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       第6回 「動き出した歯車」
 
 
 
「さて、どうしたもんか・・・ 」
 そんな独り言をつぶやきながら、公は自分の家の玄関を出た。
 詩織に直接話をしてみようと、隣の家に向かったのである。
 望と甲斐に約束したとは言え、思わず独り言となって出た言葉通りに、詩織に何と言
っていいものか、答えはこの時になっても出ていなかった。
 甲斐の言う、井上やIMSPにはそれなりの理由があるのだろうが、詩織が勝負を受
けるとはとても思えなかった。
 そもそも公自身、詩織が180SXを運転し、驚異的なポテンシャルを発揮するなど
とはどうしても実感できないのである。
 そう言った訳で、詩織の家までの(道のりとも言えないような)わずかの間に、目ま
ぐるしく思考を巡らす公だった。
 ともかく公は、詩織の家の玄関ではなく店側のガレージに回り込んだ。なんとなく1
80SXを見てみようと思ったのだ。
「?」
 そこには見慣れた180SXがあったのだが、そのボンネットが開けられ、誰かがそ
こをのぞき込んでいた。
 ボンネットの影になってその下半身しか見えなかったが、公にしてみれば、それだけ
でも十分に誰かは分かった。
「詩織?」
 公のその声にその人物、詩織がボンネットの影から姿を現した。
「あら、公くん。どうしたの?」
 詩織が右手の甲で頬を拭うと、そこに黒い筋が付いたのだが、詩織はそれを全く気に
する様子はなかった。
「あ、何してるの?」
「え? ええ、オイルを替えてるのよ。捨てるのはお父さんのつてがあるそうだから、
家で替えた方が 安上がりだからって。
 ほんと、お父さんも娘使いが荒いんだから」
 ごく当たり前といった口調でそう言って、クスリと笑う詩織だったが、公は意外な感
じがしてならなかった。
 詩織と機械と言う取り合わせは、夏の鈴鹿以来何度か見てきたが、いまだに違和感が
ぬぐえてはいない。それに加え、180SXを詩織自身が運転してると、父親の文也か
ら聞かされていたので、その感覚は増幅していた。
 その公の内心を見抜いたように詩織が言った。
「お父さん、公くんに話したんでしょ? 私がこれに乗って配達してるって事」
 単刀直入。正にその表現が当てはまる詩織の聞き方に、公はなぜか、多少、気後れし
ながら答える。
「あ、うん。最初聞いた時は驚いたよ。詩織、そんな事一度も言わなかったから」
「だって、単なる家のお手伝いだし、そんなに自分から話すようなことじゃないでし
ょ?」
「まあ、確かにそうだけど、それが車を使って、しかも速いとなれば一言あっても良か
ったんじゃないのか?」
 別に怒ったというわけではないが、やや不機嫌とも取れる口調になった公に、詩織は
不思議そうな表情になった。
「速い? 私が? ・・・そうなのかな?」
「そうなのかなって、 ・・・そうに決まってるだろ? ここ最近じゃ、かなり知れ渡って
るんだぞ、詩織の180SXは!」
「ふーん、そうなんだ。知らなかった。
 私、速いとか遅いとか、そういう事、あまり考えていないから」
「考えていない?」
「だって、お豆腐の配達した後、学校に行くのよ。なるべく早く帰りたい、とは思うけ
ど、一緒に走ってる人がいるわけじゃないし、対象がないから分からないのよ。
 たまに、走ってる人がいるけど、ペースが遅いから抜いているだけよ」
「ペースが遅いって・・・ 」
 公にとって詩織の話は、自分が理解できる次元のものではなかった。詩織自身は、ど
んな車を抜き去ったか?などと言うことはいちいち憶えていないだろう。
 その中に公も乗っていた、望のスカイラインRSターボも含まれるだろう。そのスピ
ードが尋常なものではないと知っている公は、こう聞かずにはいられなかった。
「いったい、どういう風にすれば、あんなに速く走れるんだ?」
「もう、速いとか遅いとかは分からないって言ってるでしょ?
 私はただ、お豆腐をつぶさないようにすることだけを考えて走っていたのよ。
 それを考えてみれば、お豆腐をおろした帰りの下りなんて、簡単すぎて眠くなっちゃ
うわ」
 簡単にそう言ってのけ、詩織はごく当然と言った表情になった。
 公はしばらく何も言うことが出来ず、口をぱくぱくと上下させるだけになってしまっ
ていた。だが、やがて気を取り直し、詩織に真面目な視線を向けた。
「ど、どうしたの?」
「あのな、詩織。そんな詩織と勝負したいって言う人がいるんだ」
「?・・・・・・それって、どういう事?」
 全く要領を得ないと言う感じで詩織が答えると、公は自分の切り出し方がまだまだ唐
突だったと思い至り、考えを巡らした。
「ええと、なんて言うのかな? 詩織の言い方からすると、今まで詩織が抜いていった
車にどんな人が乗っていたかなんて考えていないと思うけど、どうかな?」
「うん、ま、そうよね」
 そう言って詩織はしゃがみ込んだ。オイルが抜け切ったのだろう、エンジンの下から
オイルパンを引きずり出す。
 その姿を見ながら、公が続けた。
「その中に、レース関係者の人がいて、詩織の腕を確かめたいって人がいるんだよ。
 それで、ともかく勝負と言う事になったんだって・・・・・・」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それがどうして公くんとつながるの?」
 詩織にとって、公の言葉はあまりにも突然だったし、その疑問もしごく当然のものだ
った。公にもそれは分かったが、あえてはぐらかして答える。
「ま、それはいろいろあって、おいおい詳しく話すから、今は置いといてよ。
 で、どうかな?」
「どうかなって、そん訳の分からない事突然いわれたって、すぐにやるなんて答えるわ
けないでしょ?
 それにこの車はお父さんのだから、そんな事に使えないわよ」
 (もっともである)
 詩織はオイルの缶に慣れた手つきで(!?)穴を開け、エンジンルームをのぞきこん
だ。
 彼女のその手つきと正論に、公が二の句も継げずにいると、公の背後、ガレージの家
側の入り口から声が上がった。
「なんだ、面白そうな話じゃねえか。やらないのか?」
「お父さん」
「おじさん」 
 詩織と公はほとんど同時にそう言って、やはり、ほとんど同時に視線を向けた。
 2対の視線の先には、本当に嬉しそうな表情をした詩織の父、文也が立っていた。
「何よ、お父さん。盗み聞き?」
 責めるような詩織の声だったが、文也は全く意に介さない。
「そういう言い方はないんじゃないか? 用があって来たのに」
「用って、なによ」
「ちょうどいい事に公くんもいるからな。二人ともよく知ってる人だよ」
「?」
 公と詩織は、文也の言葉の意味は飲み込めたものの、それが誰かということは分から
ず、互いに視線を交わした。
「おう、こっちにいるぞ。早く来なさい」
「はい」
 扉の影の奥から返事が聞こえ、やがてその人物が姿を現した。
「よ! 久しぶりだな。元気してたか?」
 その人物の姿を認め、公と詩織は同時に声を上げた。
「トシくん!?」
「トシ!?」
 ”トシ”と呼ばれた詩織達と同年代の人物は、照れくさそうに笑った。
「帰って来たよ。今度は一時帰国なんかじゃなくてね」
 
 
 
