ある、なんでもない一日
 
 
 
 一夜を通し、決して25度を割ることのなかった寒暖計が、障子越しの朝陽の中で輝
いていた。
 その、柔らかくも力強い朝の光の中、ゆかりは床の中で目を覚ます。
 薄手の掛布団をそっと外し、静かに上半身を起こしながら、わずかに乱れた浴衣の前
襟を直す。
 そこからうかがえる白い素肌に、うっすらと光る水滴を枕元の手ぬぐいで拭う。
 さらに同じように、うなじや、額に広がる水滴も拭った。
「ふう」
 不快感からわずかではあるが解放され、小さな吐息を漏らす。
 そして、おもむろに、ゆっくりと立ち上がり、障子戸を左右に開く。
 その前には、縁側を経て、見事なまでの日本庭園が広がっており、降りしきる蝉時雨
は、彼女の耳朶を打つ。
 正面の朝陽を右手で遮りながら、ゆかりは微笑みと共に言葉を漏らす。
「今日も、良いお天気ですねえ」
 彼女の言う通り、この数日、日本列島は太平洋高気圧に広くおおわれ、晴天が続いて
いた。
 天頂付近の空は、どこまでも青く広がっている。
 そして、沸き立つような白い雲が、街並みの向こうに、すでに浮かび上がっていた。
 そんな景色を、しばらくの間、首を巡らし眺めていたゆかりだったが、やがて、右手
人指し指を顎に当て、首を傾げる。
「おかしいですねえ。何か、ないような気がするのですが、何なんでしょう?」
 それは誰に言うでもない独り言だった。
 当然のようにその問いには誰も答えず、時だけが過ぎていく。
 やがて朝食の用意が出来た事を知らせる声に、ゆかりは返事をしてから、半袖の白い
ブラウスに、青いスカートという私服に着替える。
 そして、ほどいていた長い髪に櫛を通し、いつものように左右でまとめた。
 ゆかりが目を覚ましてから今までの間、時計の長針は、たっぷり半周以上していた。
 
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 食卓の上に並べられた朝食は、見事なまでの和風のものだった。
 その中、透明なグラスに、柳色の飲み物が注がれていた。
 浮かんでいた氷が溶け、グラスと触れ合い、冴えた音を部屋の中に響かせる。
「静岡の妹夫婦が、いつものように冷茶を送ってくださったのですよ」
 やや年配の女性の声に、ゆかりが答える。
「竹名堂の冷茶ですね? お母さま」
「はい、そうですよ。毎年恒例ですものね」
 母がそう言ったのを受け、ゆかりはそのグラスに口をつけ、手首を傾ける。
 空腹の胃の中に、ひんやりとした物が流れ込むのをゆかりは実感した。
 グラスのかいた汗を指でなぞりながら、嬉しそうに笑い、ゆかりは言った。
「美味しいですねえ」
「この時期は、やはり、これがいいですねぇ」
 静かに笑いながらそう言った母の右隣には、和服の、恰幅のいい中年の紳士が座って
いた。
 その紳士こそ、ゆかりの父である。
 この家には、多数の使用人がいるのであるが、今、この場にいるのは、この3人のみ
である。
 朝食をとりながら、父はゆかりにたずねた。
「ゆかり、箸が進んでいないようだが、体の具合が悪いのか?」
 ゆかりの前の料理がいっこうに減らないので、父は心配になったのだ。
 だが、父親の心配をよそに、ゆかりは微笑む。
「大丈夫です。ただ、私の部屋に、足りない物があるような気がしてならないのです」
「それはなんじゃ? もし、何なら、わしが買ってあげるぞ」
「はい、ありがとうございます。・・・でも・・・」
「・・・でも?」
「それが何なのかが判らないのです」
「・・・、そ、そうか。ならば、思い出した時には言ってくれるな?」
「はい、お願いいたします」
 ゆかりがそう答えると、父は満足そうにうなずいたが、ゆかりの心の中は、多少なり
とも、不満があった。
『思い出せないというのは、気になりますねえ』
 
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 ゆらゆらと揺らめく重い大気の中、限りなく短い影を従え、つばの広い帽子をかぶり
ながら、ゆかりは庭に水をまいていた。
 左手に手桶、右手に柄杓を持ち、井戸でくみ上げた水を、丁寧に樹木に与え、大きさ
の揃った砂利道を、洗い流すように水をまく。
「お嬢様、そういう事は私達の仕事です」
 という、使用人の声に、ゆかりはにっこりと微笑みながら答えた。
「たまのお休み、このぐらいの事はさせてください」
 「しかし、・・・」と反論しようとする声を半ば無視するかのように、ゆかりは手桶に
手を入れ、嬉しそうに言った。
「ほら、こうすると、気持ちがいいんですよ」
 井戸でくみ上げられた地下水は、適度な温度で、ゆかりの手に好感を与えていた。
 ゆかりはそのままの姿勢で、やや傾き始めた、照りつける太陽を見上げた。
「お日さまが降りてくれれば、多少なりとも、すごしやすくなるのでしょうね」
 それは、すごしやすさだけを期待しての発言ではなく、彼女には、早く夕刻になって
欲しいという理由があった。
 
