第11回 「甲斐の画策」 冬休みも終わり、学校は3学期に入っていたが、詩織の朝の習慣は変わることがなか った。 だが、この日、少しばかり、いつもと違う事が起きた。 それは、いつもと同じ、配達に向かう上り道だった。 詩織の180SXを待ち構えていたように、1台の車が背後に付いたのだった。 「?」 バックミラーに写るライトの光に、詩織は不思議に思いながらも、さして気にはなら なかった。 積み荷の豆腐を傷める事がないように、上りはそれほどスピードを上げられないのだ が、詩織の180SXは、その車を軽々と振り切った。 「毎度ありがとうございました」 頂上のホテルに豆腐を納入して、詩織は180SXに戻った。 「!?」 背後に人の気配を感じ、詩織は振り返った。こんな時間にこの場所で人と会うなどと 言うことは、今までになかった。 「おはよう、藤崎さん」 夜明け前の暗闇から、ゆっくりと姿を現したのは、甲斐だった。 「甲斐先生!? ど、どうしたんですか? こんなところで?」 詩織は、直接、甲斐の授業を受けたこともないし、それほど、近しいと言う存在では ない。確かに、学校内では知らない間ではない。加えて、先日のバトルの前にも顔を合 わせてはいる。 しかし、こんな時間にこんな場所で会うと言うのは、かなり異常な事態だ。 詩織の心の中で警戒信号が鳴る。 「そんなに張り詰めないでくれよ。・・・確かに、こんな時間に突然現れれば、びっく りするのも無理はないけどな」 詩織の発する空気が伝わったため、甲斐は和らいだ声で言った。 「脅かさないで下さいよ。 ・・・さっき後ろに付いたのは、先生だったんですね?」 「付いたと言うか、離されたというか? だったけどな」 甲斐は顔をしかめながら、詩織の推理を肯定した。 詩織がそんな甲斐に聞く。 「・・・で、なんのご用ですか?」 詩織は緊張感を多少緩め、甲斐に聞いた。いつもの口調のまま甲斐が答える。 「デートのお誘い」 「?」 「というのは、まあ、冗談なんだけど、再来週の日曜日、空いているかな?」 「え? なんで、そんな事を?」 「ぜひ、来てもらいたい所があるんだが、・・・」 甲斐がそこまで言った段階で、詩織にはピンと来た。 「また、車に関係したことですか?」 「・・・さすが、察しが良いな」 的を射た詩織の返事に、甲斐は嬉しそうな表情になった。詩織は、どうも甲斐に良い ように扱われてしまっているような気がして、少しばかり癪にさわる。 「それで、どうすればいいんですか? 私、帰って学校に行く準備をしないといけない んですが・・・」 一時は柔らかくなった詩織の口調が、やや、硬くなる。 「ああ、そうそう。用件用件」 そんな詩織に全く構わず、甲斐は続けた。 「180SXに乗って、きらめきサーキットに来てくれないか? 詳しいことは、来れば判るよ」 「ずいぶん、急で、一方的な話ですね。 確かに、これと言った用事はありませんけど、それで、どうして私が行かなければな らないんですか?」 ややきつい口調となった詩織の言葉だが、甲斐はいっこうに気にする様子がない。 「来てもらいたい理由は色々あるんだが、それ以前に、藤崎さんは、自分からすすんで サーキットに行こうとするはずだよ」 「?・・・どういうことです?」 「その日、サーキットには君が会いたいと思う人間が来るからさ」 「?」 サーキットと言う場所に、誰か有名人でも来るのか? その取り合わせを色々考える 詩織だったが、どうもピンと来なかった。 少なくともレーシングドライバーで、会いたいと言う人間はいない。 「誰なんですか?」 詩織の問い掛けに対し、甲斐は回り道をしながら答える。 「今までは資金協力だったり、技術提供と言う形で参加はしていたが、今年、伊集院グ ループは、フォーミュラレーシングチームを、本格的に立ち上げる事になった。 エンジンは幽玄、シャーシはレイーラ、タイヤは・・・」 と、事細かに、甲斐は詳細を話すのだが、詩織には何を言っているのか、よく判らな い。 「あの・・・」 ”それが何か?”と詩織が言い掛けた時、甲斐がウインクして言った。 「ドライバーの何人かは、全くの新人を起用する事になったんだがね。 そのうちのF−3クラスに、イギリスのフェザーレーシングで修業していた、若い、い きのいい奴を引っ張って来たんだ」 そこまで聞いて、詩織の表情が、明かに変化した。 「ま、さ、か・・・」 詩織のその声を聞いた時の甲斐の表情は、正に勝ち誇っているようだった。 「その、まさかさ。 そいつの名は、藤崎拓也。 藤崎さん。 君のお兄さんだよ」 日付変更線の向こう側、東と西が出会う国の、緑豊かな一地方都市。 その校外に、小さいながらも威厳のある、石造りの旧家があった。時代が時代なら ば、おそらくその住人はその地方の貴族であっただろう。 だが、年と共に主が替わっていき、現在の主になったのは、およそ20年ほど前のこ とだった。 屋敷の裏側には、規模も小さく、スタンドやサービス施設こそは質素だが、コースそ のものは立派な作りのサーキット場が作られていた。 そして、その屋敷の一室で、一人の東洋系の青年が、身の回りの品を大きなバッグに 詰めていた。 そして、その背後のベッドに腰を下ろした、その青年と同じぐらいの年齢の、金髪の 青年がいた。 金髪の青年が口を開く。 (以下、会話は英語でされています)(笑) 「拓也がチームを離れるのは寂しいけど、僕たちはそういう仕事してるんだし、自分の 国のチームからオファーがあって、いい条件なら、行くと思うからな」 それに答えるために、その青年は振り返る。短めの髪に細めの目をした彼は、苦笑い をしながら答える。 「まあね。それもあるけど、いろいろあってね。 とにかく、うるさいんだ。妹が・・・、連絡をよこせとか、帰れないのか、とかね」 そう言って、彼はにっこりと笑った。 「お兄さん・・・兄が帰ってくるんですか?」 (日本語の会話に戻る)(笑) 詩織は驚きつつも、身内の言い方を訂正してから、甲斐に聞いた。 (このあたりが、詩織ちゃんらしいところ) それに対する甲斐の答えは、相変わらずの、楽しそうな口調だった。 「断っておくけど、これは本当に偶然なんだよ。 契約の話は、前々からしていたそうなんだ。藤崎さんとは、全然、関係のないところ でね。 俺も最初は、全く気が付かなかったんだが、同じ藤崎という名字。 まさか? とは思ったんだけどね」 「それは判りました。で、本当に兄が帰ってくるんですね?」 その声に、自分が詩織の質問に答えていないことに気が付いた甲斐は、気を取り直 し、ゆっくりとした口調で答えた。 「ああ、帰ってくるよ。全日本F−3戦のドライバーとしてね」 それを聞いた詩織の表情は、何とも表現しようのない、複雑なものになっていた。 強いて言えば、ぼうっとしたような表情ともいえるが、その中には、安心したと言う 成分と、機嫌が悪いと言ったものも含まれていたのである。 「でも、私、兄からは何も聞いてません。しかも、今のお話だと、少なくとも、家には 帰ってこないように聞こえたのですが?」 急な話であっても、詩織の頭脳は冷静に回転し、そこまで推理して見せた。その推理 の正しさに、甲斐は内心で舌を巻きながら答える。 「まあ、帰ってくると言っても、しばらくはテスト、テストで、ご実家に帰るめども立 たないから、ある程度落ち着いたら、と思っているんじゃないか?」 「それ以上に、ただ単に、面倒くさい、と考えてるかも知れませんけどね」 そう言った詩織は笑顔を浮かべていたが、それは苦笑いなのか、それともほっとした 笑顔なのか、甲斐には判断がつきかねた。 だが、ともかく詩織の答えを確認しようとした 「それじゃ、来てくれるよな」 「はい。断っても、そうはいかないようですし・・・」 この時も詩織は笑顔を浮かべていたが、それは明かに苦笑いだと判った。 比較的、”好意的な”苦笑いだと言うことも判ったので、甲斐も同種の笑顔で答え る。 「そう思ってるなら、それはそれでいいよ。じゃあ、頼むね」 「はい」 そうして、二人は別れ、それぞれの車で峠を降りていったのだが、案の定と言うか、 甲斐は詩織に全くついて行けず、あっと言う間に離されていった。(苦笑) 冬休みが明けたきらめき高校は、受験を間近に控えた3年生達の緊張した雰囲気が、 校内に漂っていた。 そんな中、公は図書館で勉強をしていた。本当なら予備校等に行くというのが、あり がちの行動なのだろうが、公はなんとなく行きそびれてしまい(行きそびれたじゃない だろう・・・)、結局、全て独学で受験に臨む事になっていた。 そんな訳で、ほとんど自主登校となっている3学期に、公はこうして図書館で自習を する事が多かった。 