 詩織の家の細い路地をはさんだ向かいの家に、公と詩織の二人と同じ年齢の少年が住
んでいた。
 名前は君本人思。通称トシ・・・ と、3人でよく行動していた頃、詩織達はそう呼んで
いた。
 3年前までは・・・ 。
 というのも、3年前、人思は父親の転勤でアメリカと渡っていった。もちろん、その
間に何度か帰国したりしたのだが、ここ1年ほどは帰国することもなく、やや、疎遠と
なっていた。
 その人思と久しぶりに顔を合わせたのだ。公と詩織が驚くのも無理はない。
「ど、どうしたの、トシくん? こんなに突然!?」
「そうだよ。なんにも連絡よこさなかったじゃないか!?」
 詩織と公の質問、と言うより多少怒ったような口調での言葉に、人思はすこしばかり
困ったような表情になった。
「何でそんな言い方するんだよ!? 引っ越しやら何やらで、ちょっとばかり忙しかっ
たし、みんなを驚かそうと言うのもあったんだよ」
 詩織はその答えにほっとしたような表情を浮かべた。
「そうなんだ。そういう事ならしょうがないかな?」
 その詩織の横顔を横目で見ながら、今度は公が聞いた。
「帰国って、おじさんも日本に帰ってきたのか?」
「ん? ああ、来年2月に新工場が出来て、そうしたら帰ってくるんだけど、俺は一足
速く帰ってきたんだ。
 日本の大学に行くためには、今のうちに帰ってこなきゃならないからな」
 人思の答えに、詩織と公はしばし考え込んだ様な素振りを見せた後、ほとんど同時に
視線を交わした。そして口を開いたのは公だった。
「ちょ、ちょっと待て。
 トシ、新学期の関係とかなんやらで、一学年遅れてたんじゃなかったんだっけ?」
「スキップ(飛び級)したんだよ」
 事もなげに人思はそう答えたが、公はかなり真剣な表情になって言った。
「そんなにあっさり言うなよな」
(全くだ)
 それに詩織が続く。 
「私もそう思うな。スキップするのって大変なんでしょ?
 なんだか、トシくん、すごいね」
 そう言いながら、詩織の表情が徐々に感心したものになっていった。
「まあ、大したことはないよ。詩織達と同じ学年になりたかったからね。
 大学ならそう言うのはあまり関係ないって言われたことあるけど、やっぱり、公の後
輩になるっていうのはあまり楽しい想像じゃないからな」
「どういう意味だよ、それは!?」
 口を尖らせて公がそう言うと、詩織が吹き出した。
「トシくん、変わってないんだね。公くんも、あまりむきにならないでよ。久しぶりな
んだから」
「分かってるよ。トシはそうやって俺をからかうのが趣味みたいなものだからな」
 自分の言葉から始まった展開に戸惑ったのか、人思は、きっと彼の癖なのだろう、照
れくさそうな笑顔をして答えた。
「とは言ってもね、実際は四苦八苦だったんだ。足りない単位があったんで、つい先日
にようやく取り終えたんだよ。学校に理解があって協力してくれたんだ。
 補習を受けてテストをやって、やっとね」
 ついさっきまでのすねたような表情から一変して、感心した表情になって人思の声に
答えた。
「それにしたってすごいや。さすがはトシだな」
「じゃあ、私達と同時に入試をするのね?」
 公に続いた詩織の問に、人思はうなずく。
「そのために頑張ったんだってば」
 その答えをきっかけにして、3人の間にささやかな歓声が上がった。
 それを見て、文也が軽く咳払いをした。
「いやあ、久し振りに会ったんだから盛り上がるのも分かるが、みんな、俺の存在、忘
れてるだろう?」
 それが図星だったため、3人はほとんど同時に苦笑いを浮かべた。文也はそれにつら
れたような笑いを浮かべながら首を振った。
「まあ、それはいいとしよう。
 で、詩織。今の話どうする?」
 文也のいきなりの話題の転換に、詩織は多少戸惑ったものの、すぐに首を振りながら
答えた。
「もう、お父さんまで。
 お父さんの車なのに、そんな事出来るわけないでしょ?」
「いや、公くんが言うような事情があるんなら、俺は別に構わないぞ」
 まったくもって嬉しそうな表情で文也はそう答え、その傍らの人思の左ヒジをつかん
でさらに続けた。
「人思くんも、そんな詩織に興味があるそうだぞ」
「え?」
 思わぬ文也の言葉に、詩織は人思の顔を見つめた。人思は自分に話題が振られたこと
に、困ったような表情になりながら詩織に答えた。
「このガレージに来る前に、おじさんから詩織が車の免許を取ったって話を聞いて、そ
れなら、久しぶりのきらめき市を車で案内してもらえるな、と思ったんだ。
 それに速いというなら、そう言うのも見てみたいじゃないか?」
 そう言った人思の表情は、嬉しそうなものになっていた。
「まったくぅ、男の人って、本当にこう言うの好きよね。
 トシくんまでそんな事言うなんて、思わなかったな」
 それに対する詩織の表情には、一種「苦虫をかみつぶしたような」成分が含まれてい
た。
「大体、私がそんな事して、なんの得があるっていうの?」
「詩織がそんな損得を言うとは思わなかったな」
 詩織の言葉に、公が意外そうな声を上げた。
 その声に詩織はちらりと公に視線を向けて、「ふう」とため息をつく。
「一体なんなの、みんなして? 私にどうしろって言うのよ?」
 思わずそう口にしてしまったが、詩織にしても3人の思惑がどういう意味なのかは判
っていた。
 それをフォロー(?)するかのように文也が言った。
「詩織だって公くんだって、久しぶりに人思くんに会って、どこかに遊びに行きたいん
じゃないか?
 そこに車があればまた違うだろ」
 意外な方向の文也の言葉に、詩織達は顔を見合わせた。
 それに追い打ちをかけるように文也は続ける。
「公くんの言ってきた話に詩織が乗るんなら、ワンエイティを好きなだけ使っていい
ぞ。もちろん、配達が終わってからだけどな。
 それに、勝ったら・・・ ガソリン満タン、プラス、お小遣いをつけよう。
 どうだ?」
『う。ガソリン満タンとお小遣いは効くわ』
 内心で詩織はそう思った。その思いを隠すように詩織は落ち着いて答えた。
「もう、分かったわ。
 なんか、私だけなんだか割りが合わないような気もするけど、その話、受けてもいい
わよ」
 詩織は『なんだか、訳の分からないうちに押し切られたな』と言う思いを捨てきれな
かったが、そう答えた。
 その返事に、公はほっとしたような表情になった。その表情に詩織はなんとなく納得
できないものを感じたが、これ以上何を言っても言い換えされるだけのような気がして
何も言わなかった。
 
 
 
 一応の結論が出て、公は自分の家に戻り、詩織はそのまま180SXの整備をつづけ
た。
 そして、人思と文也は一緒にガレージを離れていったのだが、そこで人思は興味津々
というような表情で文也に聞いた。
「おじさん、何をたくらんでるんですか?」
「ん? どういう意味だ? それは」
「拓也兄さんがいなくなった、てのは聞いてたけど、詩織がその代わりになってるなん
て思わなかったし、今の話だって、どうも何か裏がありそうじゃないですか」
 人思の問いかけに、文也も意味ありげな笑顔を浮かべながら答えた。
「たくらむなんて、人聞きが悪いなあ。
 俺はただ単に面白そうな話だな、と思っただけだよ。それ以上でもそれ以下でもない
よ」
 そう言って笑った文也の表情は、人思に、いたずら小僧を想像させた。
「たしかに面白そうな話ですよね」
 そう言いつつ、人思も似たような表情を浮かべた。
『日本に帰って早々、ドラマチックな事で・・・ 』
(グッドタイミングでしたね)
 
 
 
to be continue RZM-2「7」
 
 
 
       第7回 「公の戸惑い」

 
 
 不思議なもので、ごくごく内輪にしているつもりでも、興味がある人間や、関係して
いる人間には情報というものは漏れていくものである。
 ”全日本ラリードライバーの井上隆がきらめき峠を攻めている。しかも、どうやら、
誰かと勝負するらしい”
 と言う噂となって流れていた。
 
 
「主人ぉ。お前、誰かに喋ったか? 例の事」
「喋ろうにも、そんな時間ありませんでしたよ。
 甲斐先生こそどうなんですか? 実は先生が噂を流したんじゃないんですか?」
 公と甲斐はそんな会話を交わしていた。
 所は伊集院家のクリスマスパーティーの会場である。
 立食形式なのをいい事に(?)、先ほどから次々と料理を平らげる公の食欲に、甲斐
は多少ひるんでいた。
(自分だって高校生の頃、そのぐらいは食べていたということは忘れるものである)
 水割りの入ったグラスを傾け、一口飲んでから甲斐は言った。
「そんな事はしてないよ。
 だとすれば、井上が聞きまくったんだろうな。リターンマッチのために。
 それが噂になったんだろう。 まったく、暇というか何と言うか
  ・・・ところで、主人。まだ、教えてくれないのか? その180SXのドライバーが
どんな奴なのか」
 甲斐の問いかけにも、公の返事はつれない。
「今、言ったって絶対信用してくれませんからね。当日までの秘密ですよ」
「秘密ねえ。主人も結構、策をろうするなぁ」
「甲斐先生には負けますよ」
「ま、そういう事にしておこうか」
 負けを認めるかのように苦笑いをうかべ、甲斐はグラスを飲み干し、公に片手を上げ
た。
「それじゃあ、当日な」
「はい」
 と言う返事もそこそこに、公はさらに食事を再開した。
「よ! 公、やっぱり食ってたな。お前もすっかり体育系になっちゃって」
 そう言って公の肩を叩いたのは、早乙女好雄だった。
「ホォエ?」
 公は振り返り、口にフライドチキンをくわえたまま答えた。
 その間の抜けた表情に、好雄は内心で思った。
『これが夏の鈴鹿で決めた男かね?』
 などという思いはおくびにも出さず、好雄は公にたずねた。
「あのな、公。一つ聞きたいんだけど・・・ 」
「ん? あに(何)?」
 あくまでも間の抜けた公の返答に、好雄は内心で肩を落としたのだが、自分の質問が
優先したため、それについては一切追及しなかった。
「噂で聞いたんだけど、うちの学校の生徒の誰かが、きらめき峠を攻めてるって話。
 あれ、本当なのかな? 思って。
 公なら何か知ってるんじゃないか?」
「ん?  ・・・ううーーん。
 な、なんで俺にそんな事聞くんだよ?
 どういう訳でそんな事に興味があるんだ?」
 公の答えるまでの一瞬の間、好雄にはそれだけで”何かある”と感じるには十分だっ
た。
 だが、そこで直接的に聞くような事はしない。それは好雄が今までの体験から得たテ
クニックだった。
「いやね。臨時の部とは言え、俺達は自動車部に在籍してたんだぜ。どうしたってそう
言う話題には興味があるじゃないか。公は違うのか?」
「ま、まあ、そうかな・・・ 」
「そうだろ? 公なら、清川さんから何か聞いてなるんじゃないかな? と思ったんだ
よ。 きらめき峠は清川さんのホームグラウンドだからな。
 本当に何も聞いてないの?」
「清川さんにはまだ何も言ってないよ・・・ !」
 ”しまった”と公は内心で思い、恐る恐る好雄に視線を向けると、その先には、して
やったりと言ったような表情をしつつ、好雄が笑っていた。
「やっぱり、何か知ってるんだな?」
「 ・・・う、うーーんと、まあ、知っているような知らないような・・・ 」
「なんだいそりゃ?」
 公は、正に”しぶしぶ”という表情で好雄に言った。
 好雄の情報網の質と量には、正直なところ驚かされる。
(どっから聞いてきたんだろうね? そう言う話を・・・ )
「そういう事ならさ、今度の土曜日、きらめき峠に来てみろよ。
 はっきりとした事が分かると思うよ」
「なんだよ? もったいぶって」
 好雄には公の言い方が、どうにも腑に落ちない。
 それに対し、公は困ったような表情で答えた。それはともすると、独り言とも取れる
ような口調だった。
「あんまり、目立つような事にはしたくないんだよ・・・ 」
「 ・・・?・・・ 」
 好雄にはその言葉の意味は、まったく飲み込めなかった。
 
