヤニヤと笑われては、自らの旗色の悪さを認めざるをえなかった。
 照れくささで顔を赤らめながら、優美がささやかな抵抗を示す。
「苦節18年、日の当たらない場所を歩いてきたお兄ちゃんに、初めて、
 初めて、彼女が出来たのよ」
 ”初めて”と言う部分を、意識的に強調する優美だった。
「その初めての彼女が、朝日奈さんって言うんだから、かわいい妹の私としては、祝福
するのが当たり前と言うもんでしょ?
 朝日奈さんのような素敵な人が、これからお兄ちゃんの前に現れるとは、到底思えな
いもんねえ」
 そうとうひねくれた物の言い方だが、ある意味彼女らしい物でもあったので、将達と
しても「はいはい」と笑ってうなずくしかなかった。
 この時、優美の心には、
(優美は失恋しちゃったけど、その分、お兄ちゃんには、朝日奈さんと幸せになっても
らいたいもんね)
と言う心理が働いていた。
 何となくではあるが、それを感じとることが出来た将達は、優美の言葉を聞く事が、
彼女の手助けになると思っていたのだ。
 それからしばらくの間、将達は優美から朝日奈と好雄のエピソードを聞くことになる
のだった。



「何よ、よっくん。風邪?」
 ちょうど同じ時刻、校内の中庭、風の来ない日溜まりで、派手なくしゃみをした好雄
に、その横に座っていた朝日奈が、心配半分、そしてからかい半分、と言った口調で聞
いた。
「う、うん。誰かが噂してるんだろうなぁ」
「よっくんの噂するなんて、どんな人だろうね?」
「きっと、すごいかわいい女の子に違いないぞ」
「どの口がそんな失礼なことを言うのよ」
「いてててて」
 朝日奈に口の横の頬をつままれ、好雄は小さな悲鳴を上げる。
「まーーたっく、こんなに可愛い彼女がそばにいるっていうのに、そういう事を言う?
 よっくんは?」
「可愛いかどうかはおいとくとして、マナー違反には違いないな。ごめん」
「うーー。なんか一言多いぞ! まあ、良しとしておくけどさ」
 完全に納得したわけではないにしろ、攻撃の矛先を収め、朝日奈は話題を変える。
「ところで、その後、優美ちゃんはどうなんよ?」
 朝日奈の向けた質問に、好雄の表情が引き締まる。
「元気だよ。・・・少なくとも、俺の前ではな・・・」
「・・・そっか、それでもよっくんの前では元気でいるのか。・・・いい事じゃん」
「いい事なもんか。から元気なのは見え見えじゃないか」
「から元気も元気の内よ。どうやら優美ちゃんも大丈夫のようね」
 朝日奈にそう言われ、好雄の表情が穏やかなものに変わる。
「知ってるか?ひな」
「ん? なにを?」
「優美、この一年で驚くほど料理上手になったんだぜ」
 朝日奈は無言でうなずいた。そして、彼女には、それが何を意味しているかと言う事
も判っていた。
「優美ちゃん、本気だったんだね。トシくんのために、一生懸命頑張ったんだね・・・」
「ああ、優美はトシのために頑張ったんだよ。だけど、トシは・・・」
 好雄には、それ以上言葉を紡ぎ出せなかった。朝日奈もそれ以上聞き出そうとはしな
かった。
 朝日奈が、まるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「でも、優美ちゃんもいい恋をしたよ。ううん、そう思いたいな、私は」
「当たり前だ、相手はトシだぞ。あいつはいい奴だ。俺が言うんだから間違いない。
 優美はいい恋をした。いい恋をしたんだ」
 そう言った好雄もまた、自らに言い聞かせるかのような口調だった。
 しばらくの間、朝日奈も黙っていたが、やがて、意外な、そう、好雄にとっては意外
なことを口にする。
「今だから言うけどさ、私、トシくんの事、いいなって思ってた事あったんよ」
「何!?」
 好雄の表情が険しい物になったのを見て、朝日奈は慌てて付け加える。
「ああん。だからぁ、過去形だってば。
 トシくん、あの頃から人気あったでしょ? 私、そう言ったどろどろしたの嫌だった
しぃ、よっくんがそばにいたからね」
「どうせ、俺は女子には人気なかったよ」
 顎に手を当てて好雄はあさっての方を向いた。それがすねた素振りだという事は、明
白だった。
「ああ、もう、すねないでよぉ。
 いいじゃない、私がよっくんの事を好きなんだから・・・」
 そこまで言って言葉に詰まる朝日奈に、好雄が顔を向ける。
「ひな・・・」
「や、やだ。わたしったら、何を言ってるのよぉ」
 真っ赤になった両頬を、両手で押さえる朝日奈に、好雄は照れくさそうに微笑みなが
ら答える。
「そうだよな。朝日奈がいてくれるんだから、それで十分なんだよな」
 2人は、まるで照れ隠しをするかのように 同時に笑った。
 ひとしきり笑ったあと、真剣だが、照れくささを含ませた表情で朝日奈に言った。
「これから、よろしくな」
「うん。優美ちゃんにとって、いいお手本になろうね」
 朝日奈はそう言ってクスッと笑った。