そんな公が向かっている机の上、公の視界の隅で、滑らかなラインの指が、2回ほど 軽く机を叩いた。 それに気がついた公は顔を上げる。 「清川さん」 小さな声で公が言った。 公の小さな声の先に、数冊の本を小脇に抱えた望が立っていた。 「シ」 望は右手に人指し指を唇にそっと当てて、聞こえるかどうかという、微妙な声でそう 言った。 図書館と言う場所柄を考えてか、「そのまま続けて」とでも言うような仕種を右手で してから、公の向かいに座り、本を読み出した。 「?」 一瞬、公はどういう事か? とも思ったが、望の言う通り、そのまま勉強に集中して いった。 ページをめくる音がするだけの、静かな時がしばらく流れた後、公が顔を上げると、 いつの間にか机につっぷし、自分の両手を枕にして、望が静かに眠っていた。 「き・・・」 ”清川さん”、と言って、彼女を起こそうとした公だったが、やはり場所柄を考え、 多少ためらいながら、望の二の腕のあたりを、軽くゆすった。 眠っていたというより、まどろんでいたと言う感じなので、望は声も上げず静かに顔 を上げた。 「行こうか?」 望だけにに聞こえるように、小さな声で公がそう言うと、望もうなずいて同意した。 ただ、その表情は恥ずかしそうに赤面していた。 「やだなあもう。本を読んで寝ちゃうなんて・・・」 公と望は図書館を出て、校内を歩いていた。その途中、望はそう言って、しきりに恥 ずかしがった。 「ははは、清川さん、寝不足なんでしょ? ”早起き”してるから」 「う、うん。まあ、それもあるかな・・・」 公のフォローを素直に受ける望だった。 そして二人は学生食堂へとやって来た。 下校してもよいのだが、そうなると、なぜか、望は公と一緒に帰りたがらないので (笑)、結局、学生食堂で話し込むことになった。 「で、清川さん。用は何なの?」 「うん。あのね。さ来週の日曜日、空いているかな?」 「え? えーと。特に用事はないけど、それが?」 「よかったら、きらめきサーキットに行かない?」 「きらめきサーキット?」 望のお誘いなら、公は断ることは滅多にないのだが、その場所を聞いて、少し顔が曇 る。 「何があるの?」 「あれ? 知らない? モータースポーツ、ファン感謝デーがあるっていうの」 「あ、ああ。あれね。一人じゃ行ってもしょうがないから、忘れていたけど、清川さん が行くっていうなら、いいね。行こうか」 公の返事に、少し心配げな評定をしていた望が笑顔を浮かべる。 「よかった。それじゃ。朝、迎えに行くからね」 「うん」 そう約束した二人は、それぞれの帰路に付いた。やはり、望は先に帰ってしまったよ うだった。(笑) 公とは対照的に、人思は予備校通いの日々が続いていた。 アメリカにいた間に、どうも日本流の勉強方法と言うものを忘れてしまったようで、 その勘、みたいなものを取り返すために、通うことにしたのである。 ”学校に行きたくとも、行く学校がないというのは、予想以上にハンデだな”と人思 は思った。 その予備校の帰り道。夕焼けの商店街で、人思は見知った人物を見かけた。 「あれ? 虹野さん?」 そう言った人思の視線の先に、買い物袋を両手に下げた沙希が歩いていた。 「あ、君本さん」 沙希は振り返り、足を止めた。 「お買い物の帰り? ずいぶん大荷物になってるね」 「え、ええ。ちょっと買い込んじゃいました」 そう言って、沙希は照れ臭そうに小さく舌を出した。 「なんか重そうだね。持ってあげるよ」 「え? そんないいですよ」 沙希は断ったのだが、人思は 「いいよ。こっちなんかかなり重いじゃない?」 と言って、片方の買い物袋を、半ば強引に持ってしまった。 「やっぱり、かなり重いね。これを持っていくのは大変でしょ。こういう時、男を利用 しなくっちゃ」 笑顔でそう言った人思の言う通り、大根やキャベツなどが入っている袋は、かなり重 量があった。 「ありがとうございます。お言葉に甘えます」 「あのねえ。同い年なんだから、そんな敬語はやめてよ。肩がこっちゃうよ」 優しい口調で人思がそう言うと、沙希はすまなそうな表情になった。 「ごめんなさい。なんだか、君本さんって大人っぽいから」 「そうかな?」 「そうです」 みょうにきっぱりとした沙希の口調に、人思がくすくすと笑いだし、それにつられる ように沙希も笑った。 先に笑いをおさめた沙希が、今度は人思に聞いた。 「予備校行ってるんですね?」 「ああ、出来れば浪人にはなりたくないからね」 「お勉強頑張ってください」 「ありがとう。虹野さんは専門学校へ行くんだったよね。もう、決まったの?」 元旦に会って話した時、沙希にその話を聞いていた。 「ええ。行くところは決まったから、後は卒業を待つだけですね」 その答えを聞いて、人思は斜め上の空を見上げて、何やら考えごとをしたあげく、ぽ つりと言った。 「じゃあ、再来週の日曜日。きらめきサーキットに行かない? なんでもファン感謝デ ーがあるんだって」 それを聞いた沙希は、しばらくキョトンとした表情になった。その後、冷やかすよう な苦笑いを浮かべる。 「いいんですか? 追い込みの時期じゃないんですか?」 「いいの、いいの。息抜きしなくっちゃ、ね」 あくまでも明るい口調の人思の答えに、沙希は笑顔を違う雰囲気のものに変えた。 それは”しょうがないなあ”という、呆れたという成分が多少含まれていた。 「はい。いいですよ」 人思はその返事に、にっこりと微笑んだ。 個人の意図など全く関係のないところで、一つのイベントが、また、多くの人間を巻 き込む事になっていた。 to be continue RZM-2「12」 第12回 「再会 きらめきサーキット+α」 「なんだ。詩織一人でいくのか? 公くんや人思くんはどうした?」 「しょうがないでしょ。公くんもトシくんも用事があるっていうんだから」 甲斐と交わした約束の通り。きらめきサーキットに向かうため、180SXを借りよ うとした詩織は、父親の文也に痛いところを突かれた。 それに対して、詩織はあくまでも平静を装いつつ、180SXのシートに座りながら 答えたのだが、文也はさらに突っ込む。 「いいの。拓也兄さんに会いに行くんだもの。一人だろうと関係ないわ。 それよりお父さんのほうこそどうなの。自分の息子が久しぶりに日本に帰ってきてる のに、会いに行こうとは思わないの?」 詩織は拓也が帰ってくると言う事を、もちろん、文也に話した。だが、文也の答えは 詩織の予想に反していた。 「なんで、こっちから会いに行くかなくっちゃならないんだ? 凱旋帰国と言うのなら ともかく、帰国しただけだろ。拓也のほうから家に顔を出すと言うのが、筋ってもんだ ろうが」 「はいはい。そうでしたね。ともかく、車、借りていきますからね」 あきらめたような表情になって、詩織がエンジンをかけると、文也が窓越しに詩織に 言った。 「気をつけてな。・・・ところでな、詩織」 「何?」 「拓也に、たまには家に顔を出せ。と伝えておいてくれ・・・」 詩織は一瞬、きょとんとしたような表情になったが、すぐに笑顔を浮かべながら、い つものように素直な口調で答えた。 「はい」 走りさる180SXのテールを見送って、文也はつぶやいた。 「あの甲斐っての、なかなかやるもんだなあ。あの、詩織をいいように扱うとはな」 実は数日前、文也のもとに甲斐が訪ねてきたのである。 「あの伝説のラリードライバー、藤崎文也さんに、ここでお会いできるとは思いません でしたよ」 そう言って握手を求めてきた甲斐に対して、文也は本能的に”ただ者ではないな”と 言う印象を受けた。 そして、甲斐は、詩織の兄、拓也が日本に帰って来ること、それに伴って、詩織に、 ある”誘い”を掛けている事等を話した。 「詩織ももう大人だから、自分で物事を考えることは出来るだろう。俺の口から反対と かはしないつもりだが、そんなに上手く、詩織が甲斐さんの言う通りに動いてくれるか どうかねえ?」 「ま、その辺は俺も自信はありませんがね。だからって、何もしないのは俺の性に合わ ないんですよ」 そう言って甲斐は、不敵とも思える笑いを浮かべるのだった。 そんな甲斐の表情を思いだし、文也は独り言を言った。 「こりゃ、また新しく車を買わなきゃ、ならんかな。今度は2リッターのS13になる かな。他にないしなあ・・・」 (それじゃ、今詩織が乗ってるS13は1.8リッター!?) きらめきサーキット。きらめき市郊外にある、本格的なパーマネントサーキットであ る。 FIA(国際自動車連盟)公認の、F1も開催できるメインコースに、オーバルコー ス、モトクロス場やジムカーナ用の施設まで併設されており、2輪4輪に関わらず、利 用できるカテゴリーは多岐にわたる。 