 
 自分でも分からない内に、半ば強制的に決められた、きらめき峠の勝負を控えたこの
日の夕方。
 詩織は180SXに乗って、北風が吹きつける海に来ていた。
「私、何してるんだろう?」
 海岸沿いの道路に180SXを停め、ドライバーズシートで詩織は独り言を言った。
 実際、その言葉は、現在の彼女の心境をそのまま表わしていた。
(そりゃ、そうだろう)
 この勝負はもともと、なんとなく、公や人思、そして父親である文也によって押し切
られた形となったわけだが、気が付くと詩織はその事に考えが集中していた。
 もともと、彼女は物事を真面目に考える性格だった。
「手の抜けない性格」
 一言で言えばそういう事になろうか。
 もちろん、効率を良くするための「いい意味での手抜き」をする事に抵抗はない。
 だが、なにかをしよう、もしくは何かをしなければならない時、詩織は妥協点という
物の基準がひどく厳しい。
 「このぐらいでやめておこう」
 という事に、なかなかならないのである。
 それは誰かに認めてもらいたいとか、誰かにほめてもらいたい。と言うような理由で
はなく、自分自身が気に入らなかったのである。
 誰に、ではなく、自分自身に負けるような気がしてならなかったのだ。
 自分が相手となると、それははっきり言って際限がない。どこまで行っても終りがな
いので、かなり厳しい事になる。
 だが、詩織には、それが当たり前の事のようになっていた。
 だから、厳しいと言う感覚は、あまり彼女にはなく、「どうせ勉強するのなら、いい
成績を残したいし、スポーツするなら身体を充分動かしたい。友人は多い方が楽しいだ
ろうし、みんなから好かれた方がいい」と言うように、かなり(いわゆる)プラス思考
で捉えていた。
(もちろん、おしゃれをするのならきれいになりたい。という女の子ならではの願望
も、もちろんあります(笑))
 それ故、勉強やスポーツなどで秀でた成績を収める事になったのであり、誰からも好
かれる人物となったのだ。
 
 それはそれで、決して人から非難されるような類のものではない。
 だが、詩織にとっては、どこか、納得できない、と言うような感覚を、多少なりとも
感じていた。
 どういう事か?
 それはいくら頑張っても、いやむしろ、頑張れば頑張るほど、一部から聞こえてきて
しまう声がある。
「いい子を演じてつまんない女」
 と言うような類の声である。
(いい子ぶって、チョームカツク。とかになるのか?  ・・・なんか頭悪そう(笑))
 それらの声を気にしない、と言えば嘘になる。詩織としても、それはしょうがない
と、理屈では分かって割り切ってはいる。
 だが、それでも、胸に引っかかってしまうのである。今の自分は背伸びをしているの
だろうか? 本当の自分は、周りが言うほどの人間ではないのかもしれない。
 そんな考えが、どうしても抜け切れないところがあった。
 とか言いつつも、長年付き合ってきた性格がそう簡単に変えられるものではなく、結
局、この日のきらめき峠のことを考えていたのである。
「ともかく、やるからには、 ・・・勝たなきゃ ・・・駄目だろうな」
 なかば自嘲気味とも言える笑顔を浮かべ、詩織は180SXを発進させた。
 
 
 
 ちょうどその頃、公と人思は、公の部屋でアルバムや雑誌などを見ていた。
「公、お前、本当に鈴鹿4時間耐久に出たんだなあ。なんか、雑誌で公の記事を見るの
は不思議な感じだけどな」
 そう言いながら人思は一冊の雑誌の記事を公に指し示した。
 この夏、鈴鹿4時間耐久レースで活躍した、きらめき高校自動車部は、モータースポ
ーツ雑誌などで(それほど大きくではないけど・・・ )取り上げられた。
 公の両親はそれが嬉しかったらしく、公の記事が載っている雑誌を手当たり次第に買
っていたのである(しかも、それぞれ複数)
 その雑誌の内の1冊を、人思は見ていたのである。
「俺は単なるペースメーカーだよ。 パートナーがすごかったのさ」
 人思の声に、公は多少照れくさそうな表情で答えた。人思は雑誌を閉じ、公に微笑み
かける。
「またまた。そう謙遜するなって。
 清川さんだっけ? パートナーって」
「え? あ、そうだけど、それが、何?」
「どうなんだよ。彼女とは?」
「な、なんだよ、それ!? 別にそんなんじゃないよ」
 公が困ったような表情で言ったので、人思のからかうような口調に、さらに拍車がか
かる。
「そうか? 今日の詩織のバトルだって、その娘と見に行くんだろ?」
「う、うん。そうだけど、それは単に、車系が好きなとこから来てるんだけどね。 
 ・・・だけど分からないんだ。俺、清川さんには嫌われてると思ったから」
 なんとも歯切れの悪い公の口調に、人思は首を振り、話題を変えようとした。
「まあ、いろいろと複雑なものがあるんだろうな。俺には分からないだろうけど・・・ 。
 それはそれで置いておくとして、一つ聞きたいんだけど、公は今日のバトルの事、ど
う思ってるんだ?」
「どう思ってるって?」
 いきなり意外な方向へ話題が移ったため、人思の真顔に対し、公はやや間の抜けた表
情になった。
「いや、この話、最初の頃、公、やたら積極的だったじゃないか。なのに、ここ最近、
なんか気乗りしてないようだから、ちょっと気になってな」
 この時、人思はむしろ淡々とした口調で言ったのだが、それが効果的だった。
 公はあっさりと土俵を割る。
「そうなんだよな。最初は確かにそうだったんだけど、今はちょっと、後悔・・・ してる
かな?」
「なんで?」
「トシも知ってると思うけど、詩織って、なんでもそつなくこなすし、およそ欠点とい
うものがないよな?」
「ああ」
「だげどその一方で、どうもとらえどころが無いって言うか、今一つつかめない感じ、
するよね」
「うーん。まあ、そう言う見方もあるなぁ」
「詩織ってここって時に、どうも一歩引いちゃう感じしてたんだよ。
 今回の事は、確かに興味本意と言うところがあったけど、こういう事で一皮むけてく
れるといいな。と、思ったんだ。
 余計なお世話、と言ってしまえば、そうなんだけど・・・ 」
 そう言って公は笑った。それは心なしか、力のないように見えた。
「で、そのテンションが落ちた訳は?」
「 ・・・うん。なんだか、大事になってきちゃっただろ? それがちょっと・・・ 。
 これは俺の思惑とは、相当違ってきたから・・・ 」
「どういう事?」
「これはひょっとしたら、詩織の将来を左右する事になるかも知れない。
 そう思ったら、俺、余計な事をしたのかも、ってなるじゃないか。そのあたりでね」
 公の言葉に、人思は右手を顎に当てて、天井を見上げた。
「うーーん。気持ちは判らないでもないけど、そりゃ、考えすぎじゃないのか?
 例えそうなったとして、最終的な決断は詩織するんだから、公が気にする事じゃない
だろ」
「うーーん。確かにそうだけど」
「寂しいか?」
「?」
 公は一瞬不思議そうな表情になったが、その直後に、むしろ納得したような表情にな
った。
「うん。ひょっとしたら、そうかも知れないな。
 今日のことで、詩織がどこかに行ってしまうかも知れない。そう言う心理があるのか
もしれない。
 詩織がこういう事で手を抜くような性格なら、目立つようなことにはならないだろう
けど、そうはならないだろう。
 そうすりゃ、勝ってしまうだろうから、目立つこと請け合いだよ」
「なあ、公」
「ん?」
「そんなに断言できるほど、詩織って速いのか? こう言っちゃなんだけど、相手だっ
て相当速いんだろ? 必ず勝つとは限らないんだろうに」
 人思の言葉に、公は軽く首を振って答えた。
「速いよ。詩織は速いんだよ。それもハンパじゃなくてね。
 実は俺、詩織の走りを見てるんだ。正確に言えば、あっと言う間に抜かれたと言うの
が正解なんだけど・・・ 」
 苦笑いのような表情になった公が、さらに続ける。
「今、話していた、清川さんの車のナビに座っていて、見たんだ。
 清川さんだって、2輪の走りを見れば想像できるように、相当な腕なんだよ。もう次
元が違うぐらい速いんだよ。
 なのに、その清川さんの車を、詩織はあっさり抜いていったんだよ。
 まあ、理由はそれだけだけど、それなりに確信はあるんだ」
 公の口調に力強さを感じた人思は、それ以上は聞き返さなかった。そのかわりに、独
り言のように言った。
「公がそう言うんなら、そうなのかな?」
 それきり、二人の間から会話が途切れた。それ以上なんと言っていいのか、二人とも
思いつかなかったのだった。
 結局、二人はそのまま、雑誌などを黙って読んでいた。
 やがて、窓の下あたり、ちょうど、公の家の玄関先から、重く響く排気音が聞こえて
きた。その排気音に聞き覚えの公が、顔を上げて言った。
「あ、来たみたいだ」
「なんだ? 誰が来たって?」
「清川さんだよ。清川さんと、今日、見に行くことになってるんだ」
「清川さん、て女の子だろ。これから夜になろうってのに、いいのかよ?」
「うん。鈴鹿以来、なんか、俺、信用されてるみたいなんだ。
 一緒ならいいだろう、って清川さんのお父さんが言ったらしいんだ」
 その言葉の意味をふか読みした人思は、なんとも言い難い、複雑な表情で、公に言っ
た。
「親公認と言うわけ?」
「べ、別にそう言うわけじゃないよ」
 公はむきになって、そう言い返したのだが、人思は冷やかすような表情で、公を見る
だけだった。