 今度は優美が小さなくしゃみをした。
「ちゃあ。誰かが優美の事、噂してるな。きっと、素敵な男の子に違いない」
「まあ、そういう事にしておこう」
 そう言う和人に、優美が鋭い視線を向ける。その口が開かれる前に、四本松が割って
入る。
「そうよね。誰か素敵な男の子が、優美ちゃんの事見てるかも知れないもんね。
 それで、噂してるかも知れないよ」
「優ちゃんがそう言ってくれると、優美嬉しいな」
「まあ、この世の中、意外なことは数知れないからな」
 和人の言い方は、いちいち素直ではない。だが、これが和人なりの気の使い方だった
のである。
 優美は決して口にすることはなかったが、和人や四本松、そして人の事に気を使う余
裕などないはずの将、3人のその心遣いが励みになっていることは、間違いのないこと
だった。



   ときめく時の中で(158)

  このときめきは忘れない(38)



 昼休み、連尺が3−Aの教室へとやって来ていた。
 間近になった卒業生の送別会の打ち合わせのため、詩織、元城と廊下で話し合ってい
た。
「それじゃあ、お二人とも参加ということでいいんですね?」
 連尺は二人に出欠席の確認をした。
「キャプテンの俺が行かなきゃ、連尺だって困るだろ? 藤崎だって参加だよな?」
 元城にそう言われ、詩織は答える。
「え? ええ、もちろん、私も参加するわ」
 にこやかにそう言ったものの、連尺はそこに「義務感」という言葉を感じとってし
まった。
「あの、お身体の調子が悪いようでしたらいいんですよ。無理はしないでくださいね」
 心配げに言った連尺に、詩織は首を振って答える。
「まだ、多少は不安あるけれど、当日までには完治するわよ。
 それに受験だって乗り切れたんだもの、大丈夫よ」
「そうですか?」
 連尺には多少の不安はあったものの、詩織にそう言われては、それ以上言葉を返すこ
とは出来ない。

 詩織は退院して自宅療養をしていたが、受験の日には完治とまではいかないが、かな
り復調していたため、なんとか試験を終えることが出来た。
 結果はまだ不明だが、自己採点では合格点は出すことが出来たらしい。

 連尺としてはそれ以上聞くことは出来ず、二人の返事を確かめていた所へ、一人の女
生徒がやってきた。
「あ、元城くん」
「お、なんだ紐緒か、なんだ?」
「今日、帰りによる所があるから、予定、空けておきなさいね」
「ああ、わかった。校門の所で待ってるけど、それでいいか?」
「それでいいわ。万が一忘れたら、どうなるか知ってるわね?」
「知ってるって。・・・悪いけど、今、部活のことで打ち合わせ中なんだ。
 後でな?」
 片手を顔の前に上げ、拝むように頭を下げる元城に、多少不満そうだが、紐緒も納得
したように言った。
「それじゃあ、放課後に」
「ああ」
 元城が答えると紐緒はその場を立ち去っていった。その後ろ姿を見送って、いかにも
意外だというような表情で連尺が言った。
「元城先輩が、紐緒さんと付き合ってるって言うの、本当なんですね?」
「連尺も意外だと思うか?」
「い、いえ、そんな・・・」
 慌てる連尺に元城は声を上げて笑う。
「はははは。顔に書いてあるぞ」
 連尺は思わず、両手で両頬を抑える。その姿に元城の表情が苦笑いに変わる。
「まあ、いいさ。俺と紐緒が付き合ってると聞いて驚かなかったのは、藤崎だけだから
な。連尺がそう思うのも無理はないって」

 元城と紐緒が付き合ってるということが公になったのは、2月の入ってからのことだ
った。
 実は、二人が付き合っていたのは昨年の秋頃からなのだが、ある日、二人が並んで、
電気街を歩いているところを目撃されたのである。
「なんで隠していた?」
 という質問に、元城が、
「あれ? 言わなかったっけ?」
 と、とぼけて答え、紐緒は、
「第三者に報告する必要も義務もないわ」
 と至極まっとうな理由を言ったものである。
 それは、ちょっとしたニュースとなって校内を駆け巡った。なにしろ、紐緒と元城と
いう組み合わせは、意外と言うべきかなんと言うべきか、ともかく想像し難いものだっ
たのだ。
 そんな中、詩織だけはそれを聞いても平然としていた。
「だって、二人の雰囲気が良かったこと、ずっと前から知っているもの」
 というのが詩織の弁である。
 考えてみれば、テニス部と電脳部の関係は深い。
 データや練習メニューの管理をパソコンでするというテニス部の方針を、全面的にバ
ックアップしたのが電脳部である。
 その直接のパイプ役をしたのが、他ならぬ紐緒と元城なのだ。
 そう考えれば、決して突拍子もない取り合わせではないのだが、うすうす感じていた
詩織以外は、だれも思いもつかなかったのだ。
「どこがいいんだ?」
 という、考えようによっては失礼な質問にも、元城は平然と答えた。
「美人だからな」
 そして紐緒も冷ややかに答える。
「答える必要はないわね」
 だが、その表情には、それまでには見たことのない成分が含まれており、
(なんだ、結構お似合いじゃないか)
 という印象を与えたものだった。