元々は伊集院家の私設サーキットだったのだが、ここ数年の間に、遊園地、ホテル、 キャンプ場等が併設され、単なるレース場と言うより、一大複合レジャー施設と言うべ きものになっていた。 (追いつけ追い越せ鈴鹿サーキットてか?) 「なによこれ?」 文也の鋭い突っ込みの洗礼を受け、ようやく180SXを借りた詩織を待ち受けてい たのは、サーキットに向かう人々の渋滞だった。 そんな事になっているとは思いもしなかった詩織は、退屈な時間を何とかすごし、前 もって甲斐に指定されたゲートにたどり着き、渡されていた名刺を係員に見せた。 すると、コースの中のほうに誘導され、気が付けば、そこはパドックのすぐ脇だっ た。 「藤崎さん。ご苦労さん、渋滞、大変だったろ」 所定の場所に駐車して、ほっと一息ついた詩織のところへ甲斐がやってきた。 「おかげさまで、なんとか来れました」 はたから聞けば、それが皮肉なのか、素直な心情なのか判断に苦しむところなのだろ うが、言われた当の本人、甲斐は全く気にもしていないようだった。 甲斐はせかすように、詩織をパドックに案内する。 「ほら、あそこ」 楽しそうな表情で甲斐が指し示した先、そこには黄色のレーシングスーツに身を包ん だ長髪の青年が、傍らのフォーミュラマシンについてメカニックと話していた。 詩織のそれと印象を同じくする緋色の髪、眼光には鋭いものを秘めつつも、全体的に 甘いマスクのその青年に、詩織は見覚えがあった。 いや、それどころか、その青年を見たのと、ほとんど同時に詩織は声を上げていた。 「拓也兄さん」 けたたましいエンジン音や、人々の話し声などで、決して静かではなかったが、詩織 の声は、しっかりとその青年、拓也の耳に届いた。 顔を上げ、詩織の姿を認めると、脇にいたメカニックに一言二言話した後、ゆっくり と詩織のいるところへと歩いていった。 詩織は声もなく、近づいてくる拓也の姿を見つめていた。 その光景を、多少下がっ た位置で甲斐が見ていた。 拓也は詩織の前に立ち、口を開く。 「やあ」 それに対する詩織の返事に、甲斐はがくっと肩を落としてしまった。 それは甲斐が期待していた(笑)しみじみとするような、もしくは、じん、とするよ うな場面でするような会話ではなかった。 「やあ、じゃないでしょ。ほんとにもう。いったい何をしてるのよ?」 「なにって、マシンの調整・・・」 「誰がそんなボケをしろって言ったのよ!? 私が言ってるのは、どうして何の連絡も よこさないのかって事よ!」 「判ってるよ、そのぐらい」 「判ってるなら、ボケないで、って言うの!!」 ほとんど兄妹ゲンカの様相を呈してきたので、見るに見かねたように、甲斐が間に割 って入る。 「まあまあ、久しぶりに会ったんだから、そう言い合わんでも・・・」 甲斐に、そう言われて、詩織はしぶしぶといった感じで矛をおさめる。 甲斐は甲斐で『驚いたゃったな、もう』などと、詩織の意外な一面に、そんな感想を 抱いていた。 「元気そうだな」 「なんとかね」 パドックのはずれ、モーターホームの中で、拓也と詩織は話し込んでいた。 甲斐が言うところの”あまり時間はないんだけどね”と言うことなのだが、そう言わ れても、何から話していいものか、二人は悩んでしまい、あげくの果てに、そんな会話 しか出来ないでいた。 「兄さんこそ、元気そうで安心したわ。便りがないのはよい知らせ、とはよく言ったも のね」 「まあ、そんなところかな? 実際、手紙も書いてる暇がなかったよ」 「今までのことはともかく、今、どこにいるの? 何してるの?」 「まあ、先日、日本に帰ってきたばかりで、今は寮と言うか、合宿所みたいな所があっ て、そこで暮らしてるよ。 毎日のようにテストテストで、1日マシンに乗っているようなもんだよ。ともかく、 落ち着いたら家には顔を出すから、親父にはそう言っておいてくれよ」 「・・・うん」 文也に言われたことを言う前に、その返事になるようなことを拓也が言ったので、詩 織は『やっぱり親子ねえ』等と思いながら、話題を変えた。 「で、今日はここで何をしているの?」 「F−3のデモンストレーション走行があるんで、その運転手をするんだ。 F−1から、一般車まで7台ぐらいを一斉に走らせて、どのくらい差が出るものなの かという”出し物”があるんだ。 あと、オフィシャルカーに抽選でお客さんを乗せて、体験走行をさせるから、その運 転手もやることになってるんだ」 「大変なのね」 「まあね、あこがれのレーシングドライバーと言ったって、基本的にはお客さん商売だ から、ファンサービスは欠かせないのさ」 言葉そのものは、ともすればネガティブなものになりかねないが、拓也の表情はむし ろ喜々としていた。 その横顔に、詩織はなんだかほっとしたような感じがした。 会話が途切れたちょうどその時、モーターホームのドアが開いた。 「藤崎、時間だ」 「あ、はい。 じゃあな詩織、またな」 「うん」 短くあいさつを交わし、拓也がパドックの方へ走っていった。 「男の人って、そういう感じ方するのかなあ」 その背中を見て、ため息混じりにそんな事を言った詩織だった。 「ファン感謝デー」という事で、サーキット内には様々なイベントが開かれていた。 詩織はそんなイベントを見ていたが、一番意外だったのは、拓也がF−3マシンに乗 って走っている姿だった。 自分の兄が観客の見ている前で、フォーミュラマシンに乗っていると言うのは、かな り違和感がある光景だったのである。 拓也のデモ走行が終わり、拓也は打合せとかでチームのメンバーとコントロールタワ ーに行ってしまった。 そこまで行くことの出来ない詩織は、どうしたものかと思っていたのだが、甲斐がま るで待っていたかのようなタイミングでやって来た。 (実際、待っていたんだけど) 「暇そうだね。よかったら、暇潰しにいかないか?」 甲斐のその表情に、詩織はその真意がつかめた。 「なるほど、そういう事ですか。これが目的だったんですね」 「!?・・・さすが、藤崎さんだな。 それなら話が早い。ワンエイティをちょっと持ってきてくれないか。 やってみて欲しいことがあるんだ」 「・・・断ることも出来ないでしょうね。 兄さんに会わせてくれた恩もありますしね」 詩織が180SXを持ってくるように指定されたサーキット内の場所、そこは広い駐 車場のような場所だった。 実際、普段は駐車場としても使うのだろう。駐車用の白線も引かれているのだが、 違うのは、そこに車は置かれておらず、赤いソフトクリームのコーンのようなものが ところどころに立てられており(パイロンと言うものだけど、実際にコーンとも言いい ます)、その間を4輪車が走り回っていた。 その光景を見ていた詩織の横に甲斐が立ち、ゆっくりと説明を始めた。 「これがジムカーナと言うやつだよ。 あらかじめ決められたコースを、2本走って速いタイムで競う競技だ。 これの特徴は比較的狭い場所でも、それなりに本格的な競技となる点でね。全国各地 にある遊休地などを有効利用しながら、草の根でモータースポーツを広げていけるかど うか、現在、検討中と言うわけだ。 採算ベースにあうかどうかと言う点も含めてね」 「採算取れますか? 第一、遊休地と言ったって、この日本じゃ、そうそうないでしょ う?」 詩織の疑問は、甲斐にとって望むべき類のものだったようで、嬉しそうな表情を浮か べながらそれに答える。 「まあ、採算はあうにこしたことはないんだが、赤字覚悟の部分があるんだ。 遊休地にしても、例えばオフシーズンの観光地の駐車場、日曜休校の自動車教習所、 郊外のイベント会場の駐車場等、さがせばいくらでもあるものさ。 それに、ジムカーナの強みは、特別な施設を必要としない点だ。 しっかりとアスファルトがしかれていれば、問題ない。つまり、設備投資の負担が軽 くて済むと言うわけ。 もっとも、騒音とか偏見とかの問題もあるんだが、こういう事を地道にやって草野球 のように、身近な物になってくれるといいね。モータースポーツが」 そこまで言って、甲斐は落ち着いた表情で、パイロン間を走り抜ける車を眺めた。 その甲斐の横顔に、詩織は不思議そうな表情で言った。 「甲斐先生。先生は、どういう人なんですか?」 そんな詩織の疑問に、甲斐は静かに微笑みながら答える。 「ま、それは、機会があれば追い追い話すよ。 で、本題なんだが、今日は特別にライセンスなしでも走行出来る、体験イベントと言 うのををやってるわけなんだが・・・」 「・・・つまり、これを私にやれと?」 