「それじゃ、俺、行くから」
 望のスカイラインの助手席に座って、公はその横に立つ人思を見上げながら言った。
「ああ、話聞かせてくれよ」
 人思がそう答えると、公はさらに聞いた。
「本当に一緒に行かないでいいのか?」
「邪魔するような野暮はしないよ」
 軽い口調で人思が答えると、公はともかく、望は頬を染めていた。そんな事を知って
か知らずか(また、それかい!?(笑)、公が望に言った。
「それじゃ、清川さん、行こう」
「うん」
 そう答え、望はクラッチをミートさせ、スカイラインを発進させていった。
 望はちらりと、バックミラーで人思の姿を見て、公に聞いた。
「あの人が、君本くん?」
「え? ああ、そうだけど、それが?」
「ううん、特にどうって事はないんだけどね」
「気になる?」
「そうじゃないって!」
 望はやや強い口調でそう答え、内心でこう思った。
『あの人は、気づいたみたいだな。だけど、どうして公くんは分かってくれないのか
なあ?』
(清川さん。そりゃ、無理だってのは、分かってるでしょう)(笑)        

 望はそんな事を考えていた頃、その二人が乗ったスカイラインを見送った人思は、自
分の家に帰ろうと歩いていった。
 その人思を車のヘッドライトが照らした。
「トシくん!」
 人思にはその声を判別することが出来た。逆光になってその姿は見えないが、運転席
のドアの側に立っていた人物が誰なのか、人思には分かりすぎるほど分かった。
「どうしたんだよ。詩織? 行かなくていいのか?」
 詩織は180SXのライトの前に立つ。
「公くんは?」
「ああ、公は清川さんって人と、先にきらめき峠に行ってるはずだよ」
「ふうん。そうなんだ」
 そう答えた詩織の表情は、ライトの影になって、人思にはよく見えなかった。だが、
その口調は心なしか暗いものの様に感じた。 
「?」
 人思がその表情をつかみかねているうちに、詩織の口調が明るいものに変わった。
「トシくん、今、暇?」
「ああ、暇って言えば、暇だけど?」
「じゃあ、一緒にきらめき峠に行かない? なんだか、私一人じゃ行きにくくって」
 一瞬、人思は考え込んだが、それも長くはなく、すぐに答える。
「ああ、それでもいいかな。結構、面白そうだ」
 そう言って、人思は180SXの助手席に乗り込んだ。
(簡単にそう答えたのはいいけど、失神寸前に追い込まれるんだよね)(大爆笑)
 
 
 
to be continue RZM-2「8」
 
 
 
      第8回 「戦慄 きらめき峠」
 
 
 
 きらめき峠は、昼間までの観光道路と言う雰囲気からうって変わり、一種独特の雰囲
気になっていた。
「この寒いのに、みんな他に行くところ、ないのかなあ?」
 山頂のパーキングエリアで、人のことは言えないはずなのだが、望のスカイラインの
助手席で、公はポツリと言った。
「こんな寒い時だからよ。
 この辺りで、雪の心配がいらない峠は、ここぐらいだからね」
 公の横、運転席に座った望がそう言った。それに対して公が苦笑いをしながら答え
る。
「うーーん。なんか、そういうのも、なんだかなあ。って気がするけどね」
 スカイラインの中には公と望の二人だけなのだが、これから起ころうとしている事に
神経が向いているので、甘い雰囲気と言えるようなものは、かけらもなかった。
(もっとも、この二人にそう言った雰囲気なんてのは、もともと縁遠いんだけど・・・ )
 公は、ふと視線を1台の車に向けた。
 それはシルバーのスカイラインだった。望の車もスカイラインだが、モデルがもっと
新しい。
 いわゆる前期型で、形式でいうところの「32」と言われるものだ。
 ただ、あまりにも有名なGT−Rではなく、外観はおとなしめの2ドアクーペであ
る。グレードはGTS Type-J。
 もっとも、かなり手を加えられているようで、ノーマル車とは、かなり雰囲気が違
う。
 その GTSスカイラインの横に二人の男がいた。
 井上と松原である。
「やっぱり、こいつで走るのか? インプレッサ気に入ってたじゃないか」
 銀色のボディーを軽くたたきながら、松原が井上に聞いた。
 それに対して、ごく当然と言った表情で井上が答える。
「あれは借り物、というか、テスト用でしたからね。走り慣れたこいつの方が、かえっ
ていいですよ。 俺なりに手を加えていますしね。
 それに、車の性能の差で勝ったなんて言われたくありませんから。相手がS13なら
大体イコールコンディションでしょ?」
「お、余裕だね?」
「そう言うわけじゃありませんよ。俺って余裕があると、結構、気が抜けちゃう方だか
ら・・・ 」
「それで昨年チャンピオンを逃したんだよな」
「 ・・・やめましょう、この話題は。
 ・・・ところで、まだですかね? 今日のお目当ては。たっぷりと引いてくれますね。
 大した役者ぶりですよ。宮本武蔵気取りですかね?」
「まあ、慌てるな。夜はまだまだ長いんだからな・・・ 」
 そして二人は、申し合わせたように、180SXが上ってくるであろう道路の方向に
視線を向けた。
 
 
 
 何かが2回、サイドウインドウを軽く叩く。その音に公が顔を向けると、そこには見
知った甲斐の顔があった。
「甲斐先生」
 窓を開けながら、公が言った。冷えた空気が車内に入り込み、比較的薄着になってい
た望が身震いをする。それに気がついた公は、ウインドウを閉め、ドアを開け外に出
た。
(すきま風? と言うのは寒いんだよね)
「来てたのか?」
「ええ、もちろん。俺も無関係じゃないんだから、気になりますからね」
 公がそう答えると、服を着込んだ望が運転席から降りてきた。
「清川さんは?」   
 そんな望に甲斐が聞く。
「わ、私? 私は単なる好奇心」
「そうなんだ・・・ 」
 そう言ったのは甲斐ではなく、二人の間に立つ形となった公だった。
 望は怒ったような、残念なような、少々判断つきかねる表情となった。甲斐にして
みれば、その光景は、ほほえましいと言うべきか、照れ臭いと言うべきかは分からない
が、ともかく、苦笑いしてしまいそうな性質のものだった。
 その苦笑いを必死に押さえながら、甲斐は公に聞いた。
「ところで、本当に来るんだろうな? 今宵の招待客は?」
 妙に古い言い回しに、公は、多少、面食らったものの、自信を含ませた口調で答え
る。
「大丈夫です。約束を破るような人間じゃありませんよ」
「そうか。ならいい」
 
 
 
 
「なんかここって、俺には場違いな雰囲気じゃないか?」
 きらめき峠に上る道、180SXの助手席で人思はそう言った。詩織が運転する18
0SXの速度に顔が引きつり、その声も、やや、上擦ったものになっていた。
 対して詩織の表情は、人思のそれとは対照的な、リラックスしたものだった。
(よそ見なんかしちゃったりして)
 その表情のまま、詩織は答える。
「それを言うなら、私だってそうよ。
 こうなるようにしたのは、トシくんと公くんでしょ?」
 そう言われると、人思としては何も言えなくなってしまうのだった。
 そうこうしている内に、二人の乗った180SXは、頂上付近のパーキングエリアに
さしかかった。
 そこには見るからに、ノーマル仕様とは違う車が(いかにも”滑るぞ”という感じで
すね)数多く並び、それに相応するギャラリー(?)も、いくつかのグループを形成し
て一種独特の空間を作っていた。
「ここみたいね」
 詩織が、半ば独り言のような口調でそう言うと、人思もそれにならったかのような口
調で答える。
「そのようだな」
「 ・・・帰っちゃおうかな?」
「そう言うわけにはいかないだろう?」
「わかってますよぉ、だ」
 すねたような表情と、それに見合った口調でそう言いながら、詩織は空いていた駐車
スペースに180SXを停めた。
 詩織と人思が申し合わせたように同時にドアを開け、同時に180SXの両わきに立
つと、周りにいた者達からひそひそと声が聞こえてきた。
「あれか? ずいぶんと若いな」
「女連れとはいい身分だぜ」
「しかも、女に運転させて、か。余裕のつもりかな?」 
 その声と、痛すぎる視線を感じた人思は、困ったような表情で詩織に言った。
「まあ、無理もないって気もするけど、なんか、激しく誤解されているみたいだね?」
 
 
 
