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ときめく時の中で総集編 第7集



ときめく時の中で

   駆け抜ける嵐( 1 )



「夏合宿ですか?」
 将は口を開いた。
 1学期の期末テストが終わった頃、テニス部の部室では幹部会議が開かれていた。
 そして、将と四本松は新しく幹部会の一員となっていた。
 インターハイ予選を間近に控え、テニス部は組織の変更が行われた。
 部員を4つの班に分け、それぞれ班長を置き、連絡業務などをする。
 1班の班長は米津、2班は連尺、3班は将、そして4班の班長が四本松と言う事に
なったのである。
 そして幹部会とはその班長とキャプテン、サブキャプテンによって構成されると
明文化されたのである。
 それは組織としての柔軟さを失う事になりかねないのだが、
ある意味、筋が通った事である。
 このプランを考えたのは連尺である。そして、このプランに真っ先に賛成したのが
米津だった。
「フリーハンドで描かれた線にピシッと定規を当てるような作業で、連尺にかなう者は
テニス部内には一人もいない」
 米津は言ったものである。

 その幹部会議では夏合宿について話し合われていた。
「また将君の手料理が食べられるかもね」
 そう言った四本松に将は苦笑いを浮かべる。
「またあ、勘弁してくれよ、四本松。去年はあれでへとへとになったんだから」
 昨年の夏合宿の自炊の日、将は手の入った料理を作り評判を得た。
 そのことを四本松に言われたのである。
「まあ、合宿所のキッチンは広くて使い易いから助かるけど。
 でもなあ、今年もやるのか?」
 将のその言葉に元城が思い出したように言った。
「ああ、そういえば二人にはまだ言ってなかったな。
 今年、新しい合宿所が郊外にできて、今年の合宿そっちでやる事になったんだ」
「な、なんですか?それ?」
 将は聞き返した。四本松も続く。
「聞いてませんよ。そんな話」
「悪い悪い、まあ、許してくれ」
 右手を上げ、元城は謝ったのであるが、それに訂正を加えた者がいた。
「ごめんなさい」
 立ち上がったのは詩織である。
「それは私の役目だったの。元城君のせいじゃないの。ごめんなさい」
「おいおい。別に藤崎だけのせいじゃないだろ?」
 元城が言い、将も後に続いた。
「そうですよ。確かに急でしたけど、実質的に困った訳じゃ無いんですから、
 そんなに気にしないで下さい」
「でも、私、この頃日曜日の部活、お休みする事が多かったでしょ?
 ちゃんとやるべき事をしないといけないのに・・・」
 詩織は言葉を詰まらせる。
(いったい、どうしたんだろう?)
 他の者はそう思うのであった。



 夏休みに入ってすぐの週、テニス部は合宿に入った。
 貸し切りバスで合宿所に向かう道で、部員たちの口々から感想が洩れる。
「なんか・・・すごい所にあるんだな」
 そう思うのも無理はない。場所を聞いていたはずの元城でさえ、
「郊外と言うより、山だよな」
と言ったほど、山深い場所にバスは向かって行ったのである。
「練習漬けね」
 何気なく言った詩織のそんな声が聞こえた部員たちは、思わずため息をついた。
 夜中に抜け出す楽しみ(?)がなくなるのは確実である。何しろ抜け出したとしても
行く所はなさそうなのだから。
 更に、詩織が中心となって作られた、時間は短くとも「中身の濃い」練習メニューが
待ち受けている1週間を思うと、頭を下げる者が続出した。

 合宿所はそばに川が流れる、別荘地になりそうな場所にあった。
 施設と言えばそれはすごい物で、宿泊施設はもちろんのこと、広いグラウンド、
プール、屋内には各文化部に対応する部屋があり、電脳部用の部屋には
最新のコンピューターが備えられているほどである。
 テニスコートも4面あり、下手をすると学校よりも設備は整っているかもしれない。
「さすが、伊集院財閥ってところか」
 合宿所に着き、バスを降りての米津の第一声である。
「しかし、金持ちの考える事は解らん。これなら新しい学校が作れるぞ」
「税金対策でしょ?」
 元城と将がそんな会話をしている所へ、割り込んで来た者がいた。
「失礼だな、君達は」
「い、伊集院!」
 元城が思わず叫んだ。
 そこには、滅多に見る事の出来ない私服姿の伊集院がいた。
 右手人差し指を思いっきり突き出し、元城が言った。
「お前、何でここに?」
「君にお前呼ばわりされる覚えはないが、まあ、許してやろう」
(この!)
 そう思った事を、本当に小さく言った元城に代わって、将が聞いた。
「伊集院さんのような方が、こんな所にお見えになるとは意外です。
 いったいどうしたんですか?」
 そう聞かれた伊集院は、どういう訳かその口調のトーンが少し下がった。
「イヤ、僕個人の別荘がこの隣にあるのだよ。あくまでも、気紛れなのだがね、
君達、庶民の合宿という物がどんなものか、見に来たという訳だよ。
 まあ、頑張ってくれたまえ。ハーーッハッハッハ」
 伊集院の高笑いを黙って見ていた元城なのだが、意外な反撃に出た。
「伊集院よ」
「何だね?」
「言っておくがな、俺は中沢先輩に聞いて”あの事”を知っているんだぜ!」
 その瞬間、伊集院の表情が激変した。
「な、何を言っているのかね!き、君は!!失敬な!!
 ぼ、僕はこれで失礼するよ!それでは、ま、また。ハーーハッハ」
 それまでと同じように、高笑いを残して去って行った伊集院だが、
その声には明らかに元気が無かった。
 後に残された元城と将はしばらく呆然としていたが、気を取り直した将が、
元城に聞いた。
「・・・動揺してましたよね?」
「ああ、みえみえだな」
「なんです?”あの事”って?」
「いや、俺も知らん」
「はあ?なんですそれ?」
「中沢さんに言われたんだ。伊集院をからかう時には”あの事”を知っていると
言ってやれ、・・とな。詳しい事は、実は俺も知らないんだよ」
「それじゃあ、はめたんですね?」
「そういう事になるんだが、あんな反応をするとは思わなかったなあ」
 元城は腕を組んだ。そして将も言った。
「”あの事”って何なんでしょうね?」
「気になるだろ?」
「キャプテンこそ」
 そう言って二人は肩をすくめるのだった
 


   駆け抜ける嵐( 2 )



「まだやれます!」
「そう思ってるだけで、これ以上は無駄どころか危険なんだ。
 クールダウンに入って上がれ」
「吉野先輩はまだ続けるんでしょう!?」
「俺がどうであろうと西島の練習メニューは終わったんだ!」
 テニス部の夏合宿も3日目に入っていた。
 そんな中、将と西島が言い争っていた。

「西島の奴、またやってるよ」
「吉野も西島には厳しいからなあ」

「あの二人、馬が合わないのかしら?」
「吉野先輩、普段は優しいのにね」

 傍で見ている部員からそんな会話がひそひそ交わされるほど、二人の言い争いは
テニス部ではある意味一つの名物となっていた。
 今回の言い争いは、西島が練習が終わっても将は練習を続けていたため、
西島は自分も続けると言い張った事に始まる。
「練習メニューは先輩達が、各自にあわせて作った物だ。
 それが不満なら、直接相談して作り直すんだな。第一、西島は藤崎先輩と話し合って
このメニューに納得していたはずだろ」
「・・・判りました。お先に上がらせていただきます」
 西島はそう答えたが、その表情から不満の成分が消え去った訳ではなかった。

 クールダウンに入った西島を遠くに見ながら、将と詩織が話していた。
「もう、将君たら、どうしてわざと西島君にはあんなに厳しい言い方をするの?」
 将はそれに苦笑いで答えた。
「そう見えますか?」
「見えるも何も、みんなそう思ってるわよ」
「だって各自の練習メニューは、先輩達がデータを元にして作った物でしょ。
 昨日の夜だってキャプテン達と遅くまで話し合っていたじゃないですか」
「でも、私達が間違っているかも知れないのよ」
「それについては、各自と個別に話し合ってるじゃないですか。
 その上でみんな納得してやってるんです。
 西島は俺への対抗意識だけで、オーバートレーニングするところだったんですよ」
 毅然とした態度で答える将に、詩織は少しの間、言葉に詰まった。
「将君、・・・将君もどんどん変わっちゃっていっちゃうんだね」
「え?」
「ううん、なんでもないの。それじゃ、続けよ」
「・・・はい」