「ま、そういう事」 あっさりとした口調で甲斐が言うと、別の車が走っている様子を見ながら、しばらく 考え事をしていた詩織だったが、やがて、苦笑い浮かべながら言った。 「車を運転する上で基本となるような事は、この競技で習えますね。 私がどれだけ基本が出来ているかを知りたい。 つまりは、そう言うことなんですね?」 甲斐は内心で詩織の鋭さに舌を巻いていた。が、そんな事は表情には出さずに、うな ずきながらこう言った。 「ま、そういう一面もあるにはあるが、やってみれば、これはこれで なかなか面白い よ」 『はいはい』 それは声にこそ出してはいなかったが、その顔を見ればそう言っているようなものだ った。 「さっきも言ったように、確かに先生にはご恩があります。 でも、それとこれとは話が別だと思います。こういう含みがあるような真似はやめて もらえませんか?」 普段の詩織を知る者ならば、随分ときつい言い方だと感じただろう、そんな返事に、 甲斐は首をかしげながら聞き返した。 「やってはもらえない?」 「あ・・・」 ”当たり前です”と言い掛けた詩織の動きがぴたりと止まった。 「?」 詩織の固まった視線が、自分の肩ごしの後方を向いていることを察知した甲斐が振り 向く。 「? 清川さんに、主人?」 そこには、フルフェイスのヘルメットを片手から下げた望と、その横に公が立ってい た。 「あれ? 甲斐先生どうしたんです? こんなところに?」 望と公、先に口を開いたのは公だった。 「公くんこそ、なんで清川さんと?」 その言葉は端的に詩織の心情を表していたが、それに気が付いた者も気が付かなかっ た者も(笑)、それについては何も言わなかった。 気が付いていない人物、公が詩織の質問に答える。 「清川さんは、今日のジムカーナに参加するんだよ。俺はその付き添いって所だね。 ところで、詩織こそ、どうしてここに?」 公が逆に問い返すと、詩織は彼女にしては珍しく口ごもってしまった。 「わ、私は・・・」 そう言いながら、視線をさまよわせる。そのさまよった視線に、甲斐の姿が写った。 詩織は甲斐に対し、やや責めるような口調で聞いた。 「これも先生が仕組んだことなんですか?」 表情はうっすらと笑顔さえ浮かべていたが、それがかえって緊迫感を漂わせていたた め、さしもの甲斐も、表情がひきつった。 内心では『美人が怒ると迫力あるなあ』などという余裕めいた考えもしていたが、さ すがにそれは口にはしなかったし、また、そんな口調でもなかった。 「いや、さすがに、こんなことまで計算してないよ」 やや、弱々しい口調の甲斐の返事に、詩織の表情が硬くなる。 「?」 事の次第が判らない、公と望が顔を見合わせる。 やがて、詩織が思い切ったように口を開いた。 「判りました。やります。 走ってみます!」 to be continue RZM-2「13」 第13回 「ブレイクする心」 何の因果か、結局ジムカーナを体験することになった詩織だったが、だからと言っ て、すぐに走れると言うわけではない。 第一に、詩織はヘルメットもレーシンググローブも持っていないのである。 ところが、その二つを甲斐はすでに用意していたのである。 レンタルではなく、甲斐が詩織のために用意したらしく、新品でサイズもあってい た。 「どうやって、サイズを知ったんです?」 もっともな詩織の疑問にも、甲斐ははぐらかしながら答える。 「そりゃ、言えないな。秘密にしておくよ」 片目をつぶった甲斐の表情に、詩織は内心で、 『早乙女くんが、先生ぐらいの歳になったら、こうなるのかしら』 などと考えていた。 ヘルメットやグローブの問題がクリアになったとしても、まだ他にもすぐには走れな い要因があった。 ジムカーナと言う競技には、決まったコースと言うものがない。正確に言うと、各競 技会ごとにコースが変わるのである。 それでは参加者が、どうコースを憶えるのかと言うと、競技開始前に実際にコースを 「歩いて」憶えるのである。 これを慣熟歩行と言うのであるが、すでに競技が始まっているため、詩織はそれをす ることが出来ない。 すべての競技が終わった後、改めて慣熟歩行をしようと言うことになったのだが、そ れまでには多少の時間がかかるのである。 そんなわけで、詩織はしばしの間、コース脇で、競技中の車を眺めることになったの である。 詩織の時間が止まっている間にも、きらめきサーキットの別の場所では、また別の動 きがあった。 「どうしたんですか、君本さん?」 「ん、ちょっとね」 そんな会話を交わしているのは、きらめきサーキットで「デート」と言う形になって いた、人思と沙希だった。 サーキット内で行われていたイベントなどを、楽しみながら見ていた二人だった。 沙希にとって、レース関係そのものは、夏の鈴鹿以来遠ざかっていたが、サーキット 独特のオイルの焼ける匂いは、その思い出を甦させるには充分なものであった。 人思は人思で、レースなどは好きなので、二人ともそれなりに楽しい一日を過ごして いたのだが、デモンストレーション走行が終わり、そのF−3マシンのドライバーの名 前がアナウンスされると人思の表情が変わり、パドック方面に移動を始めてしまったの である。 事情が飲み込めない沙希の問い掛けに、人思はややはぐらかしながら、パドックと観 客席を区切る金網のところまできてしまった。 その向こう側には、ちょうど現役のF−1日本人ドライバーが横切っていき、多くの ギャラリーがそれに従うように流れていった。 ひとしきり、その流れが途切れた頃、人思の視界に見覚えのある人物が写った。 「拓にい!」 人思の発したその声と単語は、エギゾーストや人々の喧騒の中にあっても、しっかり と相手の耳に届いた。 その相手、拓也は「拓にい」という単語に反応して、その声の主を捜した。 そして金網の向こう側に人思を見つけ、一瞬の間の後、小走りで人思に駆け寄った。 「ひょっとして、トシくんか?」 拓也の質問に、人思は喜びを隠さずに質問で答えた。 「そうだよ。人思だよ! やっぱり、拓にいなんだね!?」 「大きくなったなあ。何年振りだろ? 元気か」 「うん。 ところで、すごいね。アナウンスで名前を聞いた時には、正直、まさかって思ったん だけど、ついにF−3まで来たんだね」 「ああ、なんとか、ここまでやってきた。だけどまだまだ上があるからね」 「そうだね」 人思と拓也がしている会話についていけない沙希が、遠慮がちに会話に加わった。 「あの、君本さん。こちらの方は?」 考えてみればむしろ当然と言える沙希の質問に、人思は笑顔で答える。 「紹介しようね。こちらは藤崎拓也さん。将来を嘱望されるF−3ドライバーだよ」 その名前を聞いた沙希の表情が変わった。 「え? 藤崎さん・・・・?」 「そう。詩織の実のお兄さんだよ」 「・・・・」 あまりの成り行きに、沙希はしばらくの間、言葉をなくしてしまった。 「そ、それは一体・・・ど、どういうわけなんですか?」 やっとの事でそう聞いた沙希に、人思が答える。 「どうって、その通りのことだよ。 そんなに意外だった?」 「え、ええ。藤崎さんは、あんまり車とか詳しくないようだったし、お兄さんがいるこ と自体聞いたことなかったですから」 「ま、そうだろうな。詩織はそう言った事、あまり話さないだろうから・・・」 そんな二人の会話を聞いていた拓也が、ふと不思議そうな表情になって聞いた。 「なんだ? 詩織と一緒に来たんじゃないのか?」 その質問に、人思も同じような表情になった。 「・・・詩織も一緒って・・・。詩織も来てるの? ここに!?」 詩織が見ているコース上のスタートライン、数台の車が縦に並んでいた後方に、1台 の白の「ホンダ CR−X」がついた。 「清川さんの2本目が、そろそろ始まるよ。あのCR−Xがそう」 詩織の横に立った公が、そう言った。詩織には車種の名前を言われても判別がつきか ねるのだが(もともとこの前後はCR−Xばっかりだし(笑))、公の言ったタイミン グで、判断が出来た。 しかし、詩織は別の疑問にぶつかった。 「清川さんって、赤い車じゃなかったかしら?」 それに対して、公は素早く反応した。 「ああ、それね。スカイラインじゃ、いくらなんでもジムカーナは不利だから、チーム の人から借りたんだよ」 「それじゃ、貸した人はどうするの? 2台持っているの?」 「ジムカーナは、一人づつ走るからね。ダブルエントリーと言って、1台で二人まで走 ることが出来るんだよ。 ま、自分の車じゃないから、限界まで攻めると言うわけにはいかないけど、良い経験 になるからって」 「ふーん、そうなんだ。 ・・・清川さんも、一所懸命にやっているんだなあ」 小さな声でそう言った詩織の声は、甲高い排気音にかき消され、公の耳には届かなか った。 詩織だけではなく、複数の視線を集める中、望の乗ったCR−Xがスタートラインに ついた。 -------------------------------------------------------------------------- 清川望搭乗(ダブルエントリー)CR−XSi(EF7)データ ショック:トキコ イルミナ5段 無限強化アッパーシート バネ :タナベ H150(レート失念) タワーバー :スパッツ Fのみ LSD :クスコ1way機械式 スタビ :ARC調整式 タイヤ :YH M3(185/60R14) ホイール:無限 CF−48(1460J +38 黒) ブレーキ:マーベル フロントB リアA ライト :EC輸出仕様4灯 USテール ウルトラHLC(自動減光システムハーネス) 補助灯 :PIAA50 フォグ/スポットコンビ エアクリーナー: FORZA プラグ&コード: NGK(VX) ウルトラシリコン シフト :C’sショートストローク ステアリング: モモ ベローチェ35φ メーター:バキューム計 電流計 ベルト :シュロス4×3 油脂類 :BP ロールバー フルバケットシート 油圧&油温計 -------------------------------------------------------------------------- オフィシャルのスタートの合図と共に、望のCR−Xは猛然とダッシュしてパイロン をすり抜けていく。 正直に言って、詩織には望の走りがどの程度のものかは判らない。 ただ、その前後の競技者の走りと比べてみた時、それは全くそん色がないように見え た。いや、むしろ、詩織が見た範囲の中では、そうとう速いほうのレベルに見えた。 そう詩織が思っていたその時、コース脇のギャラリーからため息混じりの声が上がっ た。 「ああ! 惜しい!!」 それらとほぼ同時に、公も声を上げていた。 「パイロンタッチだ!」 何事が起こったのか詩織が注意して見ると、赤いパイロンがコースに転がっていた。 「公くん、あれってまずいの?」 「ああ。パイロンタッチと言ってね。タイムに5秒加算されるんだよ。 ここまで良いペースで来ていたから、惜しいなあ。やっぱり、人から借りたマシンだ から、車幅感覚が狂ったのかな?」 まるで自分のことのように悔しがる公に、詩織は気のない返事をする。 「ふーーん」 詩織にとって、5秒の加算がペナルティだということは判ったが、それがどのぐらい 厳しいものなのか? まだ実感が出来ないのである。 「要するにパイロンに触ったら駄目なのね?」 公が答える。 「ん、まあ、そういう事だけど、あんまり距離を取ると、大回りになってタイムが落ち るから、近寄らないわけにはいかないから、パイロンタッチしちゃうんだよ」 「んーーん。・・・そんなとこでしょうね」 妙に納得したようなその声に、公はなんの裏もない口調で、ふと、詩織にたずねた。 「詩織ならどのぐらい近づけるかな?」 「パイロンに?」 「ん」 「そうねえ、ガードレールと違って、相手が小さくて低いから、あんまり寄れないわよ ね。 せいぜい、5〜6pと言うところかしら?」 「な?」 詩織の示した数字が、あまりにも(逆の意味で)桁外れだったため、公は気持ちの上 では、膝から下を、がっくりと地面に落としてしまった。 「あ、あのなあ、詩織・・・」 ともかく、何か言い返そうとした公だったが、それを遮るものがいた。 なにやらジムカーナのオフィシャル(進行役や審判のような、競技の裏方さんのこと です)と話し込んでいた甲斐が戻ってきて、公と詩織のそれまでの会話を、気にとめる でもなく、詩織に言った。 「おまたせ、藤崎さん。このクラスが終わったら走れるそうだから、とりあえず、慣熟 歩行から始めていいよ」 他に参加者はいないそうだから、じっくりと出来るよ。慣熟歩行」 甲斐の口調、それはその場の雰囲気を全く意識していない、ごく普通の言い方だっ た。 その甲斐に、詩織が冷静な口調で答える。 「いえ、暗くなってきましたし、大体の走り方は憶えました。関係者の方にも迷惑を掛 けますから、早くやってしまいましょう。 駄目ですか?」 「ん? いやあ、慣熟歩行と言うのは、本当は路面の状況や感覚をつかむ意味もあるん だが、確かに藤崎さんの言うことにも一理あるし、そういう事なら、走ってみてはどう かな?」 甲斐の提案に詩織はうなずく。 「はい」 「詩織・・・」 その光景を端で見ていた公のその声は、あまりにも小さ過ぎたため、誰の耳にも届か なかった。 「すいませんね。無理言って」 「いや、それはいいさ。走りたい人間がいるんなら、走らせてやるのが俺の仕事だから な」 詩織が走ろうとするその寸前、コース脇で見ていた甲斐は、その横にいた中年の男性 に語り掛けていた。オフィシャルの責任者である。 実のところを言うと、甲斐は少しばかり無理を言って、詩織を競技にねじ込んだので ある。 その礼とお詫びをいれる形になっていた。 「このお礼は、そのうち、精神的に・・・」 「ふっ。あてにはしてねえよ。 ところでどうなんだ? お前さんが推すお嬢ちゃんの走りは?」 「ま、それは見てのお楽しみ、と言うところですかね?」 「そうかい」 そんな会話の中、詩織の180SXがスタートした。 ----------------------------------------------------------------------------- 藤崎詩織搭乗、180SX(S13)データ。 以前として不明 (だから書くなって?)(笑) ----------------------------------------------------------------------------- 『どうも慣れないなあ。このヘルメットと”手袋”は』 いつもは素手、素顔(?)で運転するため、その違和感に詩織は戸惑いながらも、か なりのハイスピードでパイロンをクリアしていった。 「まじにあれは詩織のワンエイティだ。なにやってんだ、詩織は?」 その詩織を見てそう言ったのは、拓也に連れられて来た人思だった。 その傍らにいた沙希は、あらかじめ、詩織が180SXに乗って、しかも速いと言う ことを聞いてはいたが、今、目の前を走る180SXに詩織が乗っていると言うのは、 どうしても実感が出来なかった。 「ジムカーナか。 親父がどこまで詩織を仕込んだか、お手並み拝見としようか」 楽しそうにそう言った拓也に、打合せをしたわけでもないのに、人思と沙希は顔を見 合わせるのであった。 複数の視線が絡む中、180SXを駆る詩織の神経に、一つのざわめきがおこってい た。それは詩織の人生の中で初めて知った感覚だった。 一回目のトライが終わり、ゴールラインを通過した後、詩織はため息と共に、こう漏 らした。 「なんなんだろう、この感じは・・・?」 to be continue RZM-2「14」 第14回 「覚醒の時」 「1分17秒68!」 ジムカーナ初挑戦、詩織の1本目のタイムが出ると同時に、驚嘆の声が辺りに上がっ た。 「なんだ? 意外と速いじゃないか!?」 「本当に初めてかよ?」 そういった声は、やや離れていた人思や沙希のいるところまでは届かなかったが、そ の空気は充分に伝わっていた。 「速いんですか? 今の」 沙希がそう言ったのを受けて、拓也が答えた。 その表情は多少の驚きを含みつつ、当然という感情と、その走りに対しての感嘆が含 まれた物になっていた。 「うん、あれは速いだろうね。正確なところはタイムを聞かないといけないだろうけど ね。とりあえず、タイムを聞きに行こう」 それは人思や沙希に言ったというより、詩織の走りに興味を持った自分に対して言っ たと見るべきだろう。 それが証拠に、人思や沙希の返答を待つことなく、オフィシャルのいるところに歩い て行ってしまったのである。 「あれ? トシ!? 虹野さん!?」 その途中、そんな声に呼び止められ、人思と沙希は、ほぼ同時にその声の方向に顔を 向けた。 「公!」 「公くん!?」 ほぼ同時に、人思と沙希はそう言ったが、その横にいる人物に気が付いた沙希が、驚 いた声を上げた。 「清川さん!?」 その人物、望も、人思、というより、主に沙希の姿に、驚きつつも静かに、独り言の ような口調で言った。 「虹野さん・・・?」 その望の心理を代弁するかのように、公が半ば愚痴るような感じで口を開いた。 「なんだかなあ、なんか妙な取り合わせが揃ったなあ・・・。 