 そう言った誤解をしなかった者がいたとしても、少なくとも、それは公や詩織の知っ
ている人間の中にはいなかった。
「そんな事って・・・ 」
 その例外ではなかった望は、そう言ったきり、公の顔を見ながら絶句してしまった。
 公について180SXに近づいた望は、そこに思いもしていなかった人物、詩織を見
つけて、大げさにいうならパニック状態になってしまった。
 公、そして詩織自身から事情を聞かされても、なかなか納得できるような事態ではな
かった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。それじゃ、あの日、私を抜いて行ったのって、藤崎さんだ
たの!?」
 望は当然すぎる疑問を、公にぶつけた。
 その質問に答えたのは、公ではなく甲斐だった。
「どうやら主人には、聞かなきゃならん事が随分あるようだが、今日のところは、初期
の目的を優先させておこうか」
 そう言った甲斐の表情は、気分を悪くしたような成分は全くなく、むしろ上機嫌と言
うべき性格のものになっていた。
 甲斐はその表情のまま、この光景を、やや離れた場所で茫然と見ていた松原と井上に
向ける。
「という訳だが、やめておこうか?」
 それに対して井上は両手を腰に当てながら、不満そうな表情で答える。
「冗談でしょ。ここまで来てやめられますか。
 それに、相手が女だからって油断するほど、俺は間抜けじゃありませんよ。
 速い奴は速い。それだけです。
 それにここでやめたら、困るのは松井さんと、そこにいる甲斐さんでしょ?」
 その声に場が固まるが、名指しされた甲斐がうれしそうに答える。
「決まりだな。
 それじゃやるか。
 ルールは簡単。ふもとまでのタイムアタック、先に行った方が勝ちだ。
 ブラインドコーナーでは、俺の知り合いが、対向車を手をふったりして知らせてくれ
るからな」
(甲斐は言わないけど、要するに伊集院の私設部隊だね(笑))
 甲斐はそう言うとスタート地点に向かって歩いて行った。
 後に残された人間のうち、井上と松原はすぐに自分の車に戻っていったが、詩織、人
思、公、望の4人は、しばし、ただ視線を交わすのみだった。
「甲斐センセって、一体どういう人なのかなあ?」
 公が不思議そうな表情でそう言ったが、それに答える者がいなかった。
 それに変わって、詩織が言った。
「じゃあ、私達も行きましょ」
「私達?」
 他の者もそうは思っていたが、唯一、声に出したのは人思だった。
 詩織が答える。
「そうよ。トシくんも乗っていくのよ」
「お、俺もか?」
「当たり前でしょ? ここに残ったら、また、迎えに来なくっちゃ、ならなくなるんだ
もん。
 ついでに乗っていけば済むでしょ?」
「済むでしょ、って・・・ 」
 人思は言葉に詰まったが、とても断れる雰囲気ではなかったため、しぶしぶと言った
表情で、詩織について行った。
 後に残った公と望は、顔を見合わせた。
 望が口を開く。
「じゃあ、私達も行こうか?」
「へ?」
「ビッグサンダーマウンテンのスタートよ」
「 ・・・・・・」
 公も答えることが出来なかった。
 
 
 
「始まるぞ」
 などという声が、ぼそぼそと(笑)沸き上がる中、スカイラインと180SXがスタ
ート地点に並ぶ。
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 井上隆搭乗:スカイラインGTS Type-J (HR32) データ
 
 
エンジン:RB20DE
 
    FUJITSUBO Legalis-EX(EXマニホールド)
    HKS Dragger-NA(スポーツマフラー)
    M's ストラットタワーバー(F&R)
    エアインテークユニット交換
    MOMO ステアリング、シフトノブ&ペダル一式
    NGK プラチナパワープラグ
    ENDLESS ブレーキパッド
    GAB 車高調節機能付きサスユニット
    フルバケットシート&4点式シートベルト
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 藤崎詩織搭乗:180SX(S13)データ
 
 
 データ全て不明
 
(やると思ったでしょ?)(笑)
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 
 
 2台が並んだその横に甲斐が立ち、右手の指の、親指、人指し指、中指の3本指を立
てる。その表情は、真剣そのものだった。
 甲斐が、その手を高くあげ、声を大きくして言った。
「3・・・2・・・1・・」
 その数字ごとに指を曲げ、そして、その手を振り下ろしながら叫ぶ。
「GO!!」
 それを合図にして、井上のスカイラインが猛然とダッシュした。それに対して、詩織
の180SXは、明らかに出遅れてしまった。
「32が頭だ!!」
「ワンエイティが出遅れた!!」
 そんな歓声が沸き上がる中、さらに遅れて、望の乗ったスカイライン(DR30)が続く。
「なんだあれは!?」
「三つ巴なのかあ!?」
 その声の中、甲斐は自分のプリメーラに戻り、運転席に乗り込む。
「追いかけないんですか?」
 すると助手席から声がかかった。それはずっとプリメーラに乗り、様子を見ていたレ
イだった。
 夜だというのにサングラスをかけ、その外見は一目を気にしたものになっていた。
(もっとも、見る人が見れば、一目瞭然なんだけど)
「そりゃ、無理だなぁ。俺にはそんな腕はないからな」
「そうですか・・・。で、どうなると思います?」
「さあな。連絡が来るから、いずれ分かるさ」
「・・・そうですね」
 会話が途切れた二人は、3台の車が消え去ったコーナーを、なんとはなし見つめた。
 
 
 
「うぉーー!! なんだ、あれはぁぁぁぁ!!!」
「スピードの次元が違うぅぅぅぅ!!!!」
 コーナーごとに陣取るギャラリーから、そんな声が沸く。
 井上のスカイラインを、詩織の180SXは後方から追いかける形となっていた。い
や、言葉を崩せば「つっつき回している」という感じである。
 2台のマシンは派手なスキル音(タイヤの鳴る音のことですよ)を山あいに響きかせ
ながら、下り道を駆け降りていた。
「なんだ!? あのドリフトは!?」
 バックミラーをちらりと覗いた井上は思わずそう言った。
「向こうは、スタートに出遅れたな。スタートが苦手、と言うより、スタートそのもの
に慣れていないようだ」
 そう言ったのは、助手席にいた松原だった。
「関係ありませんよ。そう言うのも全部含めるのがバトルなんですから!」
 そう言って井上はステアリングに神経を集中させ、内心で思った。
『悪いな。 俺もそう簡単に、負けるわけにはいかないんでね。こう言うところで下手
を打つと、シートを失いかねないからな』
 
 その後方から追い回す180SXの助手席で、人思は頬をひきつらせながら、内心で
思った。
『なんなんだよ。この世界は!?』
 人思の視界には、ガードレールが迫りくり、”フロントウインドウ”の景色が全て、
右に左に横に流れていく。
 その視界の隅、ステアリングを握る詩織の横顔を捉えながら、人思は声を出さずに
(出ないのか?)、詩織に聞いた。
『詩織、これは一体、どうなってんだよ・・・?』
 (まあ、もっともな疑問ではあるよなあ)



 その背後に、やや離れてついていた望のスカイラインで、慌ただしく修正舵を繰り返
しながら望は言った。
「、やっぱり、速いなぁ!! ついて行くのがやっとだよ!」
 ただ、それは左横に座る公に言ったというより、自分自身に対して言ったものかもし
れない。
 少なくとも、そう感じとった公は、それに対して答えたりしない。公はもっと別のこ
とを考えていた。
『確かに詩織も速いけど、それについて行く清川さんも凄いよ。まして、こんな型落ち
のスカイラインで、・・・。
 この短い間でよっぽど練習したんだろうな・・・』
(どこでだ・・・?)
 
 
 
 そんな公と望に背後から見つめれれながら、詩織は井上のスカイラインのテールを見
ながら、思考を巡らしていた。
『速くなったわね、この人。あれから相当走り込んだようね。ラインに無駄がなくなっ
たわ。
 やっぱり、抜かないと勝ったとは認めてくれないでしょうね。
 しょうがないわね。アレをやるしかないか・・・。
 場所は次のS字ね・・・』
 
 
 
to be continue RZM-2「9」
 
 
 
      第9回 「決着、そして」
 
 
 
 きらめき峠を駆け降りる3台の車。井上のスカイラインを攻めたてる、詩織の180
SX。そして、やや離れた後ろに望のスカイラインがつき、そのオーダーは変わらな
い。
 詩織はハードに攻めているが、パスするには至らない。井上は理想的なラインで走行
して、巧みにコーナーのイン側を抑えていた。
 その井上はテアリングを操り、ちらりとバックミラーを見る。
『悪いな。あの妙なコーナーリングは、この前見せてもらったからな。イン側を開けて
はやれないよ』
 井上のモチベーションは途切れることが無く、ラインは崩れない。
 そのスカイラインとテールツーノーズで続く、180SXで詩織は思った。
『この人、随分、走り込んだんでしょうね。ラインに無駄が無くなったわ。
 でも、こんなのは知らないでしょうね』
 その時、詩織は無意識の内に小さく、わずかに微笑んだ。
 それを見たただ一人の人物、人思は、意外な想いにとらわれたのだが、今はそれどこ
ろではなく、頬をひきつらせるだけだった。
『なーーんで、斜め後ろからGが来るかなあ!!!?』
(笑)



 180SXの挙動のわずかの変化に、望、そして公も気が付いた。
「詩織!?」
「公くんも、気が付いた?」
「仕掛けるのか!?」
 望にはそれに答える余裕は無いが、全く、同じ考えだった。公にもそれは伝わったの
で、公も何も言わずに、これから起こるであろう展開に、注意を向けた。
 しかし、こうも思わずにはいられなかった。
『でも、このキンコンだけはやめてくれえ!!』
(笑)



 やや長い直線で、180SXは一気に井上のスカイラインの左側に並び、そしてわず
かに前に出た。
 その先にはS字カーブの、右まがりの一つ目のコーナーが待ち受けていた。
「いくらなんでもオーバースピードだ!! 曲がれるわけないぜ!!」
 180SXを横目で見ながら、井上はそう叫んでいた。
 井上の言う通り、180SXは明らかなオーバースピードでコーナーに進入しようと
していた。
 180SXのブレーキが赤く光り、タイヤからホワイトスモークが上がる。
 それはハードブレーキングの証だった。しかし、それは制動力に全てを費やし、フロ
ントタイヤに操舵力を与えることは出来ない。

「痛恨のアンダーステア」
 その場にいた者は誰もがそう思った。

 だが、その直後、180SXはS字コーナーのアウト側で不自然な挙動をする。
 グリップが不足しているはずのフロントが、突然イン側に向いたのである。
 スピードダウンを最低限に抑えた180SXは、結果的にスカイラインに並ぶ事にな
る。
 そして、次の左コーナーでは、180SXがインを取る事になる。

「な、なんだあ!!」
 その声は決して単独のものではなく、その光景を見ていた多くの者から、ほぼ同時に
上がった声だった。
 その声の中、詩織の180SXは、イン側からスカイラインを抜き去った。
(ズッバアーーン!! と言う音が聞こえてくるわけですね)