 水道の蛇口が10個程並んだ流し場で、西島、福島、江ノ島、松島の4人は、
濡れたタオルを絞ったりしながら、会話をかわしていた。
「大体、ニシは吉野さんに突っかかりすぎるんだよ」
「エノ!お前どっちの味方だよ?!」
「うーーん、どっちかと言うと吉野さんだよな。筋が通ってるもんな」
「そうだよな。お前はそういう奴だよ」
 右手中指を立てる西島に、松島が右手人差し指を横に振りながら言った。
「そもそも、何をそんなに焦ってるんだよ、ニシは?
 そんなに練習好きじゃなかっただろ?」
「だってさあ、同じ練習してたんじゃ、いつまでたっても、
吉野先輩に追い付けないじゃないか!」
「なんだ、お前も満更、バカじゃないんだな」
「何だと!?エノ!?」
「まあまあまあ、二人とも」
 松島が慌てて二人をなだめる。
「でもなあ、ニシ。あまり無理すると、また肘をやっちまうぞ」
「解ってるよ。解ってるんだけどなあ。俺は吉野先輩に勝ちたいんだよ!!」
 西島の絶叫に他の3人は黙ってしまった。
 そして、次に口を開いたのはまったく意外な人物であった。

「ねえ!君達!!」
「わあ!びっくりしたあ!!」
「何だ!なんだ!!」
 まったく予想外の声に西島達は慌てた。
 流しの反対側にトレーニングウェアを着た女生徒がいた。
 西島が聞いた。
「あの、どなたですか?」
「あ、私サッカー部でマネージャーをしてる、虹野沙希と言う者なんだけど、
君達には根性があるわ。私と一緒に国立競技場を目指しましょう!」
 呆気にとられた西島に代わって松島が答える。
「あのー、一応僕達テニス部に所属してるんですけど・・・」
「もちろん、知ってるわよ。でも、良かったら顔を出してみて。君!そう君!!」
 虹野はそう言って福島の腕を取る。
「ぼ、僕ですか?」
「そうよ、君のようないい体格してれば、相手ゴール前で体を張って、
来たボールを頭で落とす役目に打って付けなんだけどなあ」
「虹野さん、それってポストプレーって言いません?」
 西島がそう言うと、虹野は両手をあわせて動きが止まってしまった。
「あっ、うん、そうね。そうとも言うわね」
「・・・・」
 江ノ島がようやく口を開く。
「虹野さんて、確か3年生でしたよね」
「え?そうだけど」
「それじゃ、一緒に国立競技場に行くのはちょっと無理かと思いますよ」
「・・・うーーん、そ、そうかな?でも、本当に良かったら、来てみてね」
「ええ、保証の限りではありませんけどね」
 松島が答える。
「そう。・・・ところで、吉野君は元気にしている?」
 虹野の口から意外な名前が出た為、西島の表情がこわばる。
「吉野先輩がどうかしましたか?」
「うん。彼も去年誘ったのよ。でも、テニス部に入ったんだよね。
 あーーあ、テニス部にはいい人材が揃っちゃったなあ」
「ところで虹野さん。サッカー部の仕事の方はいいんですか?」
 江ノ島の質問に虹野は慌てた。
「あっ!いけない!お洗濯の途中だったんだ!それじゃあね」
「はあ、はい」
 ばたばたと走り去って行く虹野の背中を、4人は呆然と見つめていた。
「そういえば、サッカー部と美術部も、ここに来てたんだっけ」
「ニシ君、まさか忘れていたとか?」
「そう、フクの言う通り」
 そんな西島に、江ノ島と福島は笑ってしまったのだが、松島だけは違った。
 もう、すっかり遠くなった虹野を見ながらポツリと言ったのである。
「なんだか、可愛い人だなあ」
「なんだ、マツ、お前、年上がいいのか?」
 江ノ島はからかっているのだが、松島は真面目な顔で答えた。
「うーーん。それはいいかも知れないなあ」
「おいおい!」
 他の3人は同時に突っ込んだ。



   駆け抜ける嵐( 3 )



 合宿も4日目に入っていた。
 昼間、合宿所のロビーの椅子に座り込み、元城はテーブル上のノートパソコン相手に
悪戦苦闘していた。
 何もこんな所でと思うのであるが、これにはいろいろと事情がある。
 最近、元城は、思い付いたことはすぐにやらないと気が済まない性格になって来たよ
うで、この日もロビーから表に出ようとした時、ちょっとしたアイデアを思い付いたの
である。
 それでちょうど手にしていたノートパソコンを、軽い気持ちで操作し始めたのだが、
どこをどう間違えたのか、いつの間にか(いつの間にかではないのだが)
何だか訳の解らない画面になってしまったのである。
 元城はこういう場合、下手に手を出すとかえって事態が悪化してしまうことを
知っていたので、じっくり考えながら対処して行ったのであるが、
それでも限界があり、モニターを見つめるだけになってしまったのである。
 もちろん、モニターを見つめていたからといって、事態が改善される訳はない。
 元城は頭を掻きながらぼやいた。
「こんな時、紐緒がいてくれたら一発なんだけどなあ」
「あら?私に何の用?」
「何の用って、この状態直してもらうに決まってるじゃないかって、
紐緒なんでここにいる!?」
 元城は、まるでコントみたいにそう言いながら立ち上がり、振り向いた。
 そこには正真正銘、紐緒が立っていた。
「なんでここにいるの?」
「私に同じ質問を2度しないことね」
「ああ」
 元城がそう答えたのを見て、紐緒は元城のかわりにパソコンの前に座る。
 モニターを見て症状を確認すると、キーボードを叩きながら元城に言った。
「来週から電脳部もここで合宿に入るの。それで、今日からその下準備を、
私がする事になったのよ。
 大体、マシンが新しくたって中身は空っぽじゃ意味がないのに、
何を考えているのかしら、この学校は」
「でもさ、そのおかげで最新のマシンに触れて、自分のデータをぶち込めるんだろ?
 紐緒のことだから、何か考えてるんだろ」
 元城のやや意地の悪い口調の質問に、紐緒は平然と答える。
「あなたにしては、見事な推理ね」
(おいおい、本当かよ)
 元城は埴輪顔になってしまった。
 そんな元城にかまわずに、紐緒はキーボードを操作して画面を元に戻した。
「おお、さすが!」
「このぐらい当然よ」
「何が原因だったんだ?」
「それは、・・・良く解らないわ」
 彼女にしては珍しく、自信のない表情になった。
「へーー、紐緒でも解らない事があるんだな。
 それにしても、随分といいタイミングで現れたもんだなあ」
「そうね、偶然というものは時として恐ろしいものね」
「それにしても、俺は、一時ウイルスでも仕掛けられたのかと思ったよ。
 紐緒がいてくれて助かったなあ」
「そ、そう?それじゃあ、私は行くわね」
「ありがとな」
 椅子から立ち上がり、立ち去ろうとした紐緒の背中に、元城は声をかける。
「・・・あのさ、そっちの合宿が終わったら、なんか食べにいかないか?
 日頃のお礼を兼ねて、おごるからさ」
「運動部の人ってどうして食事にこだわるのかしらね?」
「・・・だめかな?」
「まあ、いいわ。また連絡してちょうだい」
「ああ」
 元城は椅子に座り、画面を見ながらため息をついた。
「見ちゃったよ。元城君!」
 その背後から不意に声をかけられて、元城は、ビクッと背中を伸ばして
驚きを表現した。
「!・・・おいおい、驚かすなよ藤崎」
振り向いた先には、詩織が後ろ手に組んで立っていた。
「元城君って、ああいう風にデートに誘うんだね?」
詩織の表情は、やや悪戯っぽいものになっていた。
「デートなんてもんじゃないよ。日頃のお礼をするんだから」
「ふーーん、それじゃあ、私もご一緒してもいいかな?」
「ああ、もちろんいいぜ」
 元城の即答に、詩織は少し両肩を落とす。
「もう、何馬鹿な事言ってるのよ。そんな事する訳無いじゃない。
 紐緒さんに恨まれちゃうわよ」
「ちょ、ちょっと待てよ。なんか勘違いしてないか?
 俺と紐緒は別になんでもないし、第一、俺が紐緒の趣味だと思うか?」
 今度は大きなため息と共に、うなだれる詩織だった。
「あのねえ、元城君。元城君がパソコン見つめて唸ってる時、紐緒さんが、
後ろでじっと見つめていた事、知らないでしょ?」
「紐緒が?まさか?」
 元城は全く信じていない風だが、詩織の言う事が嘘とも思えないでいた。
「元城君がどう思おうと、現実は謙虚に受け止めないとね」
「それより、何か用?」
「あ!そうそう。午後からの練習メニューの事なんだけど・・・」
 元城は明らかに話題から逃げたのだが、詩織にしても用があったので、
それ以上追求する事はできなかった。
 詩織と打ち合わせをしながら、元城は思わずにいられなかった。
(紐緒があ?うーん、まさかねえ)