「それじゃあ、失礼します」
 そう言った連尺に詩織が答える。
「ええ、よろしくね」
「はい」
 自分の教室に帰ろうとした連尺を、元城が呼び止める。
「あ。連尺」
「はい、なんでしょう?」
「・・・頼むな」
「・・・はい」
 肩ごしにコクリと肯き、連尺は再び歩き始めた。
 その背中を見送り、詩織が元城に問いかけた。
「なあに、元城くん。何か意味ありげな会話ね?」
 元城は頭をかきながら、照れくさそうに答える。
「いやあ、卒業したあとの事、やっぱり心配だからな。
 まあ、連尺に任せておけば安心なんだけど、それでも、やっぱり声をかけたくなくな
ってしまうんだよ。
 俺も心配性なんだけどな」
 それなりに、その心理がわかるので詩織はうなずく。
 そして詩織は、あえて話題を変える。
「それにしても、紐緒さんと元城くんというのは、みんな意外なのね」
「藤崎ぐらいだよ。
 ”へー、やっぱりね”
 なんて平然としてたのは」
 詩織はクスクスと笑う。
「前から、そうなんじゃないかな? とは思っていたしね。
 こういう事は、人がどうこう言える事でもないから」
「まあ、そりゃそうだけどね」
 元城も笑い顔になっていたが、それは多少ひきつったものになっていた。
「端から見てると、じれったいというか、放っておけないって事もあるんだよ。
 おせっかいって言われればそれまでなのかも知れないんだけどね」
 後半の部分はどちらかと言うと独り言に近いものになっていたので、詩織は聞き取る
ことが出来なかった。
「え? なあに?」
「いや、たんなる独り言。気にしないで」
「そんな事言ったって、気になるわよ」
 やや不満げな詩織の表情に、元城は教室に戻りつつ答える。
「ま、そう言うなって」
 そこまで言って、元城は振り向く。
「いや、やっぱり言っておこう。今だから言えるんだけどな」
 そして急に小声になる。
「紐緒も知っていることなんだけど、俺、藤崎のこと好きだったんだぜ」
 意表を突かれた表情の詩織だったが、どういう表情をしたらいいのか悩んだ挙げ句、
やや、真面目な表情になって聞いた。
「過去形なの?」
「異性としては過去形だけど、友人としては現在進行形だな。
 だから今だから言えるんだし、心配にもなるのさ」
 元城の浮かべた笑顔は、自信のようなものが含まれていた。
 それを見て、詩織も笑顔になる。
 元城は直接的な表現を使わなかったが、何を言ってるのか、詩織はわかるつもりだっ
た。
「ありがとう。・・・てお礼を言うべきなのかな?」
「いーや。単なるおせっかいだよ」
 元城は右手を上げて、教室に戻っていった。
 詩織もしばらくうつむいていたが、予鈴をきっかけにして教室に入っていった。



   ときめく時の中で(159)

  このときめきは忘れない(39)



 午後の授業が終わり、掃除当番になっている生徒達が掃除をしている中、校庭を眺め
ることのできる土手の中ほどに、学生服姿の将は腰を下ろしていた。
 部活へ行くまでのわずかな時間ではあるが、何をするわけでもなく、グラウンド整備
をしているサッカー部や野球部の部員たちの姿を眺めていた。
「将先輩! こんなところで何をしてるんですか?」
 将の名を呼ぶ、聞き覚えのある声に将は振り向く。
「・・・南か」
 土手の上、セーラー服姿の本郷が、将を見下ろすように立っていた。
「クラブ、行かないんですか?」
 本郷の問いかけに、将は笑いながら答える。
「ああ、行くけどね。ちょっと、一休みしてたの」
「こんな寒いところでですか?」
「いいじゃないか。どこで休んだって」
「そ、それはそうですけど」
(そんな言い方しなくたって)
 困ったような本郷の表情に、将はやはり、笑いながら立ち上がる。
「ごめん、ごめん。言い方が悪かったな。
 ちょっとここには思い出があってね。ふと、座り込んじゃったのさ」
「?」
 ”思い出”と言う単語に、本郷は戸惑った。
(こんな場所に、何かあるのかな?)
 本郷は知らない。ここは将と詩織が初めて会った場所だということを。
 本郷の疑問には答えず、将は本郷のかたわらを通り、テニス部の部室へと向かう。
「・・・じゃあ、行こうか」
 将が振り向きそう言うと、本郷もうなずき、将の後を追う。
 そして、小走りに将のすぐ後ろにつき、本郷は言った。
「でも、良かったですね。詩織先輩、元気になって」
「・・・ああ、そうだね」
 だが、そう答える将の声には先程までのような覇気はなかった。
「あの、先輩?」
「ん? なんだ?」
「・・・結局、詩織先輩、なんの病気だったんですか?」
 その質問に将の足が止まる。
 そのまま振り向き、将は本郷に聞いた。
「なんで、そんな事が気になるんだ?」
 やや厳しさをともなった将の声に、本郷の脊髄に緊張感が走る。
「あ、あの、もう、元気になったんですから、いいんですよね。
 す、すいません。変な事聞いちゃって。忘れてください」
 本郷はそう言ったが、将はさらに聞いた。
「そうじゃないだろ。なにか聞きたい事があるんじゃないのか? 本郷?」
 一転して優しい口調となった将に、本郷もうなずく。
「私、詩織先輩にひどい事言っちゃたんです。
 その数日後、倒れたって聞いて、・・・私・・・」
 一瞬、ためらった後、本郷は思いきるように言った。
「詩織先輩が倒れたのは、私のせいかも、と思っちゃたんです」
 本郷の真剣な表情につられるように、将も表情を引き締める。
「・・・あの時・・・か?」
 ”あの時”それは本郷が詩織の家に駆け込み、将との事を責めたときを意味する。
 将はその時の事を詳しく知っているわけではないが、そのわずかばかり前、本郷の様
子からある程度の予測はできた。
「はい」
 本郷の返事に、将は首を振る。
「そんな事あるわけないだろ?
 南がそんな事を気にする必要はないよ」
 だが、その将の声を本郷はそのまま受け止められなかった。
「先輩、嘘ですね?」
「何? なんでそんな事言える?」 
「だって、将先輩、嘘がつけないんだもん」
 にこりと笑いながら言った本郷に、将は顔色を失いうつむいたが、すぐにその顔を上
げる。
 そして、悟ったような表情で振り向き、そのまま部室へと歩を進める。
「?」
 本郷は疑問に思いながらも、その後に続く。
「なあ、南」
「はい?」
「やぎのジレンマっていうの、知ってるか?」
「やぎの、ジレンマ、・・・ですか?」
 疑問の表情の本郷に将は続ける。
「空腹のやぎの前に、二つの草の山があった。
 鎖でつながれてはいるが、長さは充分ある。なのにどちらの山も、やぎは食べようと
しなかった。
 なぜだと思う?」
「?」
 本郷にその答えは全く思いつかなかい。
 その本郷に、歩く方向を見つめながら、将はその答えを言った。
「その二つの山は全く同じものだったのさ。
 やぎからの距離、草の色、量、そして山の形まで全く同じものだった。
 やぎはその二つの山、どちらも選ぶことができなかった。
 どちらかを選べばいいと思うだろ?
 だが、やぎにはそれを選ぶことができなかった。あまりにも同じすぎて、優劣をつけ
られなかったんだ。
 ・・・そして、やぎは餓死した」
 将の冷酷な口調に本郷は息を飲む。
「ずっと前にこの話を聞いたときには、そんな馬鹿な話と思ったんだけど、今になって
それが実感できるよ。
 そのやぎの事がわかるような気がする」
「・・・先輩・・・」
 本郷は言葉を失った。
 そして二人は無言のまま、部室の近くへとやって来た。