なんなの、これ?」 もちろん、それに答えられる者は、その場には一人もいなかった。 そんな事になっているとは、詩織には想像は出来なかったし、そもそも、そんな余裕 は全くなかった。 ジムカーナ走行の一本目、ゴールラインを切った後、詩織は自分の身体を流れる血液 が、今までになく熱くなっている感覚に、戸惑いすらおぼえていた。 そのままならば、ひょっとしたらその感覚は、すぐに薄まってしまったかも知れな い。だが、通常、多少のインターバルを置いて行われるはずの2本目を、スケジュール の関係で、すぐにやることになったため、詩織は再び、スタートラインに誘導された。 スタートラインが見える段になって、詩織は自分の血液が、また熱くなり、沸騰する かのような感覚を覚えた。 『なんだ、私、意外とはまってるのね・・・』 身体は熱くなっているのに、それでいて醒めた部分で構成されたもう一人の人格が、 そう思った。 「A3クラスのトップタイムが、12秒56・・・、5秒落ちか。 すごいな、藤崎さんは」 誘導される180SXを眺めながら、心底感心した風に甲斐がつぶやいた。 「おい、本当にあのお嬢ちゃんは、ジムカーナ初めてなのかい? アクセルはきっちり踏めてるし、ステアリング操作もなかなかのもんだ。 なにより、S13をちゃんと自分のものにしているのがいいね」 「正直、俺自身が驚いていますよ」 そこそこいくとは思ってはいましたが、まさか、ここまでやるとは・・・」 その甲斐の言葉は、彼にしては珍しく(笑)、裏表のない正直な感想だったのだが、 本当に驚く、いや、驚愕するのは、この後のことになる。 2回目のアタック、詩織は1回目より、さらにアグレッシブに攻めたてた。 1回目より、パイロンに近づき、激しいスキール音を立てる。 比喩ではなく、詩織はp単位どころか、o単位でコース取りをしていた。それはさし もの詩織でも、神経がすり減るような緊張を必要とした。 激しい加減速は、身体的にも強烈なプレッシャーとなっていた。 だが、それでも詩織は、いままでにない、新鮮な高揚感を覚えていた。 今自分がしている、”タイムを削る”という行為。 自分の技量が、ダイレクトにストレートに、タイムとなってはねかえってくる。とい うのは、意外と詩織の「性」に合っていた。 「拓にい、日本に帰ってきたんだ・・・」 「まあ、そういう事なんだが、トシくんといい、公くんといい、妙なところで会ったも んだな・・・」 オフィシャルからタイムを聞いた後、人思のところへ戻った拓也は、そこで公とも再 会を果たすことになった。 公、人思、望、沙希、そして拓也。何の因果か、思いがけないところで集まったこの 5人は(作者が、自分で言ってどうする(笑))、公がと拓也が、そんな会話を多少交 わしたものの、結局、詩織の走りに関しての話になってしまうのだった。 「なかなかやるじゃないか、詩織は」 拓也が言った言葉に、人思が聞いた。 「拓にいは、詩織がこんな事をやってるって、知ってたの?」 「ん? いや、知らなかったよ。知らなかったけど、なにしろあの親父のことだから、 こうなるんじゃないかな? ぐらいは思っていたよ」 それに対して、今度は公が口を開いた。 「拓にいと同じと言うわけ?」 「まあね。俺が豆腐を配達していた時だって、時々、詩織が代わってしていた時があっ たぐらいだから・・・、ってこれはあまり大きな声では言えないことだったな」 「・・・・・・・」 苦笑いを浮かべながら拓也はそう言ったが、公達はみな答えることが出来なかった。 (そりゃそうだろう)(笑) いくつかの視線が集まる中、詩織の180SXが2本目のアタックが続いた。 タコメーターの針が跳ね上がり、そのしなやかな白い指が認識できないほどの素早い 操作で、ギアシフトを変える。 神経が研ぎ澄まされ、180SXのボディ越しにパイロンを感じることが出来るほど だった。まるで車体そのものが身体の一部になったかのような感覚、そんな感覚を詩織 は感じていた。 まさにp単位で180SXはパイロンをクリアし、アスファルトに滑らかなラインの ブラックマークを付けていく。 「12秒98!」 「!? な、何ぃ!!」 「マジかよお!!」 180SXがゴールし、タイムが公表されると、あたりにどよめきと、驚きの声が交 錯した。 「こりゃ、驚いたもんだ。360度ターンとかはやめて、ある程度簡単なコース 設定にはしたが、いきなり、このタイムはないだろうに。 甲斐さんよ。あの娘、ありゃ、一体何者だい?」 当たり前といえば当たり前の質問にも、甲斐は答えない。いや、その余裕がなかった のだ。 期待と感激を、彼のその性格からか、必死に押し殺そうとする表情で、180SX に、そうとうな早足で歩み寄った。 甲斐が180SXの運転席をのぞき込んだ時、詩織の表情は、あえて言えば、ぼうっ としたような、脱力したような表情になっていた。 「どうした? どこか痛めた?」 やや表情を曇らせた甲斐の問い掛けに、詩織は力のない、それでいて、みずみずしい ほど生気が感じられる笑顔を浮かべながら、ゆっくりと答えた。 「大丈夫です。どこも痛めていませんよ」 「そうか、それならいい。 で、どうだった? ジムカーナ初体験は?」 詩織はすぐには答えなかった。まるで無意識のうちに、甲斐をじらすかのような間を 置いてから、それまでと同様の、ゆっくりとした口調で言った。 「たぶん。先生が期待している事からは、外れてはいないと思いますよ。 だけど・・・」 「だけど?」 詩織はその後、少し間を置いてから、苦笑いを浮かべながら言った。 「くやしいなあ。まんまと、先生の思惑に乗っちゃったみたいだから」 その苦笑いには、苦みの成分だけではなく、ほのかに感動と言うべき成分のものも、 見えかくれしていた。 詩織が甲斐と180SXに乗って、コースを引き上げてくると、先ほどまでの望、公 に加えて、沙希、人思そして拓也の姿がそこにはあった。 「なんだか、学校の延長みたいね」 180SXを降りての詩織の感想だった。 それに続き、甲斐が言った。 「ま、妙な成り行きになったもんだが、もう日も暮れたことだし、そろそろ帰った方が いいだろうな」 「はい」 この時の甲斐の口調は、「先生」と言った雰囲気が漂っていたために、公達は学校に いる時のような感覚になってしまった。 ともかく、甲斐の言葉によって、公達はそれぞれの岐路についたのであるが、その帰 り道で、詩織以外のものが誰しも気になったのは、甲斐の最後の言葉だった。 「藤崎さん、あの話し、真剣に考えてくれよ」 そして、その時、詩織の困ったような、嬉しいような、何ともつかみかねない複雑な 表情がその思いに拍車を掛けていた。 「あれはどういう意味なのかなぁ」 そう言ったのは、望のスカイラインの助手席に座っていた公だった。 来た時と同じく、公と望は二人で帰っていたのだが、二人の間にはしばらく会話らし い会話がなかった。 つまるところ、詩織のジムカーナのタイムで受けたショックが尾を引いていた、と言 うことになる。 この時公のいった言葉にしろ、そこから抜け出す部類のものでもなく、さらに、そこ から会話を発展さるようなものでもなく、ほとんど独り言だった。 望にもそれが判る。第一、望にもそれに対する答えを持っていないのである。 しばらく会話が途絶えた後、ようやく望が続けた。 「わたしにも判らないけど、きっと今日の事は関係してるよね」 「・・・やっぱり、そうなんだろうなぁ」 会話と言うより、お互いが思っていることを確認するための作業、と言った方が的確 かも知れない短い時間の後、二人は再び沈黙してしまった。 それは公達だけではなく、バスで帰った沙希と人思も似たようなものだった。 それは、きらめきサーキットの出来事から、4日たった木曜日の午後だった。 実質的に自由登校になるこの時期になると、3年生の各教室内もまばらになる。 そんな中にあっても、望は毎日学校に来ていた。一番頭を悩ませるはずの受験がない と言うのが、その大きな理由なのだが、「学校に来る事も後わずかなんだ」と思うと、 なんだかもったいない様な気がして、家にいることが出来ないのである。 (もちろん、温水のプールがある。というのもあるんだけど(笑)) そろそろプールに行こうかと望が考えていた時、望のクラス内に声にならないざわめ きがおこった。 (なんじゃそりゃ!?) そんな気配に気が付いた望が、ふと顔を上げる。すると黒板側の入り口のところに、 見慣れた人物が立っていた。 「藤崎さん?」 そこには詩織が立っていた。 同じ3年といっても、クラス編成の関係で、詩織と望の教室は別棟になっていた。