 その日の夜、日付が変わってしばらくの後、男子達が寝ている大部屋で、
何をする訳でもなく将はボーッとしていた。
 一度目が覚めた後、なかなか寝付く事ができないでいたのだ、
 エアコンは止めてある為、窓を開けてあるのだが、それでも、蒸し暑く
寝苦しい事もあった。
(涼んで来ようかな?)
 そう思った将は、そうっと部屋を抜け出し、合宿所のとなりに流れる川の岸に
やって来た。
 川面を渡る風は涼しいとは言えないが、昼間の熱風に比べればはるかにましである。
「静かだよなあ」
 町中の喧騒を離れ、人工的な音のないこの環境は、
将にとってはかなり新鮮なものである。
 しかし、静かゆえ、些細な音が耳に止まる。どこからか、
水面をはねる音がして来たのだ。
「あれ?」
 将が驚いた事に、この夜だというのに川で泳いでいる人がいたのである。
 確かに夜とは言え蒸し暑く、泳げない事はないが、それでも何もこんな夜にという
思いがある。
(ま、俺だってこんな時間に散歩だもんな。人のことは言えんか?)
 そんな事を思いながら、泳ぐ影を見つめていた。
「女の人かな?」
 流れる髪が、水面に長く尾を引いている。
 だが、その人物が見覚えがある人物だった為、将は声を出さずにはいられなかった。
「伊集院さん?」
 声をかけられた伊集院の方も相当に慌ててしまったようで、
「よ、吉野君!?」
と、言ってその場に立ってしまった。
「いっ!!?」
 そう言ったきり、将は固まってしまった。
「!」
 伊集院の方も動けないでいたが、すぐに我に返り、水面にその身を沈めた。
 その水が跳ねる音に、将も慌てて伊集院に背中を向けた。
 二人は、そのままどちらも動けなくなってしまった。
 しばらく後、そのままの姿勢で将が口を開いた。
「伊集院さん。キャプテンが言っていた”あの事”って、ひょっとして、
この事だったんですか?」
「・・・」
 伊集院に返事はなかったが、それが肯定を意味する事は将にも判った。
「・・・吉野君」
 ようやく伊集院が短くそれだけ言うと、将は頷いた。
「判っています。これは秘密なんですね?こんな夜中に泳いでいるのも、
その為なんですね?」
「・・・」
 またも、無言の肯定が帰って来た。
「・・・判りました。俺自信の名誉にかけて秘密は守ります。
 詳しい事も聞きません。安心して下さい。
 それでは、これで!!」
 それだけ言うと将は駆け出して行った。
 後に残された伊集院は静かに立ち上がり、小さな声で言った。
「吉野君なら・・・」


 翌日、将の動きがぎこちない事といったらなかった。手を抜いていると言う訳では
ないのだが、普段との違いは明らかである。
「どうしたの?将君?」
 詩織の質問にも、将はうやむやに答えるだけである。
「いや、ちょっとありまして。でも、もう少し待ってくれれば立ち直りますので」
「そう?」

 その様子を見ていた元城は、心配そうに米津に聞いた。
「大丈夫なのか、吉野は。もうすぐインターハイの予選だと言うのに」
「大丈夫なんじゃないの?」

 そう、夏合宿が終われば、インターハイの予選が始まるのである。



   駆け抜ける嵐(4)



「あの・・・人と・・・待ち合わせしているんです。・・・ですから」
「でもお、誰も来ないじゃない。待ちぼうけ食らっちゃうよ」
「そ、そんな事ありません」
 夏休み、そろそろ暑さもピークを迎えようかという正午少し前、駅の改札口で、
美樹原は一人の男に声をかけられていた。言うなればナンパである。
 どうしても男性が苦手な美樹原は、それをうまくあしらう事ができないでいた。
 そこに助け船が現れた。
「その人は俺の連れなんだけど、何か用?」
 美樹原の表情に安堵の色が浮かぶ。
「あ、和人君」
「そういう訳なんで、他の人当たってね」
「あ、ああ、そうするね」
 和人に軽く睨まれ、男はそそくさと退散して行った。
「ああん、遅いよ、和人君」
 美樹原はそう言って、両拳で和人の胸を軽く叩いた。
「ごめん、ごめん。言い訳もできません。このお詫びはいずれしますよ」
「本当に?約束ですよ」
 頭をかいて謝る和人に、美樹原はそう言って右手の小指を和人に差し出す。
 和人もそれに答え、小指を絡ませる。
「はい、はい。約束しました」
 その指を解き、和人は思い出したように言った。
「そう言えば、初めてあった時も、こんな感じだったよね?」
「え?そう言われてみればそうね。時間と場所は全然違うけど」
 美樹原と和人が初めて会ったのは、ちょうど昨年の今頃、夏祭りが行われていた
神社の境内であった。
 やはり、男に絡まれていたのを和人が助けたのである。
 和人はその状況を思い出したのだった。
「早いなあ、あれから一年か。・・・それにしても美樹原さん、
男が苦手なの直らないなあ。」
「そうなの、和人君なら平気なのにね」
「うーん、前から思ってるんだけど、それ、男として意識してないって事なのかな?」
「え?どうなのかしら。なんだか頼れるお兄さん、というところなのかしら?
 詩織ちゃんにも”素敵なナイト様ね”と言われた事もあるし」
 美樹原の返事に、和人は天を仰ぎため息をついた。
「やっぱりそんな所なのかなあ。男として見てくれないのは、
喜んでいいものかどうか、悩む所だな」
 それに対して美樹原が言った。
「それを言うなら和人君だって、私の事、女の子として見てくれてないでしょ?」
「え?何でそんな事」
「だって、和人君、他の人が好きなんでしょ?その人以外は眼中にない、
って感じなんだもの」
 しばらく言葉に詰まった和人だったが、右手人差し指を立てて言った。
「それこそ美樹原さんだってどうなんです?あの人のことは?」
「そ、それは・・・」
 そこまで美樹原が言った所で、二人は黙り込む。
「やめましょう。この話は」
「そうね、そうしましょう」
 そう言って二人はクスクスと笑った。暫くの後、左腕の時計を見やり、
和人は改札の方を顎で示した。
「そろそろ行きましょう。将の試合に間に合わなくなります」
「そうね、行きましょう」
「それにしてもなあ、将がインターハイとはね」



 夏合宿を終えたきらめき高校テニス部を待っていたものは、
インターハイの予選であった。
 その予選を勝ち抜き、男子と女子の両シングルス、男子ダブルス、混合ダブルスで、
インターハイの出場権を得たのである。
 その男子シングルスと、混合ダブルスの両方で将は出場する事になったのである。
 混合ダブルスでの、将と古式のコンビネーションは絶妙であった。
 春の大会での不調が響きノーシードとなったのであるが、並み居る強豪達を
次々と撃破し、堂々と出場を決めたのである。
 一方、男子シングルスについては逸話がある。
 実を言うと、将は決勝で敗れてしまったのである。だが、今年のインターハイは、
地元の開催という事で出場枠が広がっており、将も出場できたのだ。
「聞いてませんよ。そんな話」
 決勝の後、自分のインターハイの出場を知らされた時、将は元城と詩織に言った。
「だって言わなかったもの」
「言わなかったって・・・」
「しかしなあ吉野、普通、気が付くぜ」
 元城にそう言われ、将は頭をかいた。
(やれやれ、大物なんだか、大ボケなんだか)
 元城は苦笑いを浮かべながらそう思ったものである。



「詩織ちゃん!」
 試合会場に着いた美樹原と和人は、行き交う人々の中に詩織の姿を認めた。
 美樹原の呼ぶ声に詩織が手を振って答える。
「あら、メグ。来てくれたのね」
 詩織は、美樹原と和人の所に小走りで駆け寄る。
「当然よ。詩織ちゃんの愛弟子、将君の緒戦なんだもん」
「応援してあげてね。でも、メグじゃ、声を出しての応援はちょっと難しいかな?」
「それは大丈夫。和人君がついて来てくれたから、お任せするもん」
 美樹原は口に右手を当てて、和人の方に視線を向けた。和人もそれに答える。
「はいはい、そういうのは俺の役目です」
 和人が両手を広げ、降参の仕草をすると詩織と美樹原は声を揃えて笑った。
「なんだ、和人、お前も来たのか?」
 そこへやって来たのは将だった。試合用のユニフォームに着替えており、
もうすぐ試合だと言うのに、その表情は落ち着いたものだった。
「何だとはなんだ?せっかく来たのに」
「大方、美樹原さんについて来て欲しいって頼まれたんじゃないのか?」
「何で判るんだよ?」
「和人、俺の部活に関しては本当に無関心だからなあ。いくらインターハイだからって
一人で来るとは思えないよ」
「ひでえな。それじゃまるで、俺が友達甲斐のない奴みたいじゃないか?」
「違うのかよ」
「お前なんか1回戦で負けちまえ」
「それが、友達甲斐があると言う人間の台詞か!!」
 ほとんど口喧嘩とかわらない二人の会話なのだが、詩織も美樹原も慣れたもので、
面白そうに二人のやり取りを見ている。
 だが、いつまでもそんな事をしている訳にもいかない。
「ほら、将君、時間だよ。そろそろ行かないと」
「ああ、そうだ、それどころじゃないんだっけ。じゃあな和人。
 美樹原さんは、応援してね」
 詩織の声に促された将は、そう言ってコートに向かった。
 その背中を見送った詩織が言った。
「ありがとう、和人君」
「何がです?」
「将君、少し悩んでたでしょ?地元の開催で出場できた事で。
 他の地区には出場できない人がいるのに、運だけで自分は出ていいものかって」
「ああ、あの事ですか。俺はただ単に、
”なるべく多くの人間に参加させたいけど、遠くから来るんじゃ費用がかかりすぎる。
 その点、地元でやると言うことは交通費やらなんやらの費用が少なくて済む。
 だから、地元の人間の出場枠が多いんじゃないの?
 遠慮なく出させてもらえば”って言っただけですよ」
「多分、それから将君変わったんだと思うの。
”運も実力の内ですよ”なんて言ったんだもの。
 さすが親友ね」
 詩織の言葉に、和人は彼にしては珍しい照れたような笑いを浮かべた。