「こんにちは。将先輩」
「ああ、こんにちは。連尺は?」
「はい、部室にいらっしゃいます」
「そう、ありがとう」
 そんな風な挨拶と連絡事項を後輩たちと交わし、将は部室のドアの前に来た。
 そして将がそのドアに手をかけた時、本郷が声を発した。
「先輩」
「ん?」
「ひょっとして、そのやぎの話って・・・」
 言葉に詰まった本郷に、将は何も答えず、静かに瞳を閉じるのみだった。
「先輩・・・」
 本郷もまた、何も言えずにたたずむだけだった。



 その少し前、元城は古式の教室で彼女と話し込んでいた。
「まあ、その様なことを、元城さんは、考えていらしたのですか?」
 それなりに免疫はできているとは言え、古式のいつもながらのゆったりとした口調
に、元城は精神的に2、3歩つんのめっていた。
(結局このままだったなあ、古式は)
 内心でそんな事を考えながら。
 元城の、そんな内心などお構いなく、古式は続けた。
「それで、それを、どうして私に、お話ししてくださったのですか?」
 古式の質問に、元城は我に帰ったように表情を変え、それに答える。
「あ? ああ、連尺が古式にだけは話した方がいいって言ってな。
 古式が反対するなら、やめるべきだってな。・・・理由は全然判らないんだが、連尺が
意味もなく、そんな事を言うわけないからな。
 で、どう思う?」
「どう思う、と申されましても、元城さんとみゆきさんが、そういう事ならば、私とし
ても、反対する理由はございませんよ」
 古式はにっこりと微笑むのだが、元城の表情はどう見ても、釈然としない物となって
いた。
「どうなされたのですか?」
「いや、連尺がそう言ったから、古式に話したんだが、その理由が判らなくてな」
「それならば、私も同じですよ」
「何が?」
「どうして、元城さんが、そんな事を考えられたのか、私には判りかねます」
 古式の言葉に、元城は苦笑いと共に頭をかく。
「俺は、吉野についたからな。おせっかいと言われればそれまでなんだが」
「そうですか・・・」
 やはりにっこりと微笑む古式に、元城は前々から思っていた疑問を投げかける。
「あのな、古式?」
「はい、なんでしょうか?」
「卒業間近だから聞くんだが、古式は、吉野のこと、好きなんじゃなかったのか?
 それで、連尺は古式に話せと言ったのかな? と思ったんだ。
 本当の所、どうなんだ?」
「はい、好きですよ」
「・・・す、好きって、そんなあっさり・・・」
 あまりにも平然と古式が答えたので、元城としても呆気に取られてしまう。
 しばらくは茫然としたままだったのだが、首を振り、表情を引き締め古式に聞いた。
「いいのか? 止めなくても?」
「将くんのことを思って、してくださるのでしょう?
 止めることなど、できるはずがありません」
 古式の変わらぬ笑顔を見て、元城は大きくため息をつく。
「なにやら、事情がありそうだが、まあ、今は聞かないでおこう。
 といっても、今日を含めてあと3日しか高校生活は無いんだが」
 元城の言葉に対し、古式は、やはりにっこりと笑いながらうなずいただけだった。