そ のせいもあって、詩織が望のクラスの教室に来ることは滅多になかったことである。 もともと、詩織は学校内でも有名だったが、夏の鈴鹿以来、元自動車部の面々の名前 はさらに高まっていた。 先ほどのクラス内のざわめきは、その詩織が来たためだと、望が理解した時、詩織が 望と視線を交わし、大きくもなく小さくもない、適度な音量で言った。 「清川さん、ちょっと」 「え? 私?」 自分を指差した望に対して、詩織は無言のままうなずいた。 「うん、わかったわ。今行く」 望が立ち上がり、詩織のところへと歩み寄った。 「何? どうかしたの?」 望がそう聞くと、詩織が困ったような笑顔を浮かべながら答えた。いや、それだけで はなく、どこか、いたずらっぽい物も含まれていたが・・・。 「うーーんと、ここじゃ、ちょっと・・・」 「そう? そうれなら場所を移そ」 「ええ」 短い会話の後、二人は無言のまま屋上へと向かった。決して口をききたくなかったと 言うわけではないのだが、何を話したらいいか? と、話題が浮かばないまま、屋上に 着いてしまったのである。 「で、どうしたわけ? 今日は?」 そう切り出した望に、詩織が一つうなずいてから答える。 「清川さん」 「ん?」 「清川さんは卒業したら、水泳とモータースポーツを両方続けるんですってね?」 「まあ、2色のわらじってところね」 「・・・それを言うなら二足のわらじでしょ?」 「・・・ま、まあ、そうとも言うわね」 などと望は笑ってごまかしたのだが(そうとも言うじゃないよなあ)、詩織は望のボ ケに、それ以上突っ込むような事はしなかった。 その替わりに小さなため息をついた。 「いいなあ。清川さんはずっと前からやりたいことが決まっていて、それをやって来た んだから・・・。 私なんて、ようやく最近になって判ったのよ」 「え? それってどういう事?」 「私、甲斐先生に誘われて、レーシングチームに所属することにしたの。 しばらくは大学に行きつつ、チームの雑用をしながら勉強と言う事になるんでしょう けど、そのうちにライセンスを取ることになるでしょうね」」 「!?」 詩織の言っている事が、しばらく理解できなかったため、望はしばらく何も言えずに いたのだが、その内容が判った途端、やや大きめの声で言った。 「本当に!? そうかあ、きらめきサーキットで先生の言っていた事って、その事なん だね。 すごいじゃない! スカウトなんて!!」 「スカウトなんて、そんな大したことじゃないわよ。たまたまよ」 「運とかそう言うものも実力のうちだよ。甲斐先生、私には言って来なかったんだか ら」 「私も先生に、清川さんがいますよ。って言ったのよ」 「え?」 望の一瞬の困惑に構わず、詩織はさらに続けた。 「そうしたら先生。”清川さんがその気になるなら、いずれ出てくることになるだろ う。彼女はそういう環境にいるんだから”だって」 「・・・」 望みが黙ったままでいると、詩織がわずかながら感慨を込めた口調で言った。 「私達、近いうちに、こことは違う全く別の場所で、関わりあいを持つことになるのか も知れないね」 「・・・藤崎さん・・・」 にっこりと笑った詩織に対して、望は声を詰まらせたままだった。 「それでね、清川さんにお願いがあるの」 「え? な、何?」 「卒業前に・・・」 「・・・卒業前に?」 「一緒に、きらめき峠を走らない?」 to be continue RZM-2「15」 第15回 「それは必要か否か?」 「なんなの? それ?」 公は思わずそう聞いてしまった。 望から、”詩織ときらめき峠を一緒に走る”と聞いたのは、詩織と望がその約束をし た翌日の昼休み、場所は同じ屋上での事だった。 その時の公の反応がこれだった。 ”一緒に走る”と言う言葉の意味が、そのものを指していないことは、公にも判っ た。ただ一緒にドライブをする。と言う意味ではあるまい。 しかし、どうしてそんな事になったのか? その辺りの事情は全く理解できないでい た。 「いったい、どうしてそんな事になったの? どうして詩織と清川さんが?」 だが、望はそれには答えなかった。 詩織がなぜ、そんな事を言ってきたのか、彼女なりには理解はしている。理解はして いるが、それを上手く言葉に出来なかったし、なにより、公に言う気には、どうしても なれなかったのだ。 「藤崎さんが言って来たんだけどね、彼女の気持ちも、なんとなく判るわ。 でも、公くんには、ちょっと言えないの。ごめんね」 ごめんね。と謝れると公としても、それ以上は聞けない。 公が何も言えずにいると、望が不安そうな表情で聞いた。 「反対?」 「ん? いや、詩織と清川さんがそう決めたんなら、俺からは何も言えないけど、あん まり無理はしないでよ」 「うん。そうする」 「・・・ところでさ・・・」 「ん?」 「マシンはどうするの? あのスカイラインで走るつもり・・・?」 質問の後のわずかな空白が、公の心情を言外に物語っていた。それは望にとっても悩 みの種だった。 「そうなのよ。藤崎さんに勝とうとは思っていないわ。だけど、それなりのレベルの走 りはしたいの。 あのスカイラインは良い車だし、私も気に入っているよ。だけど、藤崎さんの180 SXと較べるとどうしても・・・。かと言って、今さら別のに乗り換えてもなぁ。 と言うことで悩んでいるんだ」 「清川さんにとったって、きらめき峠はホームグラウンドみたいなものじゃない。 その辺りでなんとかなるでしょ?」 「それが駄目なのよ」 望は首を振りながら答える。 「道が判っているから、”ここはもっとこう”とか”そこはそう”とか思えちゃう部分 が、最近出てきたのよ。 あのスカイラインは、ターボがどうしても”ドッカン”でしょ? その辺りがどうし てもロスにつながってしまうのよ」 (いわゆるドッカンターボ。ターボと言うメカニズムが作動するまでに時間が掛かり、 急にパワーが出ることをいいます。一昔前のターボ車にはよくあったんですよね。こう いうの) 「・・・・」 公は何も言えなかった。自分でもぼんやりとは、そんな事を感じていたが、望のよう に明確に感じることは出来なかった。望の言葉で、彼女のレベルの高さを思い知ってし まったのである。 「やるからには藤崎さんの心に応えたいからね。本当にどうしようかな」 望の使った単語に、妙な違和感を覚えた公だったが、その事を追及しようとは思わな かった。ほとんど即断即決の彼女にしては珍しいほど、迷っている様子を見てとったか らである。 実際、望は迷っていた。日時は決まっていないが、走るとすれば卒業までである。 それほど時間はない。知人や両親の関係者に、それに替えるかどうかはともかく、と りあえず、良いマシンはないか?とたずねまくるようになる。 当然のように、その理由も(抽象的にではあるが)話さないわけにはいかない事も何 度かあった。 それがある人物の情報網にひっかかることになる。 (どうひっかかるんだか・・・) 「何? 藤崎さんと清川さんが走る!?」 甲斐は口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになるのを押さえながら、必死でレイ に聞き返した。 甲斐には科学準備室が与えられていた形になっていた。もっとも、ただでさえ人体標 本やら、ホルマリン漬けの標本などが置いてあり、一般的にいって、決して居心地が良 いとは言えない上に、あらゆる点で名の高い(笑)科学部のとなり位置するとあって は、人気が高い場所とはとても言えない。 言ってしまえば、島流し。よく言って隔離状態と言うわけである。 (ひどい扱だよなぁ) もっとも、本人はあまり気にしていないようなのだが・・・。 ともかく、その科学準備室にレイが訪ねて来てのその情報に、さしもの甲斐も驚きを 隠せないでいた。 「馬鹿な!! なんでそんな事になったんだ!?」 「いえ、そこまでは」 「・・・まあ、そうだろうな。そんな情報自体を拾ってくる事の方が異常なんだ。 それ以上は贅沢と言うものなんだろうな・・・。」 苦々しい口調の甲斐に、レイが聞いた。 「あまりお気に召さなかったようですね?」 「当たり前だ!! ただ単に流すと言うのならともかく、あの二人のレベルになった ら、公道でやり合うなんてのは、百害あって一利なしだ!!」 「でも、お兄様だって、井上さんと走らせたじゃないですか」 「確かにそうだ。それを言われると俺にも返す言葉はない。だが、あの時点では他に方 法がなかったんだ。少なくとも俺はそう思っている。藤崎さんのレベルも掴みかねてい たからな。 だけど、今は違う。そんな事で、もしもの事があってみろ。