 決して心からそう願った訳ではないのだが、和人が言った通り、残念ながら将は
一回戦で敗北を喫した。
 ただし、その相手がその年の優勝者であり、その相手に将は互角の戦いを演じ、
フルセット、しかもタイブレークまでもつれ込んだのである。
 その相手をそこまで苦しめたのは将だけであった。しかも、将はまだ2年生なのだ。
 さらに、混合ダブルスで将と古式のペアは準決勝まで勝ち進んだのである。
 これらの事により、関係者の間で将の評価は、俄然高まる事となった。
 それは当然、きらめき高校の生徒たちにも知るところとなり、将の輝きは、
更にその光を増すのであった。


 だが、光が増せば増すほど、影の闇は深く濃くなる。
「あの吉野って野郎、気に入らねえな」
「テニスみたいな軟弱な物で、ちやほやされやがって」
「いっぺん、絞めてやるか」



   駆け抜ける嵐(5)


 夏休みが終わり、新学期になってすぐの日の放課後、将は部活へ行こうと
廊下を歩いていた。その時、その将を呼び止める者がいた。
「吉野さん」
 将には面識のない1年生であった。
「なに?」
 将の問いに、その1年生は落ち着かない様子で答える。
「あの、柔道部の先輩が、吉野さんのインターハイでの経験を聞きたい、
と言うことなんです。
 すいませんが、闘技場に来ていただけませんか?」
 妙な話である。その1年生の様子も明らかにおかしい。
 だが、将は、それを受け入れる。
「ああ、いいけど。今から?」
「はい」
「なるほどね」
 将にはそれがどういう意味か判っていた。
(やれやれ、和人が言うように、こういうのはどこにでもいるんだなあ)
 将は、頭を掻きながら内心でそう思っていた。


 偶然、その様子を見ていた人間が二人いた。一人は詩織であった。
 学年が変わり、詩織の教室からテニス部の部室へ向かうルートは、途中、
将のそれと重なるので、いままでもばったり顔を合わせる事があった。
 今日もそうだったのだが、いつもと違うその様子の異常さに、
詩織の思考は冷静さを欠いてしまっていた。
(どういう事?)
 詩織は暫く躊躇した後、その後を追ったのであった。

 もう一人は片桐彩子である。実は彼女はこの春から夏までひどいスランプに陥って
いた。絵を描きたいという情熱のような物が低下してしまっていたのである。
 有玉との事が影響していなかったとは言えない。だが、その心の傷も時と共に癒え、
絵を描き始める事が出来るようになっていた。
 そのきっかけになったのが、夏合宿での将の言葉であったのだが、
それはまた別の話である。
 将と柔道部の1年生とのやり取りを見ていた彼女は、ともかくテニス部の人間に
話す事にしたのである。


 闘技場は半分が剣道などに使う板の間になっており、奥に柔道に使われる
畳のひかれた場所となっていた。
 闘技場に足を踏みいれた将は、まずそこにいる人数を確認した。
 全部で13人いたのであるが、そのうちの一人は全く意外な人物であった。
「し、将君」
 その人物が声を上げる。二人の体格のいい柔道部員に挟まれ、
椅子に座らされていたのは、紛れもなく連尺であった。
「連尺、どうして?」
「・・・将君が柔道部の練習に参加して、ケガをしたからって聞いたから、
・・・変だとは思ったんだけど・・・」
 その状況を見て、将の放っていた空気ががらりと変わった。
「どういう事だ、これは?目当ては俺であって、連尺は関係ないだろう!?」
 そう言ったものの、将には連尺がここに連れて来られた訳が解っていた。
(人質か、・・・たくっ、手の込んだ事しやがって)
 柔道部員達は、この時将の変化に気付くべきであったのだ。だが、12対1という
単純な計算で、彼らの感覚は硬直化していたのである。
 一番奥で椅子に座り、ただ一人黒帯を締めた男子部員が、将に向かって言った。
「ここまで来て、”体験練習”から逃げられては元も子もないからな。
 練習が終わるまで、彼女にはここに居てもらう。
 それに、これから、ケガをするかもしれないからな。念のために立ち会ってもらうと
言う訳だ」
 それを聞いた将が鋭い視線を放ち、口を開きかけた時、闘技場の戸が開かれた。
「あなたたち何をしているの!?」
 そう言って入り口に立っていたのは詩織であった。
 その表情は、その場にいた柔道部員たちにとって初めて見る厳しい物であった。
 詩織は奥の黒帯の部員に向かって言った。
「あなた、確か3年の村櫛君だったわね。柔道部がテニス部員に何の用があるの?」
 どんな弁明も通じない、そんな表情と言葉であった。
 柔道部員たちは、はっきり言って気押されした。だが、それはかえって負の行動を、
彼らに起こさせる事になってしまった。
 元々、彼ら柔道部員たちの心理はまともな物ではない。それが詩織の言葉によって
さらに異常な物となってしまったのである。
「おい」
 おそらくリーダー格なのであろう、黒帯の男子部員、村櫛の言葉に二人が動き、
闘技場の出入り口が閉められた時、詩織は自分がとった行動に重大なミスがあった事
に、初めて気が付いた。
 闘技場は他の施設から離れた所にあり、声を出しても助けは来そうにも無い。



「ともかく、テニス部の人には言っておかなくちゃと思って」
 片桐が捕まえたテニス部員は、コート整備の当番で早めに来ていた本郷南であった。
「闘技場の方へ言ったんですね?」
「Yes! そうよ!柔道部の一部の事については、あまり良くない話が伝わってるの。
 Hurry up! 急がないと、彼が、吉野君が危険よ」
 本郷は冷静に見えた。ほんの少し考え込んだ後言った。
「片桐さん?」
「What?」
「元城キャプテンを捜してくれませんか?まだ教室にいると思います。
 私は和人先輩を捜します」
「Oh I see! わかったわ」
 そう答え、片桐が行こうとすると本郷が言った。
「言っておきますけど、危ないのは柔道部の方なんですからね!」
 それだけ言うと本郷は駆け出した。



 将はYシャツを脱ぎ、Tシャツの上に柔道着の上だけを着た。そして、
椅子に座った詩織と連尺の前に膝をつき、脱いだYシャツを詩織に手渡した。
「将君」
 心配そうな二つの声に、将はほんのわずかな笑みを浮かべて答える。
「すいませんでした。こんな事に巻き込んで」
「そんな、・・・将君は何も悪くないのに」
 詩織がそう答えると連尺が続ける。
「そうよ。将君は悪くはないわ」
 将は首を振る。
「こんな事になったのも俺に関わったからです。
 ・・・でも、大袈裟かもしれませんが、命に換えてもお二人は必ず、俺が守ります」
 将の表情は毅然とした物だった。

「さあ、始めようか」
 将は立ち上がり、振り向きながら言った。
「方法を説明するぞ」
 黒帯の部員の声に将は答える。
「いらねえよ。どうせここにいる人間と乱取りするんだろ。聞くまでもないさ。
 ”たまたま”ケガをしたって、練習中の事故と言うことで言い逃れするんだろ」
(頭の悪い奴が考え付きそうな事だ)
「そう言えば、おまえのおふくろさんってのはお妾さんだったそうじゃないか」
 村櫛はやってはいけない事をしていた。さらに今、決して言ってはいけない事を
言ってしまったのである。
 将の黒い瞳に雷光が走った。しかし村櫛は気が付かない。
「二人とも知ってましたか?彼は・・・」
 村櫛にはいろいろと言いたい事があったのであろうが、それを最後まで言うことは
できなかった。
 詩織と連尺が怒りに震えながら、村櫛を睨みつけていたのである。
詩織があからさまな怒気を含ませた声を絞り出す。
「つくづく情けない人達ね。そんな事を言って自分が惨めにならないの!?」
 連尺は何も言わないでいたが、その表情からは詩織と同じことを言いたいという事が
伝わった。
「私は将君自身からその事を聞いたわ。でも、それが何だと言うの!」
「先輩!」
 詩織の言葉を将が遮った。
「いいんですよ、それ以上言わなくても。何を言っても無駄です」
 左手を挙げ詩織を制する将の姿は、柔道部員たちに奇妙な感覚を与えていた。
(なんだ、この落ち着きは?)
 だが、詩織と連尺にとっては違った。二人とも同じ事を感じていた。
(こんな怒った将君、見たことないわ)