   ときめく時の中で(160)

  このときめきは忘れない(40)



 きらめき高校は、卒業式を翌日に控えていた。
 卒業式の予行演習等があり、その後、各クラブでは3年生の送別会が行われていた。
 テニス部もその例外ではなく、各コートでは3年生の送別試合が行われていた。
 将は3年生からの対戦希望が多かったのだが、ともかくそのカードを全て終えた。
 汗をふきながら、身体を冷やさないようにウインドブレーカーを着込んでいる将を、
遠くから眺めていた連尺が、その横にいた元城と視線をあわせてうなずく。
 そして将のそばに近づき、小さな声で言った。
「お疲れさま」
「まあね。多少はね」
「更衣室が埋まってるから、部室で着替えて来れば?」
「え? いいよ。試合を見ないと」
「駄目よ。これで体調崩したらどうするの? 行ってきて。
 それで少し休んで来て。すぐに来なくてもいいからね。
 こっちはなんとかしておくから」
 連尺の言葉を不思議に思いながらも、言われるままに部室へと向かった。

 将は部室に入り、予備のウエアに着替える。
 着替えが終わると、将は椅子に腰掛け一つ大きなため息をついた。
(明日はもう卒業式か・・・)
 そんな事を考えていると、ドアをノックする音が部室に響く。
「はい。誰?」
「・・・将くん、着替え終わった?」
「詩織先輩?」
 ドアの向こうから聞こえてきた詩織の声に、将は無意識の内に椅子から立ち上がって
いた。
 

 連尺が将に近づき、何やら話し込み、将が部室に向かっていくまでの一部始終を、詩
織はコート内の離れた場所で見ていた。
「気になるか?」
「え? べ、別にそんな事ないわよ。
 将くんとみゆきさんはテニス部の首脳なんだもん。何か打ち合わせをしていたんで
しょ」
「俺は別に、将のことが、とは言ってないぜ」
「!?・・・、もう、元城くんったら」
 やや不機嫌そうな詩織の声に、元城は多少ひきつったような苦笑いを浮かべる。
 だが、その表情を引き締め、あえて詩織の方には視線を向けず、空を見上げながら、
まるで感情のこもっていない口調で言った。
「今、将は一人で部室にいるぜ」
「え?」
 詩織には元城が何を言っているのか、全く理解できなかった。
「判らないか。
 ・・・言っただろ、おせっかいだって」
「元城くん?」
「なんだかんだで、ここ最近、将と二人だけで話し合ったことないだろ?
 状況はともかく、その機会だけは作ったわけ。
 せいぜい10分か20分ぐらいしか時間はとれないだろうけど、これをどう利用する
かは、藤崎次第だ。
 将はこの事を知らないから、何もしなくても構わないし、話し合うのもいい。
 今の気持ちを言うのもいい。
 結論が出ていないんだったら、それを正直に言ってもいい。
 藤崎なら自分で決められるだろ?」
 元城の言っている意味を理解することができた詩織だったが、そのまま行動をおこす
ことはできなかった。
「そ、そんな事言ったって、突然すぎるわよ」
「人生なんて、いつだって突然さ。俺がキャプテンにされた時だって、めちゃくちゃ
突然だったぜ。
 ま、後は任せたよ」
「みゆきさんと話していたのはこの事なのね?」
「ああ、連尺はあまり乗り気じゃなかったみたいだけど、まあ、半ば、無理やりお願い
したみたいなところがあるんだけどね」
「・・・本当におせっかいね」
「ほめ言葉と受け取っておこう」
 あっさりとそう言った元城に、多少呆れたような表情になりながら、詩織は首を振り
ながら言った。
「なんか、複雑な心境で、素直にお礼は言えないんだけど、・・・でも、やっぱりお礼を
言った方がいいのかな」
「単なるおせっかいだってば」
 ニヤリと笑って元城は、その場から立ち去っていった。
 その後ろ姿を見送った詩織だったが、やがて
「よしっ!」
 と、小さな気合いを口にしてコートを出ていった。