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 なれた手つきで、ゆかりは浴衣の帯ひもを締める。寝巻き着とは違う、外出用の浴衣
である。
 姿見に映る自分の姿を確認して、ほんのわずかな色の紅を唇にさす。
 そんな様子が気になる父は、たまらず母に尋ねる。
「ゆかりは何をしているのだ?」
「今から、神社のお祭りに行くそうですよ」
「何? 一人でか?」
「いえ、お友達と行かれるそうです」
「・・・そうか、それならばよいが、・・・まさか、男友達というのではないだろうな?」
「あら? よくお判りになりましたね」
「な、何!!」
 血相を変えた父は、今にも駆け出さんとしたが、母がその手を取る。
「あなた、ご自分の娘が信用できませんか?」
 表情はにこやかだが、有無を言わせない物がそこにはあった。
「・・・判った。部下には手出し無用と言っておこう」
 不満を抱えつつも、観念したように言った父に、母は静かにうなずいた。
 
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 日が落ちた事もあって、日中と比べると、はるかにすごしやすくなった夕闇の中、
ゆかりは、彼と境内を歩いていた。
 彼は同じテニス部の同級生である。
 二人はこうして、二人だけで出歩くことが多かった。今日もそんな日の一日である。
 多くの人が繰り出し、境内の賑やかさは相当なものだった。
 その参道の両脇には露店が並び、二人はその店先を見て歩いた。
 ところが、そうこうしているうちに、気が付くと、ゆかりは彼とはぐれてしまってい
た。
(どちらに・・・)
 その姿を探し求めるゆかりの視界に、彼が走って入って来た。
「ごめん、ごめん。ちょっと買い物をしてきたんだ」
 息を切らせながら言った彼に、ゆかりが聞く。
「何を、お買い求めになったのですか?」
「うん、これなんだけどね。あんまり綺麗だから衝動買いしちゃったんだ。
 よかったら、これ、古式さんにあげるよ」
 彼はそう言って、手にした包みをゆかりに手渡す。
 その包みを開けたゆかりが、にっこりと微笑む。
「まあ、これは、また結構な物を。こんな物を、頂いてよろしいのですか?」
 彼は黙ってうなずいた。ゆかりの嬉しそうな笑顔が見れただけで、彼には十分だった
のだ。
 
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 その夜、ゆかりは彼から貰った物を、自室前の縁側の軒につるす。
 夜風にあおられ、それが爽やかな硬質的な音を、日本庭園に伝える。
 彼から貰った物、それはビードロ細工の風鈴だった。
 そしてそれは、ゆかりが、朝からこの場所に、欠けていると思えてならなかった、
「何か」だった。
 ゆかりはその風鈴をうちわであおぐ。
 光を連想させる音色が長く伸び、再び日本庭園の中を埋めていく。
 その光景を眺めながら、ゆかりはにっこりと微笑む。
 
 
 「夏ですねえ」
 
 
                   おしまい。
 
 
解説
(後書きから引用)
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 ある、なんでもない一日 後書き
 
 
 なんでもそう思えば疑問が浮かぶものですが、夏というのは不思議な季節だと思いま
す。
 たとえば「夏の思い出」という言葉はよく聞きますが、他の季節では余りそう言うこ
とを聞きません。(私だけかも知れませんけど・・・)
 よくよく考えてみると、「夏」って結構いろんな事を連想するけれど、どれも、決定
的ではないような気がします。
 それで「夏休み」というテーマを聞き及んだ時、私の頭の中は真っ白になりました。
 何も浮かびませんでしたから。
 ともかく、「夏」を表現したいな。と思いました。暑さだけではなく、その中に
「涼」も含ませることが出来たらいいな。なんて欲張ってみたのですがいかがでしたで
しょうか?
 話の中に、あえて特別な山のようなものは入れずに、本当になんでもない一日を描写
したかったのですが、こういうのは難しくて、私には荷が勝ちすぎていたかも知れませ
ん。
 でも、自画自賛するわけではないのですが、なんとかまとめられたかと思うのですが
いかがなものでしょうか? 
 ちなみに、最初この話の題は「蝉時雨」でした。
 ご存じの方は「ああ、と思われるでしょう。マジカルエミのOVAにその題のものが
ありまして、ひどく感動したことがありまして、このお話はその影響をかなりの部分で
受けています。
 
 まあ、このお話はそんな中から生まれたものです。
 
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 なお、このお話は、WINときめき☆の会発行の「13色のステンドグラス」用に
書き下ろしたものです。
 
 
 

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