   駆け抜ける嵐(6)



 将は畳の上を進み出て一人の部員と正対した。名ばかりの乱取りの開始である。
「礼」
 一応の審判の声に、礼をしつつも将は内心思った。
(なにが礼だ!)
「始め!」
 その声と共に白帯の部員が気合のかけ声をあげ、将に挑みかかった。その表情は
真剣ながらも余裕のような物があった。
 それに対する将は、何とも締まりのない構えをとっていた。
 だが、相手の左の指し手が将の前襟を捕えようとしたその瞬間、将の動きは
それまでの物と一変した。
 その左手首を両手で掴み、将は跳んだ。そしてその腕を両足ではさみ込こむ。
「飛び間接」である。
そして、自らの体重を預け、相手を畳に倒し込んだ。
 そのままの体勢から、腕を抱え込む。
「くっ!」
 短くそう言った将は、なんのためらいも迷いもなく相手の肘の間接に力をかけた。
「うがあ!!」
 絶叫が場内に響き渡った。
 その叫び声の響く中、将は何事も無かったように立ち上がった。
「さあ、次は誰だ?」
 痛みにうずくまる部員に数人の者が駆け寄る。将は凍えるような冷たい声で言った。
「気を付けろよ。腕が折れてるんだからな」
 場内に衝撃が走る。中には半信半疑の表情の者がいたが、将の次の言葉が止めを
刺した。
「折れば折れる」
(将君が)
(キレた!?)
 詩織と連尺は、この春、和人から聞いた事を同時に思い出していた。
『キレた将からは逃げるしかない』
と、彼が言っていた事を。
「こ、こいつ、素人じゃねえぞ。気を付けろ!」
 そう言った声が出る中、二人目となった。
 この時場内全体は将の戦略に乗っていた。一人が骨折という大ケガを負ったのにも
かかわらず、まだ続けられたのだ。それも一対一という形で。
 それは、少対多の戦いで、少がとるべき戦略、戦力の分断と各個撃破というものの
典型的な形であった。
 和人がキレた将が恐いというのはこういった事からである。
 将は柔道部員たちの心理を巧みに利用したのだ。
 彼らにもそれなりのプライドと言う物がある。詩織と連尺の前で、将一人を
よってたかっていたぶるような真似は出来ない、将はそう踏んだのである。
 そして、一人がやられたとしても、そのまま引き下がるような事は、
彼らのそのプライドが許さないだろう。将はそこまで考えていた。
 ただ単に戦闘能力が高いと言うだけではなく、将の闘争本能そのものが、
勝つ為のあらゆる戦略戦術を冷静に考え、それを現実のものとするだけの能力を
有しているのである。
 言うなれば、将は一流の戦略家であり、有能な戦術家であり、鍛え上げられた
戦士でもあったのである。
 その戦略家としての将の戦略に、柔道部の人間はまんまとはまったのである。
「は、はじめ!」
 今度は将の方が先に動いた。
 ダッキングをして相手の腕をかわしたかと思うと、鋭いダッシュで相手の懐に
潜り込み、一瞬で間合いを0としてしまった。
 それは正しく、テニスで鍛えられたダッシュ力であった。
 潜り込んだ将は沈み込んだ両膝をばねとして、相手の顎に向け、
下から左の掌底を突き上げた。相手の身体が浮き上がった。
 それは拳でないと言うだけで、左アッパーとなんら変わりがないものであった。
 事実、ほんの一瞬であるが相手の意識が断ち切られたのである。
 将にとってはその一瞬だけで充分だった。相手の腕をとる。
「な、投げられろ!」
 その時、村櫛はそれだけ叫んだ。将のしようとした事は、関節をきめながら投げる
と言う、現代の柔道では禁止されている事であった。
 村櫛が叫んだ時は既に遅かった。
 将は相手の腕を叩き折り、更に投げた。
「二人目」
 驚いた事に、将の表情には笑みさえ浮かんでいた。もっともその笑みは氷を
連想させる物であったが。
「次は誰だ!?」
 将が吠えた。柔道部の全員がそれに呑まれた。
 かろうじて村櫛だけが言った。
「それは反則だぞ!!」
「それがどうした!!俺は柔道をやると言った覚えはないぞ!!」
 一旦言葉を切り、将は相手を蔑むような笑いを浮かべて言った。
「俺は貴様らのリンチに付き合ってやってんだ!さあ、次は誰だ!!」
「・・・将君」
 詩織も連尺もあまりの事に呆然としてしまった。
 将の気迫に押されながら、元々の順番の部員がよろよろと立ち上がった。
 それを村櫛が制した。
「やめろ、お前がかなう相手じゃない」
 厳しい顔つきで村櫛が立ち上がった。大きい。重量級の体格である。
「俺が相手だ」
 将はそれを聞いて頷いた。
「あんた、強いな」
 そう言って将はズボンのポケットからハンカチを取り出し、左拳に巻き付けた。
「あんまり拳は使いたくなかったんだけど、あんたとやるんじゃ、このぐらいしないと
やばそうだからな」
「貴様、一体何もんだ!?」
「ただの高校生さ」
 もはや開始の合図さえない。間合いを保ちながら二人は時計回りに半回転ほどした。
「シッ!!」
 将のスナッピーな左ジャブが空気を切り裂く。それを避けようと村櫛が後退した
その瞬間、将が動いた。
 拳を使うと見せたこと自体が将のフェイントであった。
 打撃系に慣れていない事で、相手が必要以上に警戒する事を読んだ将の戦略だった。
 後退した事で間合いの崩れた空間を、将は一気に詰め寄り、あっという間に村櫛の
後ろをとったのである。
 そのまま後方に力任せに投げ飛ばした。裏投げに近いがもはや柔道技ではない。
 信じられない事だが、村櫛は5mほど後方に投げ飛ばされた。いったい将のどこに
そんなパワーがあるのか、その場にいる誰もが想像したが、それは想像しきれない事
だった。
 だが、現実に村櫛は投げ飛ばされたのである。しかもそれで終わりではなかった。
 素早く立ち上がった将は、一気に村櫛に駆け寄り、上半身を起こした村櫛の側頭部に
右のミドルキックを叩き込まんとしたのである。
「やめて!!」
 だが、その声により寸前でその軌道を修正されたキックは、村櫛の頭の
ほんのわずか上の空間を蹴ったのにとどまった。
 将は振り向きその声の主の方を向いた。その声は詩織のものだった。
 詩織は立ち上がり将に言った。
「勝負はあったわ。もういいわ将君」
 将はため息をついて辺りを見渡した。軽く首を横に振ると、詩織と連尺の所へ
歩き出した。
「行きましょう、藤崎先輩。行こう、連尺」
 二人は頷いた。だが、詩織はまたしてもミスを犯してしまったのである。
 確かに勝負はあった。しかし、やられっぱなしで彼らの気が済む訳無いのである。
「このまま帰すか!お前達、まとめて向かえ!」
 村櫛が叫んだ。
 ”まとまって向かう”この事に抵抗はあったが、もはやそのプライドのようなものを
捨て去った柔道部員たちは将の行方を遮った。
 ただし、詩織のミスによって不幸だったのは柔道部の方であった。
「やかましい!!最初からそう言いやがれってんだ!!」
 叫ぶと同時に将は柔道着を脱ぎ捨てた。
 そして、この時になってようやく柔道部員達は気付くのであった。
 今、彼らが立ち向かおうとしているのは、ただの高校生などではなく、
血に飢えた野獣にも匹敵するほど、危険な存在だと言う事に。



   駆け抜ける嵐(7)