 だが、実のところ、詩織は部室の前でも少なからず迷っていた。
 それでも、自らを奮い立たせるかのように部室のドアをノックしたのだった。



 ドアを背中にして、詩織は将と向き合っていた。
「どうしたんですか? 先・・・」
 先輩と言いかけて、将は言い直す。
「詩織さん」
 ”どうした”と問い掛けたものの、詩織から伝わる雰囲気を、将は感じとっていた。
 だからこそ、名前で言い直したのだ。そして内心では、
(はかったな、連尺)
  と思っていた。
 ある程度それは好意的な感想だったが、同じく内心で、舌打ちもした将だった。
 それは詩織としても同様であり、自分が何をどう言えばいいのか躊躇していた。
「・・・調子、よさそうね」
 やっとのことで口にした台詞は、およそ、その場の雰囲気に似つかわしくないものだ
った。
 将は、少し苦みを含んだ笑いを浮かべて答える。
「ええ、なんとか」
 あまりにも短い将の答えに、詩織は次の言葉を上手く生み出せなかった。
 その姿を見て、困ったようにもとれる表情で将は続けた。
「何かお話があるんですよね?」
「え? ええ。本当はそうなんだろうけど、私も何を言ったらいいのか、正直なところ
判らないのよ。
 元城くんに、うまくのせられてね」
 詩織の言葉に、将は思わず笑い声を上げてしまった。
 呆気に取られている詩織に気付き、将は笑いを収める。
「なんだ、詩織さんもそうだったんですか。
 連尺と元城さんが仕組んだんですね?」
 将の笑いの意味が理解できた詩織は、将と同じ種類の笑顔を浮かべる。
「・・・ええ、どうやら、そうみたいね」 
 将は笑いながら、詩織に椅子をすすめる。
「座りますか? 立ったまま、と言うのもなんですから」
「ええ、そうね」
 将の横に詩織が座りる。
 そして小さなため息と共に、遠くを見るような目で言った。
「早いよね。もう、私も卒業なんだよね」
「そうですね。今思えば早かったですね、この2年。あっと言う間でしたよ」
「私もよ。将くんと初めて会ったのが、ついこの前の事のような気がするわ」
 その声に将の表情が寂しげなものになった。
「もう、俺も3年生ですから。そして、詩織さんとも、もうそんなに簡単には会えなく
なりますね」
「そんな、・・・そんな寂しいこと言わないで」
「事実ですよ」
 将の言葉は、詩織の心に、事実を事実として突きつける響きがあった。
「でも、たまには部の方に顔を出してください。いつでも構いませんから」
「将くん、・・・どうして? どうしてそんな事言うの?」
 戸惑う詩織に、将は続ける。
 その表情には笑顔さえ浮かんでいたが、口調には沈痛な成分が含まれていた。

「それは、詩織さんの心が、・・・君本さんに向いているからですよ」



   ときめく時の中で(161)

  このときめきは忘れない(41)



「それは、詩織さんの心が、・・・君本さんに向いているからですよ」
 将の言葉に、詩織は精神的に打ちのめされた。
「そ、そん・・・」
(そんな事、ないわ)
 詩織はそう言おうとしたが、それ以上何も言えなかった。
 将の言った事、それは、詩織は思いもしていなかったことだった。将に言われても、
素直には同意はできないものだった。
 だが同時に、詩織が知らないでいた断面を見せつけられる思いがしたのも、また、事
実だった。
 語るべき言葉を見つけられない詩織に対して、定まらぬ焦点のまま、部室の天井を見
上げながら将が言った。
「いや、上手く言えなくて、俺自身も歯がゆいんですけど、・・・」
 その視線をずっと下げ、今度は自分の足元を見る。
 その姿勢のまま、言葉を続ける。
「きっとそうです。
 詩織さんにとって、君本さんはなくてはならない人なんですよ」
 そして、将は顔を上げ、詩織をまっすぐに見つめる。
「君本さんは、詩織さんの一部なんですよ。
 いくら俺が頑張っても、詩織さんと君本さんが重ねてきた日々を、覆すことなんてで
きません」
「・・・将くん・・・」
 自分が何を言うべきか思いつかず、詩織は将の名を呼ぶだけだった。
「俺、こんなに人を好きになったの初めてだし、詩織さんがそばにいなくなったら、と
想像するだけで息苦しくなるんだけど、・・・俺のせいで、詩織さんが苦しまなくちゃな
らないのなら、その方がつらいですよ。
 俺は、俺の想いで詩織さんを苦しめたくないんです」



「きっと将くんは、そんな事を言うでしょうね」
 コートと部室を結ぶルート。その途中の部室からやや離れた場所で、連尺は横に立っ
ていた元城に言った。
 事を仕組んだ二人は、邪魔が入らないように部室を見張っていたのである。
 その間、「どうなると思う?」と聞いた元城に、連尺は今まで自分が考えていたこと
を口にした。
 もちろん、二人には確かめようがないことなのだが、驚くべきことに、それは、部室
の中で起きていたことを、ほぼ言い表していた。
 元城は頭の後ろで手を組み、多少呆れたように言った。
「まあ、将は自分のことより、まず、まわりに目を向ける方だからな。
 それに、優しい奴だし、それは充分考えられることだよな」
 だが、それに対する連尺の答えは手厳しいものだった。
「それは優しいんじゃなくって、弱いんですよ」
「連尺?」
 思いもよらなかった連尺の言葉に、元城は戸惑った。
「厳しいな」
「そうですか?
 人を好きになるって事は、つらい事や悲しい事も抱え込むことだと思うんです。
 それを投げ出してしまうのはやっぱり弱さでしょう。
 ただ、私としては、まだ、将くんにも未完成な部分がある、と考えてるんですけど
ね」
 今、どんな表情を浮かべるべきか判らない連尺は、やや笑顔の成分を含ませながら、
あきらめたような表情になっていた。
 元城はその表情を見て、フッとした笑いを浮かべた。
「・・・でも、そんな将が好きなんだろ? 連尺は」
「!?」
 不意を突かれ、連尺の表情が強ばる。少し、責めるような視線を元城に向け、言葉を
返す。
「そうと知りながら、私に手伝わさせたんですね?」
「悪いとは思ってるんだけどね。それでも、他に任せられる人間いなかったからな。
 憎まれ役は俺の本意じゃないんだけどな」
「確かに、そうじゃなかったら、私も引き受けませんでした。
 それに、・・・そういう未完成な所があるから、私にも将くんを手伝える部分があるん
です。
 そうでなかったら、私には何もできませんから」
「そんな将が好きなわけだ」
 同じ質問を繰り返した元城に、やや、ためらいながら、連尺はうなずいた。
「・・・はい、その通りです」
「・・・損な役回りだな」
「元城先輩が押しつけたんですよ」
「ああ、そうか、・・・すまん」
「いいんですよ。私も納得していることですから」
「・・・そうか・・・」
 二人は申し合わせたように、同時に部室の方に視線を向けた。