 後に残されたギャラリーは、今、目の辺りにした光景を、互いに確認しあった。
「すげーー!! ズバッとインコースに入り込んだぜ」
「いや、凄いのは、その前の右コーナーだぜ。ものすごい突っ込みで、一気に並んだ
ぞ。
 すごい度胸と腕だぜ」
「ばーか。性能を超えたスピードじゃ、どんなに腕が良くったって曲がれないんだぜ。
 完全にアンダーが出てたんだ。
 本当なら曲がれないか、大幅なスピードダウンのはずだったのに、一体何をしたん
だ?」
「なんだよ!? 結局何も分からないじゃないか!?」
 言われた方は答えに詰まってしまったが、だからと言って、それを責める者もいな
かった。
 何が起こったのか?
 その答えを知る者は、その場には一人もいなかった。



「一体、どうしたって言うんだ!?
 何があったんだ」
 レイはそのバトルを報告してきた無線機に聞き返したが、その返事は要領を得なかっ
た。
「”分かりません。確かに目の前で見ていたんですが、何が起こったのか、さっぱり分
からないんです”」
「目の前で見ていてか?」
「もういいよ」
 そのやり取りを聞いていた甲斐が、ぼそりと言った。
「お兄様?」
 無線機を置きながら、レイは視線を甲斐に向ける。
 ステアリングの上部に両手を置き、さらにその上に顎を乗せて甲斐が言った。
「詳しい事は、恐らくケツについていた清川さんから聞けるだろうさ。
 とにかく結果は出たんだ。
 コースレコード? まあ、どこまでいっても非公式なものだが、それを8秒縮める新
記録。
 文句なしのぶっちぎりだ。
 まあ、なんにしろ、予想以上の結果だったな」
 満足そうな甲斐の横顔を見た後、レイは無線機に向かって聞いた。
「それで? 180SXはどうした?」
「”そ、それが、そのまま走り去って行ってしまいました。”」
(カアーーンとかいい音させてか?(笑))
 そんな無線の声に、甲斐とレイは、音色の違うため息を、ほぼ同時に吐いたのだっ
た。



 公と望の乗ったスカイラインは、きらめき峠の登り口の路肩に停まっていた。
 詩織の180SXは、井上のスカイラインを抜き去った後、さらにペースを上げ、井
上、さらに望の追随を許さなかった。
 井上のスカイラインは、また峠を上がっていったのだが、望のほうは、張っていた集
中力が切れた事もあって、その場にとどまっていたのである。
 しばらく望の様子を見ていた公が、ゆっくりと口を開いた。
「清川さん?・・・」
「・・・ん? なに?」
「アレって、一体なんだったんだろう?・・・分かる?」
「ん? 私も確証は全くないんだけど、想像出来ないことはないよ」
「ほんとに?」
「うん。・・・あれはねぇ・・・」



 ちょうどその頃、望の想像と、同じ結論に達していた者がいた。
 詩織が井上のスカイラインをパスした、S字コーナーを眺めるポイントに立ってい
た、紐緒結奈であった。
(なんで、こんなところにいるんだ?)
 結奈は、まるで独り言の様な口調で、こう言った。
「私には判るわ。
 あまりにも馬鹿馬鹿しくて危険だから、誰もやろうとは思わないでしょうけど、確か
に、理にはかなっているわね」
「えー? 紐緒さん、判ったんですかぁ?」
 そう言ったのは、その横で、その言葉を聞いていた館林見晴だった。
(だから、なんでこんな時間にいるんだよぉ!?)
 結奈は、そんな見晴の問には答えず、一人ほくそえんだ。
『そうね、なかなか楽しめそうじゃないの』
 内心でそう思い、見晴には全く違うことを言った。
「ほら、帰るわよ」
「は、はいな。ゆいな。なんちゃって」
「・・・・・」
 見晴の言葉に固まった結奈だった。



 180SXの助手席で、人思は茫然としていた。
(まだ、引っ張るかぁ!!?)
 あとわずかで詩織の家につくというのに、なかなか思考が安定してこない。
 それでも、よく見知った、家の近所に差しかかると、ようやく、詩織に向かって、と
言うより、自分自身に言い聞かせるように言った。
「いや、あ、なんか、すごい、世界を、見たような気がするな・・・」
 詩織はそれに答えず、ゆっくりと、しかし、手慣れた操作で180SXを車庫に入れ
た。
 詩織がドアを開け外に出ると、それにやや遅れて人思が180SXから降りる。
 180SXの屋根越しに、詩織が人思に微笑みかける。
「トシくんと公くんが、こうなるようにしたのよ。満足した?」
 それは決して”嫌味”な口調でも、表情でもなかったが、あまりにも的を得た詩織の
言葉の内容に、人思としても、ほんのわずかではあるが、後ろめたさのようなものを感
じてしまうのも事実だった。
 二人はどちらともなく、ほぼ同時に歩き出し、180SXの前に立った。
 人思は何を言うべきか、少しばかり悩み、思いを巡らす。そして、口にした言葉は、
詩織の思惑より、かけ離れたものだった。
「ところでさ、あの、清川さん、だったっけ?
 あの娘と公って、一体、どういう仲なのかな?」
「はあ?」
 およそ彼女には似つかわしくない、間の抜けた返事に、人思は一瞬、”まずかったか
な?”と言う表情になった。
 が、口に出した言葉が戻ってくるはずもない、とあきらめ、思いきって続けた。
「公の奴、なんか、あっさり、その娘のスカイラインに乗ったじゃないか。
 詩織は詩織で、まるで、それに対抗するように、俺を横に乗せただろ?」
 『おかげですごい目にあった』とは口にしなかった。
 それを抑えて、人思は昔から、自分が感じていた事を口にした。
「これは、俺が勝手にそう思っていただけなんだけだから、合っているかどうか判らな
いけど、詩織って公のこと、好きじゃなかったか?」
「え!?」
 あまりに唐突な人思の言葉に、詩織は心底驚いた表情になった。それに追い打ちをか
けるように人思は続ける。
「俺がアメリカに行く前、詩織は公の前じゃ、そっけない素振り見せてたけど、近くに
いた俺からすると、そう思えてならなかったんだけど?」
「・・・・・・」
 詩織に言葉はなく、人思が一方的に続けた。
「それが、帰ってみれば清川さんっていう人がいるし、詩織は詩織で、平然としてる
し、どうなってるのかな? と思ってな」
 詩織は人思の問い掛けにすぐには答えず、二人は沈黙を保ったまま、しばらくの間、
たたずむだけだった。
 やがて、少しばかり困ったような成分を表情に含ませながら、詩織が口を開いた。
「うーーん。トシくんの推理が、正しいかどうかは置いておくけど、今の公くんと清川
さん、お互いに好きだって事、はたから見ていれば分かるわ。
 もっとも、二人ともお互いの気持ちは判ってないようだし、公くんに至っては、自分
自身の気持ちにだって、気付いていないようだけど」
 そう言って詩織は笑った。
 人思には、その詩織の笑顔に、寂しさのようなものを感じたのだが、それは自分の思
い込みにすぎないのかも知れない、とも、同時に考えていた。
 結局、これ以上、この話題をするわけにはいかないだろうと、人思は話題を変えた。
「ところで、さっきの抜き方はすごかったなあ。
 アウト側から追いついて行ったけど、俺はあの時、外側に飛び出すんじゃないかと、
ひきつっちゃたよ」
 詩織は人思に微笑みかけた。
「トシくんが乗っているのに、そんな無茶はしないわよ。
 あれには、ちゃんとした仕掛けがあるんだからね。運任せという訳じゃないのよ」
「本当なのか? ・・・って、詩織の事だから、根拠のないことはしないか・・・。
 で、何をしたんだ?」
「うん。・・・あれはね・・・」


 
 (おい、まだ引くか?)



 それから時間が流れ、深夜と言うより朝に近い時間になった頃、甲斐とレイは、詩織
が井上をパスした問題のコーナーにいた。
(正確にはレイの親衛隊が、遠く離れていたんだけど・・・)
 最初こそは、望に何があったか聞こうと考えていた甲斐だったが、それもなんだか面
倒くさいと言うか、悔しい感じがしたので、現場に来てみたのである。
 このぐらいの時間になると、走っている車も少ないので(走ってくれば音で分かる)
道路上を歩いていた甲斐が、口を開いた。
「なるほどね、そう言うことか・・・」
 独り言と言うわけでもなく、さりとて、レイに語りかけると言った口調でもない、そ
んな中途半端な感じでそう言った甲斐に、レイが聞き返した。
「分かったんですか?」 
「これ、見てみろよ」
 そう言って、甲斐は自分の足元に近い、アスファルトを指差した。
「?」
 そう言われ、レイがそこを見てみると、そこには何本かのブラックマーク(急ブレー
キをしたりすると、地面に残るタイヤの後のことです)が、交差しながら残されてい
た。
 甲斐が指し示していたのは、その内の1本だった。
「多分、間違いなくこのブラックマークだよ。この先・・・」
 甲斐があごで指し示した先に、レイは視線を向ける。そこにはセンターラインと、そ
の上に規則的に設置されていた、キャッツアイ(センターライン上で光るあれです)が
あり、ブラックマークはそのうちの一つに向かって伸びていた。
 それが何を意味するものなのか、レイはしばし考え込んでしまったが、やがて、はっ
とした表情になって、甲斐に顔を向ける。
「どうやら分かったようだな。藤崎さん・・・、いや、180SXは、それを利用した
んだよ」
 なぜか詩織の名前を出すことをためらい、言い直してしまう甲斐だった。 
「オーバースピードで突っ込んで、本当なら、アンダー(正確にはアンダーステア)が
出るところなんだが、それを利用して、車の向きを変えたんだ。
 ま、アンダーが出る要因は様々あるんだが、強引に言ってしまえば、フロントにグリ
ップが足りない、と言うことだ」
 甲斐は左手の手のひらを地面に向け、それを車の挙動に見立てながら、身振り手振り
を交えながら説明を続ける。
「そこで、やや流しながら突っ込んで、イン側のフロントタイヤの内側に、そこのキャ
ッツアイを引っ掛けて、強制的にオーバーステアを発生させるんだよ」
「そんな事出来るんですか!?」
 質問と言うより、ほとんど絶叫に近い声で、レイが聞き返した。
「理論的にはな。
 だが、実際やろうとする奴はいないだろうな。滅茶苦茶難しい上に、下手をすりゃ、
ドッカーーンだ。
 それに、どこででも出来ると言うわけでもないからな・・・」
 甲斐は、自分自身が出した結論自体には確信があった。だが、それが実感できるかと
言うと、それは全く別で、その表情には”信じられない”と言う成分が見え隠れしてい
た。
 レイにもその気持ちは充分に分かるので、同様の表情を浮かべるだけだった。
「ま、なんにしても・・・」
 やや空気が重くなったのを見計らったように、甲斐が言った。
「面白そうだと思っていたが、すでにここまで面白くなるとはな・・・。
 なあ、レイ」
「はい?」
「例のプロジェクト、一部のスケジュールを早めてもいいか?」
 レイは、一瞬、驚いたような表情になったが、すぐに嬉しそうな表情になってから答
えた。
「お兄様が仕切って下さるのでしたら・・・」
 レイの答えに、甲斐は”言うようになったな”とでも言いたげな視線を向けながら、
それでいて楽しそうに笑った。
「そうか、それなら、あの海浜公園の駐車場と、きらめきサーキットの件、進めておこ
うか?
 あとは、それの全国展開だな」
 その後、二人は断片的な単語の会話を、二三、交わした後、甲斐のプリメーラに乗り
込んだ。
 イグニッションをひねり、エンジンに火を入れながら甲斐は思った。
『面白い事は面白いだろうが、来年は忙しい年になりそうだな』
 きらめき市は新年を迎えようとしていた。
(って、日本全国そうなんだけどね(笑))
 