 片桐が元城のクラスに来た時、掃除当番の元城はモップで床を拭いていた。
 元城は片桐の顔を知ってはいたが、それほどよく知っているわけではないので、
彼女が自分の所に跳んで来たのには、はっきり言って戸惑ったのである。
 だが、片桐から事の次第を聞くにつれ、モップを持つ手が止まり、その表情は
険しい物になっていった。
「闘技場の方へ行ったんだな?!」
「Yes! そうよ!もうただ事じゃない雰囲気だったのよ!」
「・・・ありがとう、片桐さん。恩に着るぜ」
「Don't mind! そんな事は気にしないでいいの。吉野君には恩があるんだから。
 それより、Hurry up! 急いで!」
「判ってるって!
 君本!野暮用が出来た。悪いが後を頼む」
「なんだよ、野暮用ってのは?」
 元城にそう言われた男子生徒が不満気な表情をしたため、元城は付け加える。
「うちの部の吉野がどうやらトラブルに巻き込まれたらしいんだ!来週の当番と、
替わってもいいから!」
 あと一歩で怒りの領域に入る感情を表情に浮べる元城に対し、その男子生徒は
それ以上何も言えなかった。
 手にしていたモップを掃除用具のロッカーに叩きこみ、元城は教室を飛び出した。
「Hey! そっちは反対よ!」
 という背後からの片桐の声に、元城は振り向き答える。
「いいんだ。こっちにまず行かなくっちゃいけないんだよ!」
 それがどういう意味か、片桐には良く解らなかったが、他にどうすればいいのかは
彼女にとってはそれ以上に難しい問題だった。
 片桐が付いて来れないほどの勢いで、元城は1階上の別の3年生のクラスに
飛び込んでいった。
「大久保!お前、村櫛の事は任せろって言ってたのはどうなったんだ!」
 元城にそう言われた大久保という生徒は、いかにも慣れないといった手つきで
窓を拭いていた。背丈体格はごく普通だが、肩幅が鍛えられている事を物語っている。
「なんだよ、なんかあったのか?」
「なんかじゃねえよ!
 柔道部の抑えは、俺にまかせろって言ってただろうが!」
「だから、どうしたって言うんだよ!?」
 そう言われて初めて、自分が状況を説明していない事に元城は気が付いた。
「お前の所の部員が、うちの吉野を闘技場に連れ出したんだよ。
 そんな事をするのは、まず村櫛の野郎だろうが!」
「将君が!?」
 大久保という生徒より早く反応したのは、教室の後ろでほうきでゴミを集めていた、
同じクラスの古式だった。
 古式は手にしていたほうきを丁寧にクラスメイトに手渡すと、素早い動きで
教室を飛び出していった。
 呆気にとられたのは教室にいた者全てであった。元城と大久保も例外ではない。
「古式ってあんなに速く走れたんだ?」
「ばかやろう。インターハイのベスト8なんだぜ、古式は」
 二人は、ハッとして顔を見合わせた。
「んな事言ってる場合か!」
「判ってるって!」
 二人は古式の後を追う様に駆け出していった。



 元城と大久保が闘技場に着いた時、古式は、入り口の所に立っていた柔道部員と
言い合っていた。
「どいていただけませんか?」
 口調そのものは落ち着いてたが、静かな気迫のような物に、柔道部員は明らかに
気押されていたが、それでも入り口の前から動こうとはしなかった。
 その部員に向かって大久保が叫ぶ。
「ばかやろう!!なにしてやがる!!」
「キャ、キャプテン!?」
「そこをどけ!」
「・・・む、村櫛さんが誰も中に入れるな、と」
 おそらく複雑な力関係があるのだろう、キャプテンである大久保の命令にも、
その部員は素直に動かない。
「中で何をしてるのかは判ってるんだ!
 そんなことだから、てめえら、いつまでたっても2軍なんだよ!」
 その言葉にひるんだ柔道部員に関わらず、古式と元城は左右から入り口に取り付き、
それぞれ同時に扉を開ける。
「!?」
 開けられた入り口から、二人の部員が飛び出して来た。
 その二人は大久保の姿を認めると、すがるような表情でその背後に回りこんだ。
 それは何かから身を守る行動であった。
 将がいた。
 その二人を追うかのように、入り口のところに将が立っていた。
「将君」
「・・・将」
 古式も元城も息を呑んだ。それは二人の知っている将ではなかった。
 寒気がするほど冷酷な表情、それに対する荒れた息。顔には2、3ヶ所の傷が
見えるが、ダメージが深いものでない事は確かである。
何より、白いTシャツを数ヶ所染めた赤い彩りが、異様な物を物語っていた。
 そしてその背後には、更に異様な光景が広がっていた。ほんの少し大袈裟に言えば、
正しく阿鼻叫喚の世界であった。
 柔道着を着た部員たちが、ある所ではうずくまり、ある所では失神し、
また、ある所では左手首を右手で支えながら痛みに涙を流している者などがいた。
 そして、いたるところに鮮血が飛び散っていた。
 壁際には青ざめた表情の詩織と連尺が立っていた。連尺をかばうように立つ、
詩織の髪が多少ではあるが乱れ、ヘヤバンドがずれている事が痛々しさを伝える。
 将はまるで荒れ狂う嵐であった。何の遠慮もためらいもなく柔道部員の骨を砕き、
関節を外し、出血を強いた。
 特に詩織に手をかけた者はある意味不幸である。
 それは自らの身を守る為、詩織を盾にしようと思ったのであろう。だがそれこそ
将の逆鱗に触れる行為の最たるものであったのだ。
 怒りに震える将により、その者は左肘から先が不自然な形に曲がり、
つぶれた鼻からは出血が止まらなくなっていたのである。
 もっとも、この場にいた柔道部員全てが将にとって許せない存在であった。
 残るは大久保の後ろに隠れた二人である。
 二人は1年生で、面白半分でいたのだろう。だが、あまりの出来事に、逃げる事しか
考えられなくなっていた。技量においても戦意においても、もはや将の敵ではない。
 将が足を踏み出す。冗談ではなく恐怖に震える1年生と、将の間に元城が割り込む。
「よせ、将!もういい!」
「どいて下さい、キャプテン。俺はこいつらを絶対に許さない!こんなつまらない事に
先輩や連尺を巻き込んで・・・俺に用ならいつでも相手になったのに!」
 将と正対した元城は、残暑が厳しいのにも関わらず、背中に冷たい汗を感じていた。
(こりゃだめだ。俺じゃ将を止められない)
 だが、将を止める事が出来た人物が一人いた。
「将君」
「・・・姉さん」
 古式が声と共に右手を将の右肩においた。そしてにこやかに微笑みながら言った。
「将君の、怒りは、もっとも、です。けれども、あの、お二人を、このままに、して、
おくのですか?」
 二人とは詩織と連尺の事である。そしてそれは、将の怒りを抑えるのに十分な言葉で
あった。
「・・・判りました」
 静かにそう言い、将は頷く。将は踵を返し、古式と共に詩織の所へと向かう。
 将を恐れる部員たちは、将の前から退いていった。まるでモーゼの十戎の一場面の
ようであった。
 そしてそこに走りこんで来た者がいた。和人と本郷である。
 大きく肩で息をしながら、和人は言った。
「これは・・・また・・・、随分と派手にやったもんだなあ」
「柔道部員がバカなのよ。無知と言うべきかな?」
 そう言った二人に将は笑って(!)答える。
「・・・ご覧の通りさ、またやっちまったよ」
 自嘲気味の笑いを浮かべる将に、和人と南は言葉もなく顔を見合わせる。
 そして将は詩織と連尺の前に来た。
「おケガはありませんか?」
「・・・あっ、だ、大丈夫よ・・・それより将君は?」
「ええ、俺は大丈夫です。連尺は?」
「う、うん」
 青ざめた表情で連尺は頷いた。だが、身体はともかく、精神的にショックを受けて
いる事は明白であった。
「行きましょう。こんな所に長居は無用です」
 その時である。
「お前達、これはどういう事だ!?」
 その声に全員の視線が入り口に集中した。そこに一人の教師がいた。
「俺がやっちゃったんです。柔道部の人間とは前から折り合いが悪くって」
 すかさずそう答えたのは和人であった。しかし、将がそれを否定する。
「いえ、俺です。俺がやりました」
 胸を張り将は答える。和人が小声で言った。
「ばか、こんな事は俺に任せておけばいいんだよ」
「いいんだよ、和人。俺のした事をお前がかぶる事はないんだから。それに、・・・」
 将はTシャツの胸のあたりの、返り血の所をつまむ。
「これをどうする?それに、俺は自分のした事を悔やんでないよ。
 最初からどんな処分でも受けるつもりさ」
「・・・将」
「将君」
 複数の声の中、教師のいる入り口に向かって堂々と歩き始める将だった。



 

   駆け抜ける嵐(8)



 そろそろ日も傾きかけた頃、街中の道路を一台の車が軽快に走っていた。
 660CCミッドシップでありながら、オープン2シーターと言う独特のレイアウトを
持つ、この黄色の車が美里の愛車であった。
 夏の名残の日差しを除けばオープンで走るには良い頃なのだが、今日はそういう
場合ではなかった。
美里は慣れた手付きで4速から3速、2速へとシフトを落とす。タコメーターの針が
跳ね上がり、エンジンがうなりを上げる。
 美里にとって、この車の自然吸気エンジンのリニアな吹き上がりの爽快感は、
よく言われる馬力不足を補って余りあった。
「ったく、誰に似たのかねえ?・・・多分、私なんだろうなあ」
 そして、美里の車はきらめき高校の駐車場に滑り込んだ。
 車から降り立った美里は、ドアミラーでメイクを確かめながら独り言を言った。
「何があっても私はお前の味方だよ」