 将は今まで感じてきたことを、詩織に話していた。
「君本さんは、詩織さんの一部なんです。
 その君本さんを失うことが、・・・できますか?」
 将の問いかけに、詩織は答えることができない。
 ただ沈黙を守り、うつむくだけだった。
「詩織さんが、俺の事を思ってくださったことは、とても嬉しいし、何物にも代え難い
ことだと思っています。
 でも、それは、君本さんがいたからです。
 きっと、君本さんが詩織さんのそばにいなくなったら、詩織さんは、今までと同じ詩
織さんではいられなくなるでしょう。
 それほど、君本さんの存在は大きいです。
 ・・・詩織さんにとっても、・・・俺にとっても・・・」
「将くん・・・」
 力なく言った詩織の声に、将は同じように力のない笑顔を浮かべた。
「好きだという気持ちだけじゃ、駄目なんですよね」
 そこまで言った将の表情が、寂しさと悔しさ、そして悲しみをあわせもった表情に変
わった。
 そして、瞳を静かに閉じ、絞り出すような口調で、ゆっくりと続けた。
「・・・俺には、そんな詩織さんを支えられる自信は、ありません。
 だから・・・、だから、・・・」
 口ごもる将に代わり、詩織が沈黙を破る。
「判ったわ」
 その声に、将は詩織に視線を向ける。
 詩織は顔をそむけ、将にその表情を見せなかった。
 そして、それは故意だということは明白だった。
 詩織は続ける。
「私、将くんって、もっと頼りがいのある人だと思ってた。
 見損なってたな。
 ・・・考えてみれば、将くんは年下なんだもんね。それも無理のないことだったのよ」
 そう言って、詩織は立ち上がる。顔を背けたままで。
 その詩織を視線で追いかけ、やがてためらうような口調で、将が言った。
「やっぱり、年下じゃ、役不足ですよね?」
 将の声に、詩織はビクリと肩を震わせ、完全に将に背中を向ける。
 そして、言った。
「・・・そうね。・・・年下じゃ、恋愛の・・・対象にはみられない・・・ね」
 そのまま将に一瞥もくれず、部室のドアに向かって歩き出す。
 将が立ち上がり、叫ぶ。
「詩織さん!」
 再び、肩を震わせ詩織は立ち止まる。
 その背中に向けて、将は深々と頭を下げる。
「今まで、本当に、ありがとうございました」
 詩織は何も答えなかった。
 口元を押さえながらドアを開け、まるで逃げるように走り出していった。
 半開きになっていたドアに将は歩み寄り、ゆっくりと閉めた。
 その将の身体が、わなわなと震え出し、同じように震える左の拳が、将の顔の位置ま
で上がる。
 声にならない唸り声と共に、その拳が横殴りに、壁に叩きつけられた。
 その姿勢のまま、将の口から、ほんのわずかな音量の言葉が漏れる。
「・・・っくしょう」



 駆け出した詩織だったが、その足が止まる。
 その視線の先に、元城と連尺の姿を認めたからだ。
 元城と連尺は、お互いに視線を交わし、無言の会話をしたあと、元城がゆっくりと詩
織に近づく。
 視線をそらしたままの詩織に、あさっての方を見ながら、元城が言う。
「その様子じゃ、このままここにいるのはつらいだろ?
 後のことはなんとかするから、着替えて帰りな」
 しばらく何も言わないでいた詩織だったが、ゆっくりとうなずき、足早に更衣室の方
へと向かって行った。
 その背中が小さくなるのを見送った元城は、足元の小石を力任せに蹴り飛ばした。
「将の大馬鹿野郎!」
 小さな、だが、力のこもった元城の声に答えるかのように、連尺も言った。
「本当に、・・・馬鹿なんだから」

 寒風が吹く。
 だが、それには心なしか、春の気配のようなものが感じられた。


 日付が変われば、3月。
 その日、きらめき高校は、卒業式を迎える。



   ときめく時の中で(162)

  このときめきは忘れない(42)



 ただ単に2月から3月に変わっただけだというのに、日の光や、風の温度まで変わっ
たような気がするのは、人々の単なる錯覚なのだろうか?
 だが、3月と言えば春という季節になるのは、やはり、これは間違いのないところだ
ろう。
 その春の朝の陽射しの中、君本は自宅のドアを開ける。
 感慨というものとは別にして、君本は大きく深呼吸をした。
「もう、卒業なんだぞ・・・」
 自分に言い聞かせるように、君本は言った。
 そう、彼の言葉の通り、きらめき高校はこの日、卒業式を迎えていた。
 君本には、卒業する身になったという自覚がなかった。
 頭では理解できても、明日からは違う生活になるのだという実感が、どうしても沸か
なかったので、つい、そんな言い方をしてしまったのだ。
 そして、振り返り、自宅を見上げる。
「この家から学校に行くということも、今日が最後なんだよな」
 しばらく、そのままの姿勢で、自宅を見上げていた君本だったが、玄関に現れた両親
の姿を認め、静かに微笑んだ。
「じゃあ、行ってきます。父さん。母さん」
「行ってらっしゃい」
「気をつけてね」
「うん」
 君本は、そう言ってうなずき、この3年間で慣れ親しんだ道を、今までと同じように
歩き出した。