 
 
to be continue RZM-2「10」
 
 
 
     第10回 「新しき年に」
 
 
 
 新年が明け、穏やかな元旦となったこの日、人思は自宅でのんびりしていた。
 両親より早く帰って来たため、家には人思一人きりであったし、出かける用事も無
い。要するに、特にすることがある訳でもなく、TVなどを見ていた訳なのだが、来客
を告げるチャイムが鳴り、人思は玄関に出向いた。
「明けましておめでとう。トシくん」
「あ、ああ、おめでとう、詩織」
 そこに立っていたのは、詩織だった。
 正月に付き物の晴れ着を、見事に着こなしている詩織に、人思はしばし見とれてしま
うのだった。 そんな人思に、詩織は微笑みながら言った。
「トシくん、今、暇?」
「ん? ああ、暇だけど・・・、と言うより、何もすることがない、というのが本当の
所だな。 それが?」
「それなら、今から初詣でに行かない?」
「え? ああ、いいね。行こうか」
 考えてみれば、晴れ着を着ている詩織が、わざわざ訪ねてきたのだから、今日という
日を考えれば解りそうなものではあるが、そこまで考えが及ばなかったのである。
(気付けよ)(^_^;)。
 
 
 神社についた詩織と人思は、ゆっくりと境内を歩いていた。
 お参りも済ませて、これからおみくじでも引こうか、と言うところだった。
「トシくんとこうやって歩くのも、随分久しぶりね」
「そうだな。いつも、なんだかんだで慌ただしくって、初詣も、なんとなく急ぎ足だっ
たからな。
 それに、詩織は公の方に、目が行ってたから、二人で歩くこと自体が少なかったせい
もあるけどね」
 少しばかり、冷やかすような人思の視線に、詩織は一瞬ハッとしたような表情になっ
たが、すぐに頬を軽くふくらませる。
「意地悪、言うのね。あ、あの時は・・・」
「まあ、いいさ。それは置いておこう」
 人思はそう言って、自らの切り出した話題を打ちきった。詩織はやや不服そうだった
が、何かを言い返せるわけでもなく、そのまま黙り込んでしまった。
 人思はそんな詩織を見て、話題を変えようとした。
「・・・ところでさ、詩織」
「なによ」
 詩織の口調は、まだ、不満そうだったが、人思は”後戻りは出来ないよな”と、話を
続けた。
「詩織は、進路、どうするの? 進学?」
「もう、この時期になって、何言ってるのよ」
「じゃあ、進学か・・・、まあ、詩織なら、それも当然かな?」
 人思の声に、詩織の表情のトーンが、少し下がった。
「と言っても、大学に行って、何かをするわけでもないのよね。
 自分が何をしたいのか、まだよく判っていないし、ただ単にモラトリアムなんでしょ
うね。情けないけど」
「うーーん。まあ、、そう言う考え方もあるけど、それはそんなに考え込むことはない
だろ?
 そう言うのは、誰にだってある事なんだから」
「・・・そう言ってもらえると、少しは救われるわね。
 ともかく、今決まっているのは、家の手伝いをしながら、大学に通う、って事になる
でしょうね」
「家の手伝いは続けるのか・・・」
「しょうがないじゃない。拓也兄さんがいないんだもん。
 私がやるしかないでしょ?」
 詩織の出した名前に、人思はわずかに反応した。
「拓也兄さん、その後、どうなの?」
「音信不通!」
 一言で詩織が言いきってしまったため、人思は何も言えず、会話が途絶えそうになっ
てしまい、詩織は慌てたように続けた。
「イギリスのレーシングチームに行ってから、全然連絡がないのよ。
 手紙を出しても返事はないし、世界中を飛び回っているせいなのか、電話じゃ捕まら
ないし、・・・ ほんとにもう、男の人って・・・」
「ふーーん」
 結局、人思はそれについて何も言えなかった。
 そして、よせばいいのに、(知らないこととは言え)余計な事を言い出してしまうの
である。
「ところでさあ、公はどうしたんだ? 誘わなかったのか?」
「・・・公くんは、清川さんと、初日の出を見に行ったんだって」
「あ」
 再び不機嫌になった詩織の声に、人思は内心だけで、頭を抱えるのだった。
(おバカ・・・)



 その頃、詩織と人思が話題にしていた人物、公と望はスカイラインの車内にいた。
 と言うより、出るに出られない。と言うところか?
 二人で、初日の出を見に行った所までは良かったのだが、帰りに初詣でもしようと、
大きい神社に寄ろうとしたのだが、そこで、”初詣渋滞”とも言えるものに引っ掛かっ
てしまったのである。
(とは言え、初日の出の帰り道には、そういう事になりがちだね)
 そうなっては、ただひたすら、車の流れに任せるしかなく、する事が無くなってしま
うのである。もっとも、今日は時間的には余裕があるので、特に焦る必要もなく、二人
はのんびりと、車内で会話を楽しんでいた。
「あー、俺も四輪の免許、取りたいなあ・・・」
 そんな中、ふと、助手席で、独り言のように漏らした公の言葉に、望は公のほうに顔
を向ける。
(渋滞で、車が止まっているから、出来るんですね)
「取ればいいじゃない。公くんだったら、簡単に取れるわよ」
「そうかなあ?」
「うん。私が保証するよ」
 望がそう言うと、公は照れくさそうに笑いながら、それに答えた。
「清川さんがそう言ってくれると、何だか自信が持てちゃうな。
 ・・・でも、やっぱり、今は取れそうにないなあ・・・」
「・・・やっぱり、勉強、大変?」
 そう聞いた望の声は、公を気遣う、心配そうなものになっていた。
「うん、今、最後の追い込みに入っているからね。免許を取る暇は、とてもないよ」
「そうか、さすがの公くんでも、勉強は大変なんだね」
「さすがに、てのは、やめてよ。ただ、単に必死にやってきただけなんだから」
「そう?」
「そうだよ。俺からすれば、清川さんの方がさすがだよ。車でもバイクでも、もちろん
水泳でも速いんだから」
「うーーん。でも、藤崎さんに敗けたよ。私」
「詩織は・・・」
”詩織は特別だよ”と言おうとした公だったが、今一歩のところで、言葉を飲み込ん
だ。
「まあ、そのあたりは、得意不得意、というもんなんだろうね。
 清川さんだって、まだ、4輪は始めたばかりなんだから・・・」
 公のその言葉に、望はピクリと反応した。
「私、もっと走り込めば、藤崎さんに勝てるのかなあ?」
「な、なんで、そこで勝敗にこだわるの?」
「・・・」
 公の問いに、望は答えなかったため、それ以上会話が続かず、その後しばらくの間、
二人の会話が途絶えてしまうのだった。