 この日の前日、将と柔道部員の間でおきた乱闘騒ぎは、後に「柔道部壊滅事件」と
呼ばれる事となる。
 2軍とはいえ現役の12人もの部員が、たった一人の生徒に撃破されたのである。
 部員たちは伊集院家系の私立病院に運ばれた。骨折5名、脱臼2名、他にも打撲、
捻挫など、全員がなんらかのケガや傷を負わされたのである。
 そして、キャプテンの大久保が「総ての責任は自分にある」と退部届けを提出し、
柔道部は実質的な活動停止状態に陥ったのである。
 もともと村櫛という部員は問題のある生徒であった。相当悪知恵と言うべきものが
働くらしく、決定的な問題行動は起こさないものの、要注意の人物だったのである。
 それをかばってきたのは、皮肉な事に大久保自身であった。実は、彼と村櫛は
古くから付き合いがあり、事あるごとに彼は村櫛の弁護をして来た。
 大久保は村櫛を更正させたかったのである。
 大久保は周りからの信用があり、「君がそう言うのなら」と言われるほどであった。
 周りの非難を浴びながらも、村櫛を柔道部に在籍させていたのは、柔道に打ち込んで
立ち直って欲しいと言う気持ちからであったのだが、今回、それが完全に裏切られた形
となってしまった。
 彼が退部届を出したのは、確かに責任もあったのだろうが、裏切られたと言う、
精神的ショックが大きかったのかも知れない。
 それはあくまでも推測にすぎないのであるが、現実的に言って、大袈裟ではなく、
将の一撃が柔道部を大きく揺さぶったのであった。
 だが、それで終わりではない。将には将の後始末があった。
 前日、教師に事情を聞かれた後、今日のこの時間に、保護者の美里と共に来るように
言われたのであるが、将はいつもの通り登校した。
「俺は自分のした事を後悔していない。処分が出たら従うけれど、それまではいつもの
通り生活するよ」
 出かける間際、将は美里にそう言った。美里は美里で、
「もし、将がそうしなかったら、首根っこを押さえてでも学校へ連れていったよ。
 胸を張って行っておいで」
と言ったのである。
 だが、学校側としては対処に苦労していた。
 なにしろ、滅多に聞かない事態である。通常なら将のした事は正当防衛として
押し通す事ができるのであろうが、柔道部の方の被害が尋常ではないのである。
 なにしろ、当の将自身が後になって「あれは少しばかりやりすぎだった」
と言うほどなのだ。
 ともかく、学校側は放課後、職員会議を開く事となった。
 その場に将もいた。そこで教師たちは、将のまた違う一面を見ることとなる。
 教師たちの質問や追求に、将は堂々と受けてたったのである。

「助けを呼ぶとかしなかったのかね?」
「状況は何度もご説明した通りです。あの状況で、誰にどのように助けを求めることが
出来たのか?どうかお聞かせください」

「なにも、あれほどの怪我を負わせる事はなかったのじゃないかね?」
「あの場合、一人一人の戦力を確実に奪わなければいけません。さもなければ、
袋叩きにあったのはこちらの方です。
 それとも、俺がケガをすれば良かったとでもおっしゃるのですか?」

「反省はしてないのかね?」
「それは、まず柔道部の跳ねっ返り連中に言ってもらえますか?
 か弱い女性を楯に取るなどと、自らの行為を恥と思わなかったのかと。
 その上でそのご質問に答えいたしますが、俺は自分のした事の責任は、常に取る
つもりです。どんな処分であろうと素直にお受けいたします」

 将の堂々とした受け答えに、教師たちの方が気押されたほどであった。
 だが、この一言が教師たちに最大のインパクトを与えた。
「君はインターハイにも出場した程の選手なのだよ。もう少しそのあたりの事も
考えてみたらどうか?」
 という問いに、将はこう答えたのである。
「それで好きな女性一人守れないなら、そんな物、どぶにでも捨ててやりますよ!」



 同時刻、美里は理事長室のソファに座っていた。
 隣には、将の実の父親、すなわち古式ゆかりの父親がいた。
 窓際に一人の老人が外を眺めながら立っていた。そして外を見ながら言った。
「吉野さん。お久しぶりですね。お元気でしたか?」
「は、はい」
 美里は緊張したような声で答える。
「それにしても、あなたがた親子は、そろって何かやってくれますね」
「・・・す、すいません」
「ほっほっほっ、いいんですよ。どうやら、やむにやまれぬ事情があった様です」
 その言葉に、美里は暫くの沈黙の後、深々と頭を下げた。
「理事長さん。どうかあの子、将をお願いします。
 あの子が間違った事をしたとは思いません。ですが、まったく正しかったとも
言えません。
 あの子はどんな処分でも受けると言っていますけど、どうか、退学にはしないで
ください。3年間の思い出をあの子に残してやって下さい。
 お願いします」
 退学とは大袈裟かもしれないが、美里にとってそれは
決して有り得ない事ではなかったのである。
 隣に座っていた古式も頭を下げた。
「私からもお願いいたします。
 私はこの二人にそれらしい事もしてやれなかった、父親としては失格です。
 ですが、こんな時ぐらい力になりたいと思うのです。
 どうかお願いいたします」
 真剣そのものの2対の視線に老人は答える。
「そう思っているのは我々も同じです。私達の仕事は、生徒たちを守る事でもあるので
すよ。
 やっかい事を排除するだけでは、それは解決にはならないのです。
 ご安心くだされ。私達はあなたがたの敵ではありませんよ。
 ・・・もっとも、彼の味方は我々だけではないようで、彼らからは敵視されてしまっ
たのですがね」
 そして老人は苦笑いを浮かべる。そこにはこんな理由があった。

 その日の昼休み、元城は米津と共に、テニス部の顧問に退部届の束を提出した。
「どういう事だこれは?」
 顧問教師の質問に、元城は胸を張り答える。
「今回の吉野の件は、明らかに吉野、ならびに我々テニス部が被害者です。
 万一、吉野に不当な処分が下されるなら、私達は安心してテニスに集中できません。
 なぜなら、それでは頑張れば頑張るほど、バカな連中に目をつけられる事になるので
すから。これはテニス部の総意です」
 顧問は大きなため息をついた。
「脅しのつもりか?」
「どうとっていただいても構いません」
 顧問が再びため息をつく。インターハイにも出場した学校の部員が、大量に退部すれ
ば、目立つ事態になるのは明白である。脅しには充分だった。
「こんな事を考えるのはお前じゃあるまい。おおかた、米津あたりの考えだろ?」
 米津は答えず、ただ静かに笑うだけである。
「元城はテニス部の総意と言うが、1年生まで巻き込むつもりか?
 あいつらはまだこの学校に来たばかりだぞ」
 元城も米津も内心動揺していた。顧問の言う通り「総意」というのは、
はっきり言ってはったりである。
 2年3年の有志だけであり(といっても大半なのだが)、1年生にこの事は言っても
いない。
 顧問に鋭い所を突かれたのだ。
 だが、そこに西島が飛び込んで来た。
「先輩!ひどいじゃないですか!1年生には言ってくれないなんて!」
 その手には、余り上手いとは言えない字で「退部届」と書かれた白封筒があった。
「吉野先輩がいないんじゃ、燃えないじゃないですか」
 その後ろには松島、福島、江ノ島の3人や他の1年生がいた。
 やはり手には封筒が握られていた。
 ニヤリと笑う西島につられ、元城と米津はやれやれと言った表情で笑った。
 顧問は首を横に振り答える。
「言っておくが、教師はお前達の敵じゃないぞ」
「?」
「俺だって、吉野の味方だ。はやまった事をするんじゃねえよ」
 声そのものは厳しい物だったが、そこには暖かい物があった。



「悪いようにはしませんよ」
 老人がそう言うと、美里と古式は更に頭を下げる。
「はい、お願いします」
 将は決して孤立無援ではなかったのである。

 


   駆け抜ける嵐(9)+α



 職員会議は紛糾していた。
 将を別室に控えさせた後、職員達は将に対する処置をどのようにするか話し合って
いたのであるが、結論はなかなかでなかった。
 いや、正確に言うならば、結論の方向はある程度決まっていたのであるが、
その困難を考えるとなかなかそうとは決められないのであった。
 だが、それでも早急に結論を出さねばならないと言う、奇妙な雰囲気が、
その会議室にあった。いや、プレッシャーと言うべきだろうか?
 それは、その会議室を幾重にも取り囲む生徒たちから放たれている物であった。
 単なる野次馬などではない。将の事が気になり、自然発生的に集まった生徒たちで
ある。
 それは詩織、古式、連尺、元城などのテニス部員や、将のクラス2−Bの、優美、
四本松、和人と言った生徒等がその主だったものなのだが、何故か伊集院レイや
将自身には面識が無い女生徒等もおり、その人数は50名を下らない。
 解散を促す教師の声に真っ先に反応したのは、早乙女優美であった。
「いーえ!将君が出て来るまで優美帰りませんよ!」
「そうですよ。どうせここから離れたって、気になって何も手につかないんですもの、
ここから動きません」
 隣にいた四本松が続いた。その後は一斉に声が上がり、各々の言葉を聞き取る事は
不可能になった。
 その中、詩織が前に進み出る。
「私は当事者です。どうして私に発言させてもらえないのですか?
 将君は私と連尺さんを守ってくれたんです。それは何度もご説明しました。
 将君が処分されること自体納得できません」
 詩織は本来、こうして大袈裟に騒ぎ立てる事は本意ではない。だが、こうせずには
いられなかったのである。
 連尺はこの日学校を休んだ。おそらくショックが尾をひいたのだろう、高熱が
出てしまい、とても登校できる状態ではなかった。
 今、当事者として将をかばえるのは自分しかいないという思いからなのである。
 教師としてもその気持ちは判るので、無下には追い返せない。
 会議はすでにそれとは違う段階に入っているのだが、それを言う訳にはいかない。
 その板挟みに内心ほとほと困っていた教師に、生徒達の背後から援軍がやって来た。
「君達の気持ちはわかっています。
 だからその先生をあまり困らせるんじゃありませんよ」
「お、おじい様?」
 伊集院レイが驚いたような表情をする。
 生徒たちの後ろにいたのは、美里と古式の父親を両側に控えた、この学校の理事長、
伊集院レイの祖父であった。
「君達の気持ちは十分理解できます。私達を信じて下さい」
 そう言って理事長は会議室に入って行く。
「おじい様」
 傍らを通り過ぎる時、伊集院は言った。
「・・・彼の事なのだな?お前が言っていたのは」
「・・・はい」
「そんな心配そうな顔をしなくてもよい。私達に任せなさい」
「・・・はい」
 伊集院レイはそれだけ言うと、深々と頭を下げた。