「よう、トシ」
「おう、好雄か」
 君本が学校に着き、教室に入ると、好雄に呼び止められた。
「いよいよ、俺達も卒業だな」
 好雄の感想じみた問いかけに、君本が答える。
「そうだな。実際あっと言う間だったよな。
 好雄と初めて出会ってから、3年か」
「確かにあっと言う間だったけど、結構、いろんな事あったよな」
 二人が、そんな会話をしている横を、元城が通り過ぎる。
「あ、元城」
 君本の声に、元城は振り返る。
「ん。なんだ?」
 その声に、不機嫌さを感じた君本は、内心で思った。
(なに怒ってるんだ?)
 だが、その疑問はあえて口にはせず、別のことを聞いた。
「いや、あのさ、昨日、詩織の様子が変だったんだけど、なんか知らないかなって、思
ったんだけど」
「さあね」
 そっけなく答え、元城は自分の席に腰を下ろす。
「なあ、好雄。元城、何怒ってるんだ?」
「さあ・・・」
 この時、元城はこう思っていた。
(お前が嫌な奴なら、いっそ気が楽だったのかもしれん。
 そうなりゃ、絶対将をけしかけていたからな・・・)
 はっきり言って、元城は不機嫌の極みだった。



 そして、体育館で卒業式は執り行なわれた。
 3年という月日を経た生徒達が、旅立つ時を迎えていた。
 蛍の光が流れる。



 長い卒業式が終わり、各生徒たちは、一旦教室に戻り、卒業生たちはそれぞれに別れ
を惜しんでいた。
 その中、君本は自分の机に一通の手紙を見つけた。
 その手紙には、
「伝説の木の下で待ってます」
 とだけ書かれてあった。



 時に、人はそれを運命と呼ぶのかもしれない。
 将が中庭を歩いていたのは、ほんの偶然、あるいは気まぐれのようなものだった。
 故に、そこに詩織が現れるなどとは夢にも思っていなかった。
「し、・・・藤崎先輩」
「将くん」
 詩織の表情は、不安や緊張と言った物がありありと感じられた。
 恐らく走ってきたせいだろう。その弾んだ息が、先を急いでいることを物語ってい
た。
 そして、その行く先に何があるのか? 将には判っていた。
 詩織の足を止めているのが、自分だということに気付き、将は今、自分がどうすれば
いいのか、考えた。
 考えたすえ、精一杯、明るい表情で微笑む。
 そして、親指を立てて、右の拳を詩織に向かって突き出した。
 その将の姿を見て、詩織も微笑みながらうなずき、ゆっくりと加速しながら、将の傍
らを走り抜けて行った。
 将は振り向きもせず、瞳を閉じ、耳だけで詩織が遠ざかっていくことを確認した。
 詩織の足音が聞こえなくなってから、将は目を開ける。するとその視界に、一人の男
子生徒の姿を認めた。
「和人」
 和人は、感情を感じさせない笑顔と共に、ゆっくりとうなずいた。
 将は意識的に胸を張り、和人に聞いた。
「どうだ。上出来だろ?」
 何が? というのは、今、二人の間では愚問になるだろう。
「だめ」
 意外な答えに将は戸惑う。
「なんで?」
「お前、格好つけすぎなんだよ」
「!?」
 将は少しうつむく。
 そんな将に近づき、和人が小声で言った。
「俺との間で、無理に強がるのはやめようぜ」
 その声に、まるで緊張の糸が切れるように、将は和人に寄りかかった。
 和人の肩に右肘を乗せ、さらにその肘に自分の額を乗せる。
「和人」
「ん? なんだ?」
「俺、本当に、好きだったんだ。本当に、好きだったんだよ」
「・・・ああ、判ってるよ」
 弱々しい将の声に、和人にはそう答えるしかなかった。
 詩織が今、向かっている場所、その目的は明白だった。
 詩織がその時なんと言うか? それは不明だが、事は成されるだろう。
 それもまた明白な事だった。
 だから和人には、そう答えるしかなかったのだ。

 だが、弱々しい将の声の寿命は短かった。
 急速に力を取り戻した将の声は、ゆっくりとこう言った。
「だが、俺は忘れない。この想いを忘れない。この想い絶対に、忘れないぞ」
「ああ、そうだな」
 しばらくの時間の後、将は顔を上げる。
「・・・じゃあ、行くか?」
「そうだな」
 ゆっくりと和人から離れ、そう言った将の声に、和人はうなずく。
 そして、二人は並んで歩き始めた。もう一年をすごす、校舎に向かって。



−−−−−−−−−−−−−−−−このときめきは忘れない−−終わり

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−続く


                    鈴鹿8時間(sz8@mbb.nifty.ne.jp)

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