 詩織と人思は神社でお参りをすませた後、そろっておみくじを引いた。
 二人とも大吉だったため、なんとなくいい気分で、神社の階段を降りていった。
 その時、詩織が歩みを止めた。
「?」
 人思がそれに気づき、詩織の方に顔を向ける。すると、詩織が階段の下のほうに視線
を向けながら、決して大きくはないが、はっきりとした声を上げる。
「虹野さん?」
 その視線の先に、人思が目を向けると、そこには青みがかったショートヘアの女性が
階段を上がって来ていた。
「虹野さん」
 先程よりはっきりと、詩織がそう言うと、その人物、沙希が視線を上げる。
「あれ? 藤崎さん?」
 詩織は階段を降り、沙希は階段を上がり、互いに近づいて、改めてあいさつを交わ
す。
「明けましておめでとう、虹野さん」
「おめでとうございます」
 そんなあいさつを交わす二人の階段の上の段に、人思が立った。
「この方は?」
 それは人思と沙希、二人同時に出た言葉だった。
 人思と沙希が、互いに初対面だということに気付いた詩織は、お互いを紹介し始め
た。
「トシくん。こちらは虹野沙希さん。サッカー部のマネージャーをしていたんだけど、
去年の夏には、自動車部で一緒だったの」
 まず、人思に沙希を紹介してから、沙希を人思に紹介した。
「こちらは、君本人思くん。私と公くん、共通の幼なじみなの。
 3年ほど、アメリカに行ってた・・・」
「2年と8カ月」
 人思が細かく指摘する(ツッコミとも言う)。苦笑いを浮かべながら、詩織はその指
摘を受け入れる。(内心で”はい、はい”と言いながら・・・)
「2年8カ月振りに日本に帰ってきたの。進学のためにね」
「そうなんですか。あ、・・・はじめまして、虹野沙希です」
「はじめまして、君本人思です」
 その後、会話を交わしたのだが、ふと、詩織が沙希に言った。
「虹野さん、今日は一人なの?」
 詩織の言う通り、初詣と言う状況にもかかわらず、沙希は一人でいたのである。
「え? う、うん。ちょっとね」
 沙希は言葉を濁すようにそう答えた。詩織は深く考えずに、というか、ほとんど何も
考えずに、ぼそりとこう言った。
「ひょっとして、公くんの家に行ったの? 公くんなら、望さんと初日の出を見に行っ
たそうよ」
 詩織にとって、確かにそれは何気ない言葉だった。
 しかし、それは予想以上に、沙希には厳しい言葉になったようで、沙希の表情がひき
つり固まってしまった。
『あちゃあ、公の奴も、罪なことだなあ』
 沙希の表情で、全く事情の知らない人思でさえ、大体の事が飲み込めてしまうほどだ
った。
 当然、自分の言葉が失言、少なくとも失言の一卵性双生児に当たるものだった、とい
う事は詩織にも判り、言葉が継げなくなってしまうのだった。
 よって、新年だというのに(笑)、3人は重苦しい雰囲気に、しばしの間、飲み込ま
れてしまうのだった。
「あ、私、お参りがあるから・・・」
 そんな気配を何とか切り抜けようと、沙希はそう言って、詩織と人思に軽く頭を下げ
てから、石段を上がっていった。
「あ、虹野さん・・・だったよね」
 その沙希の背中にそう呼び掛けたのは、肩ごしに顔を上向きにする人思だった。
 詩織と沙希、二人が不思議そうな表情で見つめる中、人思は構わず続けた。
「鳥居の外で待っているから、よかったら、お参りの後、どこかで話を聞かせてくれな
いかな?
 元旦でもファミレスや、ハンバーガーショップぐらいは開いてるだろうからさ」
「?」
 最初、詩織も沙希も、人思が何を言っているのか、理解できないようだった。
「俺が知らない間に、何があったか、じっくり聞きたいしね。
 特に、4耐の話なんか、面白そうだしさ」
 にこやかに笑いながら人思がそう言うと、沙希は、なぜか、なんの抵抗もなく、その
提案を受け入れてしまった。 
「はい」
「じゃあ、待ってるから」
 沙希が小走りで石段を上り、その頂上から姿が消えると、まったく蚊帳の外になって
しまった詩織が、ようやく口を開いた。
「トシくんって、こんなに手が速かったかしら?」
 その声には、人思にだけ(公にも?)通じるような毒が含まれていたが、人思は全く
意にも介さないようだった。
「これでも、詩織のフォローをしたつもりなんだけどな」
 詩織は、人思の言葉を最後まで聞くこともなく、先に石段を降りていた。
「はい、はい。そういう事にしておきましょうね」
 やや冷めた、それでいて、楽しいような口調の詩織の言葉に、人思も同じように答
え、詩織の後を付いていった。
「そうしてくれると助かるな」
 独り言のように人思はそう言ったが、詩織は何も言わなかった。
 
 
 
 9階建てのマンションの、5階のワンルームの一室で、甲斐はあぐらを組みながら、
ちゃぶ台の上のノートパソコンのキーを叩いていた。
 元旦から何をしているのか? とも思えるのだが、その姿は、さらに新年からは程遠
い、いでたちだった。
 ノートパソコンの横の灰皿には、吸いがらが山のように積み重ねられ(パソコンに良
くないよなあ・・・)、部屋の中は乱雑を極めていた。
 服装もトレーナーにジャージ姿と言う、くずれ切った物なのだが、それ以上に、煙草
をくわえたその表情からは、疲労感が漂っていた。
 うっすらと無精ひげをはやし、目の下に”くま”が出来ており、その肌の色もすこぶ
る悪い。
 恐らく、徹夜でもしただろうと言う事は、想像に難くない。だが、ただ一つ、その眼
光だけは鋭く、険しいものになっており、それだけは疲れと言うものを微塵も感じさせ
ないでいた。
”ピンポーーン”
 その時、玄関(と言うよりも、単なるドア?)に来客を告げるチャイムが鳴った。
「・・・?」
『誰だ?』と内心で思いつつ、くわえていた煙草を灰皿に押しつけ、甲斐はドアを開け
た。
「ゆかりんか」
 甲斐の目の前、マンションの殺風景な通路には、むしろ不似合いな華やかな、振り袖
姿のゆかりが立っていた。
「ありゃあ、こりゃまた、綺麗になっちゃったねえ」
 ほとんど無意識の内に、そう言った甲斐に、ゆかりはにっこりと微笑みながら、いつ
もの、ゆったりとした口調で答える。
「そうですか? たとえ、お世辞でも、うれしいですねえ」
「お世辞じゃないさ・・・」
 そこまで言って、甲斐は思い出したように言った。
「おっと、忘れてた。明けましておめでとう」
「はい、明けましておめでとうございます」
「ところで、今日はどうしたの?」
「どうした? と言いましても、新年の、ご挨拶に、おうかがいしたのですが・・・
 ご迷惑だったでしょうか?」
 不安げなゆかりの表情に、甲斐は慌てて首を振る。
「そ、そんな事あるわけないだろ。ゆかりんなら、いつでもOK、なんだけど、今はそ
の・・・」
 と、そこまで言って、わずかに顔を後方に向け、視線を見るも無残に散らかっている
室内に向ける。
 ”なんだろう?”と、ゆかりがつま先立ちで、甲斐の肩ごしに室内をのぞき見る。ワ
ンルームで、何も仕切りがないから、室内は丸見えである。
 苦笑いを浮かべる甲斐に、ゆかりは笑顔をそのままにして、こう言った。
「こんな事だろうと、思って、おりました。
 よろしければ、少し、私が、片付けいたしますが?」
 これは一応、疑問文になってはいるが、昔からこういう時には、結局、押し切られて
しまうので、甲斐はそれを否定するような事はしなかった。
 そうしているうちに、なぜか、持っていた(笑)たすきを、手慣れた手付きで両肩に
かけると、ゆかりはゆっくりと、だが、てきぱきと部屋を片付け始めた。
『あーあ、せっかくの晴れ着だと言うのに・・・。ゆかりんは、こういうところ、全く
気にしないからなあ』
 火のついていない煙草をくわえ、甲斐はベッドに横になりながら、そう思った。
 結局、居場所がないので、ベッドの上に避難(?)しているのである。
 甲斐が思ったように、確かに、晴れ着で部屋を片付けるなどと言うのは、かなり、奇
妙な光景である。
 そんな折、ゆかりがノートパソコンをのぞき込んで言った。
「これは、何をされていたのですか?」
「ああ、それね。まあ、市の土地を借りるという契約書のひな型なんだ。
 なんせ、ちょっと過去に前例のない契約になってるんだ。
 それで、難儀してるんだが、役所の仕事初めの日には持っていきたいから、今のうち
にやっておこうと思ってね。それで結局、徹夜になっちゃったけど」   
 ばつが悪そうに甲斐は笑った。そんな甲斐に、ゆかりは、片付けの手を休めながら、
ゆっくりと言った。
「私には、難しいことは、判りませんが、あまり、無理は、なさらないで下さいね」
「ああ、なるべくそうしたいね」
 なんとはなしにそう答え、甲斐は部屋を片付けている、視界の中で横になっている、
ゆかりをぼんやりと見ていた。
「それにしても、ゆかりんは、いい娘に育ったなあ。手際はいいし、気が付くし、いい
お嫁さんになるよ」
 甲斐が、実感のこもった声で、静かにそう言った。
「でも、それには、お相手が、いらっしゃらないと・・・。
 甲斐お兄様は、いかがですか?」
「ああ!? 俺かい?」
 驚いた声を出した甲斐に、ゆかりは、くすくすと笑った。
「冗談ですよ。・・・でも、小さい頃、そんなお話も、しましたねぇ」
「ああ、確かに、そんな事もあったね」
 冗談とは言え、ゆかりの口から、そんな言葉が出たことに驚きながらも、甲斐は内心
ではホッとしたのも事実だった。
『あの、おやじさんの義理の息子になるってのは、ちょっとなあ』
 と思うのだった。(笑)
  
 
 しばらく、ゆかりの片付けしている姿を眺めていたのだが、さすがに徹夜はこたえた
上に、変な風に安心したと言うのもあるせいか(?)、甲斐は不意に睡魔に襲われた。
「ふわぁ」
 甲斐が記憶しているのは、自分が小さなあくびをした事だった。
 一人暮らしの甲斐にとって、自分以外の人間がおこす生活の音と言うものは、妙に安
心感を呼び起こし、決して耳障りなものにはならず、むしろ心地好いものになってい
た。
 そのまま深い眠りに落ちた甲斐に、ゆかりが気が付いた。
 ゆかりは甲斐を起こそうとはせずに、静かに毛布を甲斐にかけ、
「今年もよろしくお願いいたします」
 と、静かにそう言った。
 
 
 
to be continue RZM-2「11」(第3集)
 

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