とんでもない事になる ぞ!」 「なら、止めさせますか?」 「?・・・レイ?」 レイの口調が、冷めたものになった事に、甲斐は不思議な思いを浮かべ、レイの表情 を見た。決して怒っていると言う表情ではないが、高ぶりつつある感情を、必死で押さ えるような表情で、レイは静かな口調で続けた。 「私達の世代が、お兄様のような大人から見れば、危なっかしく写るとは思います。 だからと言って、一方的な都合で、ああしろ、こうしろ、あれは駄目、これも駄目、 と命令される事は、時としてひどい苦痛なんです」 「お、おい。レイ・・・」 レイの口調は激した物ではないが、その影にある激情を甲斐は感じとった。 レイも一息ついて、少しトーンダウンして言った。 「藤崎さんも清川さんも、今度の事を決して良い事だ、なんて、思ってないはずです。 誰かに言われたからではなく、自覚として判っていると思うんです。 だけど、・・・」 「走らなくてはいけない・・・か?」 「はい・・・」 「・・・なるほどなぁ。考えてみれば、お前も理不尽な命令をされる側でもあるわけだ から、そういう気持ちが判らないわけではない。 けじめみたいなもの・・・、そう言う事か・・・?」 「・・・はい」 それまで甲斐に向けていた視線を落とし、うつむきながら、レイは静かにそう言っ た。 「・・・判ったよ。止めさせはしない。 そのかわり、万が一に備えて、伊集院の医療班を押さえておけ。将来の逸材を失うわ けにはいかないんでな」 「判りました」 短くそう応え、レイが退室していくと、甲斐は首の後ろに右手を押さえ付けながら、 苦笑いで言った。 「やれやれ、気迫で押されちまったよ。レイもいつのまにか、いっぱしの口をきくよう になりやがって。 いつまでも、子供じゃねえか」 そう言った甲斐の表情は、なぜか嬉しそうだった。 「見ての通り、自動車免許の勉強」 自動車免許の教本を広げながら、人思は言った。 「そんなのは見れば判るんだよ」 力の抜けた声で公が言った。 望から話を聞いた公は、それをぺらぺらと人に話すような事はしなかったが、相手が 詩織なだけに、人思にだけは話さずにはいられなかった。 ある日の夕方、人思の家を訪ねた公だったが、その姿には、とても受験生と言う雰囲 気はなかった。 公が続ける。 「この追い込みの時に、自動車免許を取ろうって言うのか? トシは?」 「追い込みって言ったって、もう推薦が決まってるんだ。他にすることもなくて、今の うちに取っておこうと思ってな。 まあ、なまらないように勉強しててもいいんだがな」 「くっそぉ! 受験生の心理を逆なでするような事を言いやがってぇ!!」 公はしきりに悔しがるのだが、人思は一切意に介さない。 「ところで、そんな事を言いに来たんじゃないんだろ? なんだ?」 『そんな事って、簡単に言うんじゃないってえの』 公は内心でそんな事を思っていたが、それを言っていると話が進まないので、ぐっと こらえて、本件に入った。 「実はな、詩織が清川さんと、きらめき峠で走るんだけど、トシはどう思う?」 人思はしばしの間、公の言葉の意味を考えていたが、納得したというような表情と共 に、薄笑いを浮かべていった。 「そうか・・・、唐突という気がしないでもないが、そうなったか・・・」 その言い方や、内容そのものより、公には、人思の薄笑いが気になって仕方がなかっ た。 「なんだよ、トシ。なにもかも判ったような顔をして。なんかあるのか?」 「ん? いや、別に何もないよ。 ただ、そうなったかって納得しちゃっただけだよ。 公はそう思わなかったのか? 思わなかったとしても、なんとなく納得しなかった か? 方法の善し悪しは別にして」 「う、まあ。そう言うのは、あるにはあったよ」 公はそう答えた。口では「どうして?」と言っているものの、心の中では、そういう 部分が確かにあった。 「まあ、俺も驚かなかったと言えば、嘘になるけどな」 「そうだと思うよ」 人思の言葉に公がそう受けると、二人は黙り込んだ。しばらくの後、ため息を一つは いてから、人思がぽつりと言った。 「ところで、あの二人、どっちが速いのかな?」 公はすぐには答えない。右手の人差し指を唇に当て、考えを巡らしてから、ゆっくり と、やや重い口調で答えた。 「正直言うと、詩織の方が速いとは思うんだよ。詩織の速さを目の当たりに見たことも あるし、清川さんは4輪に乗ってから間がないし、普通に考えれば詩織の方が速いと思 うよ」 「だけど、何かひっかかる事がありそうだな?」 「トシは去年の鈴鹿の清川さんを知らないから、判らないと思うけど、ここって時の清 川さんの集中力は、そりゃハンパじゃないんだ。それが出たらと思うと、ちょっとね。 それに清川さん、そうとう練習しているみたいなんだ。吸収力がすごいから、短い間 でもどんどん速くなっていくよ」 (練習をどこでしてるか? って言うのは内緒) 言葉が途切れたところで、人思が口を開く。 「五分五分ってところか?」 そう言った人思の顔に視線を向けた公は、少しうつむいて頭をかいた。 「やや詩織に分があるけど、いい勝負だとは思うんだよ。 ただ・・・」 「ただ?」 「車にね」 「・・・なるほどね。マシンに差があると言うわけだな?」 「詩織のワンエイティは、年式はともかく、まがりなりにも現行マシンだよ。 でもね、清川さんのスカイラインは、さすがに古さを隠せないよ。その差が決定的な 差だと思うよ。かと言って、乗り換えるのもなぁ」 「そうだな・・・」 人思の相づちを最後に、二人は黙り込んでしまった。 (黙り込む時間が長いな、この二人(笑)) 夕闇の中、望は自動車街を歩いていた。 まわりの人に、それとなく車のことを聞いていた望だったが、モータースポーツに近 い環境のせいもあって、いろいろと情報が入ってきていた。 (家族とか関係者の間で、そうとう、人気者なんだろうなあ) その数は多く、質も粒のそろったものだったのだが、乗り換えると言うところまでは いかなかった。 (いろいろ予算もありますし・・・) この日も、知り合いの中古車業者のところへ顔を出しに来たのだ。 そんな望を、中年のやや痩せ気味の男が出迎えた。 「よー、望ちゃん、来たね」 「で、どうですか?」 望の簡単な質問に、その男性は自信たっぷりと言った表情で答える。 「いいのがあるんだよ。こんなのは2度と出ないよ」 「またまた。そういうのは、くるま屋さんの決まり文句じゃないですか」 「違うって、見てもらえば判るよ。そうでなかったら、わざわざ連絡したりしないよ。 とにかく見てよ」 そう言われて、望が案内された場所には、最新型(R−33)のスカイラインGT− Rの黒い車体があった。 「これですか?」 「そう。中古というには勿体無いほど、程度の良いもんだよ。 中身はいじっていないし、ほとんどノーマルのまんまで、かなりのお買い得だと思う んだけど」 見た目だけではそう簡単に判断できないだろうが、その男性は小さな頃から知ってい る人間であるし、評判も良いので信頼できる。 それゆえ、このGT−Rの質も信用していいだろう。 だが、望の表情は重いものになっていた。 「・・・」 無言の望に男が聞いた。 「? 何か気に入らないの?」 「え? 気に入らないとか、そう言うのじゃないのよ。掘り出し物だと思うの。 ただ、ちょっと予算が・・・ね」 「なーに言ってるの? 望ちゃんなら目一杯勉強して、さらに出世払いでOKだよ」 「そう言うわけにはいかないよ。 せっかく良いのを見つけてくれたのに、ごめんなさい」 確かに車そのものは魅力的だった。だが、ぜいたくのようだが良すぎた。今の自分に GT−Rと言うのはバランスがあっていないように感じたのである。 乗る、もしくは乗りこなすと言うより、乗らされている。と言う感覚になろうか? そもそも、詩織の180SXが頭にあった。車の性能差で有利になりたくなかったの である。 望はこの一件をていねいに断り、帰ろうとしたその時だった。 「あ!」 1台の車に望はその足を止めた。 「どうしたの、望ちゃん? ・・・ああ、これ? 確かに良い車だけど、望ちゃんには 物足りないんじゃないかな? ドライブを楽しむには格好のマシンだけどね。 このオーナーの人も長く乗って楽しんだらしくて、ちょっと年式が古いけど、大事に していたんだろうね。年式のわりには程度はかなり良いよ。 ・・・まさか? 望ちゃん?」 望の目に本気を感じた男が聞くと、望は嬉しそうな表情でうなずいた。 「そう。これ、いくらにしてくれる? 勉強してくれるんでしょ?」 その笑顔には不敵な成分が含まれていた。 to be continue RZM-2「16」(第4集)