 そして、紛糾する会議室に老人がやって来た。
「理事長?」
「理事長!」
 その場にいた職員達はみな緊張してしまっているようだ。
「皆さん、話は聞きました。そろそろ結論を出す時でしょう。
 責任は私が取ります。一人の生徒の将来と可能性、その生徒を取り囲む人達の思いを
守れないのでは、私達は物事を教える単なる機械にすぎません。
 困難は予想できますが、取るべき道は決まったのではないですか?」
 室内にいた職員全てが頷いた。進行役の教師が立ち上がる。
「私達は今回の件に関して、吉野将君を擁護する立場をとることで、
異論ありませんね?」
 反対するものがいないのを確認して続ける。
「各関係機関、警察、教育委員会、テニス協会、PTA等には充分事情を説明し、
理解と協力を得るよう説得に努力する事。
 これは決して秘匿する事ではなく、我々が考えた最良の方法である事。
 以上が私立きらめき高校の基本的方針です。
 反対がないようでしたら、具体的な役割分担に入ります」
 その時、一人の教師が発言を求めた。
「基本方針については異論はありません。ただ、やはり、どんな理由があるにしろ、
人にケガを負わせるのはいけない事です。
 今回はケガを負わされた方に落ち度があるのですが、それでも彼にも懲罰を加える
べきなのではないのでしょうか?」
「どのように加えるべきかと?」
「これは私案なのですが・・・」
 その場にいた美里は、胸が締め付けられる思いであった。



 会議室のドアが開かれた。その場にいた生徒各々が固有名詞を口にする。
「吉野」
「将君」
「将」
 教師に連れられ、将が出て来たのである。
 集まっていた面々の顔を見て、将の表情が悲痛なものとなる。
 不安と恐れがその場を走り抜けて行く。
「先生!どうなんです!?」
 元城が教師の腕をつかみ、問いただした。
「それには私が答えよう」
 それは会議の進行役の教師であった。
「今回の件に関して、学校側としては、吉野将君に、停学4週間、ならびに
テニス部からの除名の処罰を与える・・・」
 戦慄が各自の心を引き裂いて行く。予想もしなかった、いや予想したくなかった
重い処分である。
「!」
「そ、そんな!」
「そんな馬鹿な!」
 戦慄が憤りに変わる寸前、教師は続けた。
「話は最後まで聞きなさい。ただし今回の件に関しては、事情が事情である為に、
その処分の発効までに2週間の反省期間を与える」
「・・・はあ?」
「・・・判らないのか?要するに執行猶予だよ」
 教師は笑った。それは不謹慎に取られても仕方が無いが、悪戯っぽい笑いであった。
 その場の空気が変る。
「そ、それじゃあ」
 米津の声に教師は頷く。
「そうだ。この期間に何事もなければ、まあ、あるとは思えないが、彼に対する処分は
全て無効のものとなるわけだ」
 ほんの少しの間を置いた後、一斉に歓声が上がる。
「優ちゃん!」
「優美ちゃん!」
 意味のわかった優美と四本松が抱き合う。
 元城が笑いながら米津の首をとる。米津も抵抗しない。
 和人が天井を見上げる。
 奇声を発しながら西島が両手を上げる。
 古式が微笑む。
 伊集院が小さく右拳を固める。
 そして、
 肩を震わしながら、詩織は両手で口元を押える。
 その白く細い指の間を、水滴が埋めていく。
 美里に促され、将が前に進み出る。そして神妙な面持ちで頭を下げた。
「この度は、本当にご心配、ご迷惑をおかけしました」
 その場にいた全ての者が頷いた。
 その時である。元城が詩織の背中を押した。
「あっ!」
 小さな悲鳴を上げて詩織がバランスを崩す。前のめりになった詩織の両手をとって
将が支える。
「大丈夫ですか?」
 詩織は答えない。ただ、肩を震わせながら、
「良かった。本当に良かった」
 そう言っただけだった。
「・・・先輩」
 将もそう言うのが精一杯だった。
 その様子を見ていた本郷は、手を頭の後ろで組んでつぶやいた。
「あーあ、本当にもう、泣かれちゃったらかなわないじゃない」
 歓声が湧き上がる中、彼女だけは複雑な表情になっていた。

 理事長である老人が、小声で美里に言った。
「どうやら、17年前、あなたが下した判断は正しかったようですね?」
 目を閉じたまま美里は答える。
「はい。私の自慢の息子であり、・・・私の最高の恋人です」
 老人は納得したように微笑んだ。
「そうですね、そう思いますよ」



 それから早くも1週間が過ぎた。各関係機関への学校の粘り強い説得と、
努力によって、将は今までと変わらない生活を送れるようになっていた。
 村櫛をはじめとする柔道部の面々は、それぞれ長さの違う停学処分を受けた。
 もっとも、ケガなどによって、そうでなくても休む事になるわけである。
 和人に言わせれば「いい薬だ」と言う事になる。
 退部届を出した大久保も、周りの説得を受け、柔道部の再建に乗り出していた。

 そんなある日の放課後、部活の練習に出ていた本郷は声を震わせながらつぶやいた。
「こいつら、水でもかけちゃろか!」
 彼女の言う「こいつら」とは、テニスコートの周りに集まった
女子生徒達の事である。
 「柔道部壊滅事件」いや将がインターハイに出場した頃から、テニス部の注目度は
決定的な物となっていたのだ。
「見て見て!2番コートで話しているのが、吉野君と藤崎さんよ」
「なんでも藤崎さんって吉野君の為に選手を辞めたんだって。すごいよねえ、なかなか
できないよ、そんな事」
「吉野君も、あの事件の時「命に換えてもあなたを守る」って言ったって話、
どうやら本当らしいよ」
「ああーーいいわねえ。言われてみたいわ、そういうセリフ」
「でも、悔しいけど・・・」
「お似合いよねえ」
 合唱が上がった。
「でも、吉野君って、混合ダブルスのペアの古式さんと仲が良いって噂聞いたけど?」
「え?同じクラスの四本松って娘と遊園地に行ったって話は?」
「違う違う。そりゃ早乙女って娘だよ。四本松って娘と行ったのは海」
「テニス部のマネージャーの連尺さんとはどうなってるの?
 あの事件の時、彼女もいたんでしょ」
「ううーーん・・・なんだかそれじゃ、「あの人」みたいじゃないか?」
「そう言えば「あの人」も藤崎さんと噂になってなかったっけ?」
「まあ、お隣同士だから仕方がないと言えばそうだけど・・・・うそ!?」
 そう言って固まった一人の女子生徒の視線を、他の者が追う。
「本当に!?」
「なんでここに!?」
 他の者も動きが止まってしまった。


 そのころ、その将と詩織は練習メニューについて話し合っていた。
「それじゃあ、筋力トレーニングを増やすということでいいわね?」
「ええ、良いですよ。また西島君に目の敵にされてしまうでしょうけどね」
「うふふ、お手柔らか・・・・」
 詩織の声が途切れる。
「先輩?」
 将の問いかけに詩織は答えない。そして小さくこう言った。
「・・・トシくん?・・・どうしてここに?」
 将は振り返る。そしてそこに一人の男子生徒の姿を認めた。
(あの人だ)
 直接の面識はない。しかし将にはそれが誰なのか判っていた。
 きらめき高校の生きた伝説、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、
あまつさえ一部ではスーパーマンとさえ言われる人物。
 そして今、将の隣にいる詩織の幼馴染・・・。
 詩織が「トシくん」と呼ぶその人物の名前を、将は心の中で叫んだ。

(「あの人」君本人思さんだ!)



−−−−−−−−−−−−−−−−−駆け抜ける嵐−−−終


                   鈴鹿8時間(HQI01420@niftyserve.or.jp)

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